01 美味しさのスパイス
ふと、意識が目覚めた。
まぶたが重たい。でも二度寝したくなるほどの眠気はない。
ゆっくりと上体を起こしながら、スマホを手探りする。枕元の左側にあるはずなのに、なぜか見つからない。
寝相が悪くて敷布団から弾き飛ばしたのかもしれない。
そう思い、左手を伸ばしたら、
「え――」
指先は想定していた畳に触れることなく、バランスを失った身体が中空へと落ちた。浮遊感を覚える間もなく――ドンッ!
「いててて……」
と、強い衝撃を受け、あれほど重かったまぶたがあっさりと開いた。
「……ここはどこ?」
目の前に広がるのは、見知らぬ寝室。
部屋の真ん中には大きなベッド。その両端にはサイドテーブル。家具はそれだけ。眠ることだけを目的とした、文字通りの寝室だった。
昨晩のことを思い出す。
段ボールの中、体育座りで子猫を抱えていた――そこまでは覚えている。けれど、この部屋で目覚めた経緯に繋がらない。
監禁されているわけではないと祈りつつ、部屋の唯一の出入り口であるドアノブを、恐る恐る握った。
驚くほどあっさりと開いた扉の向こうには、リビングダイニングが広がっていた。
左手には対面式キッチンとダイニングテーブル。
右手にはテレビ、ローテーブル、そしてコーナーソファ。
寝室に覚えがなかったように、この団らんスペースに見覚えはない。
「あ、やっと起きた」
ふいに、そんな声がした。
視線を向けると、ソファーに座る女性がこちらを見ていた。
とても綺麗な人だった。
しかし、その魅力を詩的に表現するだけの語彙力は、残念ながら僕にはない。だから浮かぶのは、髪はショートボブ、瞳が大きい、肌が白い、スタイルがいい――そんな直接的表現ばかり。唯一ひねることができるとしたら、
『月のように美しい金色の髪』
月並みながら、彼女の中に月を見出したのだ。
とはいえ、それ以上は出てこない。せいぜい『大学生くらいの綺麗なお姉さん』くらいしか浮かばない。これが僕の語彙力の限界であった。
彼女はふと視線を外し、テレビの上にかけられたアナログ時計を見た。
時刻は丁度、一時を示している。
「十二時間睡眠だよ、ヤバいね」
手のひらを口元に添えながら、彼女はおかしそうに笑っている。
その態度は、親しみというよりも気安さが近い。けれど不快ではない。むしろ必要以上の緊張を和らげてくれる。
少なくとも、悪い人ではない。
この状況下で、それはなによりも安心できる要素だった。
安心といえば――
「その猫」
ふと、彼女の膝の上に見覚えるのあるものを見つけた。
「ああ、そうだそうだ」
彼女は子猫を抱き上げ、自分の方へ向ける。
まじまじと見なくてもわかる。間違いなく、昨晩の子猫だ。
「この子、君と一緒に捨てられたの?」
「え、一緒に捨てられたって?」
「だって君、この子と段ボールに入ってたから」
「それは……」
言葉に詰まり、視線を落とした。
我ながら、随分な奇行に走ったものだ。
追い詰められていたとはいえ、捨てられた猫と一緒に段ボールに入るなんて。普通なら通報されていてもおかしくない光景だ。まあ、それでやってくるお巡りさんに頼れず、あんな状況になってしまったわけだが。
あんな姿を知り合いに見られなくてよかった――と、思い出した。
パラパラと降る雨の中、そっと差し出された傘。
見上げた先にいたのは――目の前の彼女だった。
「あの――」
言葉を発しようとした瞬間、ぐぅぅぅ~~~……、と大きな虫が鳴いた。
かっと、頬が熱くなる。
虫の居所がわかっている女性は、おかしそうに立ち上がった。
「大したものは用意できないけど、嫌いなものはある?」
「……ありません」
昨日、飲み食いしていない腹の虫が、喜ぶようにまた鳴いた。
◆
「はい、召し上がれ」
ダイニングテーブルに差し出されたのはカレーだった。
皿に移してレンジでチンしたレトルトカレーの上に、同じくレンジでチンしたパックご飯が乗せられていた。さながらカレーという海に浮かぶイカダのような様相である。
綺麗なお姉さんの手料理。そんな男心くすぐられるものを期待していたわけではない。ないのだが……それにしても、これは潔すぎる。
「いただきます」
手を合わせ、スプーンを口に運ぶ。
「……っ」
思わず涙が零れそうになった。
カレーが辛かったからではない。
カレーが不味かったわけでもない。
空っぽの胃に染み渡る温かい一口。それが心に沁みたのだ。
ペットボトルを片手にキッチンから戻ってきた女性が、空の皿を見て目を点にした。すぐにその顔は面白いものを見つけたように緩んだ。
「おかわり、いる?」
「あ……お願い、します」
遠慮する間もなく、差し出された好意をペットボトルの水と共に受け取った。
「ただのレトルトなんだけど、そんなに美味しかった?」
「はい。今まで食べた中で、一番……」
素直な気持ちで答える。
ただのレトルトカレーかもしれない。それでも不幸のどん底で差し伸べられた温かみこそが、この味を格別とするスパイスにしたのだ。
「一番って。また大げさだなー」
女性は笑いながら皿を下げ、キッチンの中へと回る。
対面式キッチンということもあり、カレーを用意する様子が自然と目に入った。
ご飯を温めている間に、レトルトカレーの紙箱を開封しパウチを取り出し――
「……あ」
身体が凍りついた。
高級感漂うレトルトカレーの紙箱。その商品名にはこう書かれていた。
『松阪牛 ビーフカレー』
脳裏をよぎる値段。
遅れてやってくる遠慮の二文字。
しかし、時すでに遅し。二杯目のパウチは開封済みだった。
差し出されたおかわりを、今度は恐る恐る味わう。心理的要因を加味するまでもなく、今までで一番美味しいカレーであった。
「おかわり、いる?」
「いえ、ごちそうさまでした……!」
額に浮かんだ汗。それがカレーのせいでないことは間違いなかった。