表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/80

01 美味しさのスパイス

 ふと、意識が目覚めた。


 まぶたが重たい。でも二度寝したくなるほどの眠気はない。


 ゆっくりと上体を起こしながら、スマホを手探りする。枕元の左側にあるはずなのに、なぜか見つからない。


 寝相が悪くて敷布団から弾き飛ばしたのかもしれない。


 そう思い、左手を伸ばしたら、


「え――」


 指先は想定していた畳に触れることなく、バランスを失った身体が中空へと落ちた。浮遊感を覚える間もなく――ドンッ!


「いててて……」


 と、強い衝撃を受け、あれほど重かったまぶたがあっさりと開いた。


「……ここはどこ?」


 目の前に広がるのは、見知らぬ寝室。


 部屋の真ん中には大きなベッド。その両端にはサイドテーブル。家具はそれだけ。眠ることだけを目的とした、文字通りの寝室だった。


 昨晩のことを思い出す。


 段ボールの中、体育座りで子猫を抱えていた――そこまでは覚えている。けれど、この部屋で目覚めた経緯に繋がらない。


 監禁されているわけではないと祈りつつ、部屋の唯一の出入り口であるドアノブを、恐る恐る握った。


 驚くほどあっさりと開いた扉の向こうには、リビングダイニングが広がっていた。


 左手には対面式キッチンとダイニングテーブル。


 右手にはテレビ、ローテーブル、そしてコーナーソファ。


 寝室に覚えがなかったように、この団らんスペースに見覚えはない。


「あ、やっと起きた」


 ふいに、そんな声がした。


 視線を向けると、ソファーに座る女性がこちらを見ていた。


 とても綺麗な人だった。


 しかし、その魅力を詩的に表現するだけの語彙力は、残念ながら僕にはない。だから浮かぶのは、髪はショートボブ、瞳が大きい、肌が白い、スタイルがいい――そんな直接的表現ばかり。唯一ひねることができるとしたら、


『月のように美しい金色の髪』


 月並みながら、彼女の中に月を見出したのだ。


 とはいえ、それ以上は出てこない。せいぜい『大学生くらいの綺麗なお姉さん』くらいしか浮かばない。これが僕の語彙力の限界であった。


 彼女はふと視線を外し、テレビの上にかけられたアナログ時計を見た。


 時刻は丁度、一時を示している。


「十二時間睡眠だよ、ヤバいね」


 手のひらを口元に添えながら、彼女はおかしそうに笑っている。


 その態度は、親しみというよりも気安さが近い。けれど不快ではない。むしろ必要以上の緊張を和らげてくれる。


 少なくとも、悪い人ではない。


 この状況下で、それはなによりも安心できる要素だった。


 安心といえば――


「その猫」


 ふと、彼女の膝の上に見覚えるのあるものを見つけた。


「ああ、そうだそうだ」


 彼女は子猫を抱き上げ、自分の方へ向ける。


 まじまじと見なくてもわかる。間違いなく、昨晩の子猫だ。


「この子、君と一緒に捨てられたの?」


「え、一緒に捨てられたって?」


「だって君、この子と段ボールに入ってたから」


「それは……」


 言葉に詰まり、視線を落とした。


 我ながら、随分な奇行に走ったものだ。


 追い詰められていたとはいえ、捨てられた猫と一緒に段ボールに入るなんて。普通なら通報されていてもおかしくない光景だ。まあ、それでやってくるお巡りさんに頼れず、あんな状況になってしまったわけだが。


 あんな姿を知り合いに見られなくてよかった――と、思い出した。


 パラパラと降る雨の中、そっと差し出された傘。


 見上げた先にいたのは――目の前の彼女だった。


「あの――」


 言葉を発しようとした瞬間、ぐぅぅぅ~~~……、と大きな虫が鳴いた。


 かっと、頬が熱くなる。


 虫の居所がわかっている女性は、おかしそうに立ち上がった。


「大したものは用意できないけど、嫌いなものはある?」


「……ありません」


 昨日、飲み食いしていない腹の虫が、喜ぶようにまた鳴いた。




     ◆




「はい、召し上がれ」


 ダイニングテーブルに差し出されたのはカレーだった。


 皿に移してレンジでチンしたレトルトカレーの上に、同じくレンジでチンしたパックご飯が乗せられていた。さながらカレーという海に浮かぶイカダのような様相である。


 綺麗なお姉さんの手料理。そんな男心くすぐられるものを期待していたわけではない。ないのだが……それにしても、これは潔すぎる。


「いただきます」


 手を合わせ、スプーンを口に運ぶ。


「……っ」


 思わず涙が零れそうになった。


 カレーが辛かったからではない。


 カレーが不味かったわけでもない。


 空っぽの胃に染み渡る温かい一口。それが心に沁みたのだ。


 ペットボトルを片手にキッチンから戻ってきた女性が、空の皿を見て目を点にした。すぐにその顔は面白いものを見つけたように緩んだ。


「おかわり、いる?」


「あ……お願い、します」


 遠慮する間もなく、差し出された好意をペットボトルの水と共に受け取った。


「ただのレトルトなんだけど、そんなに美味しかった?」


「はい。今まで食べた中で、一番……」


 素直な気持ちで答える。


 ただのレトルトカレーかもしれない。それでも不幸のどん底で差し伸べられた温かみこそが、この味を格別とするスパイスにしたのだ。


「一番って。また大げさだなー」


 女性は笑いながら皿を下げ、キッチンの中へと回る。


 対面式キッチンということもあり、カレーを用意する様子が自然と目に入った。


 ご飯を温めている間に、レトルトカレーの紙箱を開封しパウチを取り出し――


「……あ」


 身体が凍りついた。


 高級感漂うレトルトカレーの紙箱。その商品名にはこう書かれていた。


『松阪牛 ビーフカレー』


 脳裏をよぎる値段。


 遅れてやってくる遠慮の二文字。


 しかし、時すでに遅し。二杯目のパウチは開封済みだった。


 差し出されたおかわりを、今度は恐る恐る味わう。心理的要因を加味するまでもなく、今までで一番美味しいカレーであった。


「おかわり、いる?」


「いえ、ごちそうさまでした……!」


 額に浮かんだ汗。それがカレーのせいでないことは間違いなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
百合の間に挟まるな! ~脅迫NTRもの展開を阻止した結果、百合の間に挟まれた件~
並行して連載しておりますので、こちらもお目通し頂ければm(_ _)m
― 新着の感想 ―
普通に高いからうまいんかい!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ