17 二十一世紀最後の美少女
昨日投稿したつもりになってました。
今晩は二話投稿します。
カヤちゃんへの連絡は、特に問題もなくスムーズに終わった。
誤算があるとすれば、外に出るまでに思いのほか時間を食ったことだ。
というのも、元気いっぱいの子猫を留守番させることに、ユエさんがなかなか踏ん切りをつけられなかったのだ。後ろ髪を引かれる、という言葉をまさに体現していた。
「ごめんねー、すぐ帰ってくるからね」
「ちゃんとおやつを買ってくるから、お利口さんにしててね」
「悪戯しちゃダメだよ?」
と、大義名分のため作り上げた設定の、長期出張に出るようなテンションで、子猫に何度も話しかけていた。
結局、外に出られたのは、カヤちゃんへの電話が終わってから三十分ほど経った頃だった。
今回の目的は、僕の生活必需品の買い出し。衣類をはじめ、最低限の身の回りのものを揃えるためだ。
だからわざわざ都心まで出る必要はない。最寄り駅の周辺には、チェーンの衣料品店やドラッグストア、雑貨屋なんかがまとまっていて、日用品を揃えるには十分すぎる環境だ。
今生の別れのように、子猫と離れることを惜しんでいたユエさんは「よし、出発ー」と、軽やかに歩き出した。あれだけ大人のお姉さんを強調していたのに、まるで遠足へ向かう子どもみたいだ。
普段、彼女が夜桜ルナとして振る舞っている姿を僕は知らない。
けれど少なくとも、今目の前にいるこの人は、テレビやステージの上で輝くアイドルではなく、素のままの――等身大の女の子なんだと思う。
表舞台の顔を知らないからこそ、そのギャップがどこか現実味を欠いていて、ファンにとっては猫に小判、豚に真珠かなと、苦笑いが漏れた。
……と、そこでようやく気づく。
「よくよく考えたら、こうして出かけるのって不味くないですか?」
僕がそう問いかけると、ユエさんはキョトンとした顔で首を傾げた。
「え、どうしたの急に?」
その反応に、ますます心配になる。僕の常識が間違っているのだろうか――と、逆に不安になってしまうほどに、彼女はまったく警戒していなかった。
「こうしてふたりでいるところを、もし誰かに撮られたら……スキャンダルになりませんか?」
そう口にしながら、思わず周囲に視線を走らせる。人通りはさほど多くない住宅街だけれど、スマホひとつで誰でも撮れる時代だ。
華やかな世界で生きる人たちと並べるのもおこがましい存在だけれど、それでも僕は一応年頃の男である。そんな男とアイドルがふたりで出かけていた、なんて話になれば、ファンは必ず憤るだろうし、下世話なメディアにとっては絶好のネタになる。
夜桜ルナとしての人気のほどは知らない。けれど、知名度だけは重々承知しているからこそ、スキャンダルの当事者になる想像をするだけで、胃のあたりが重くなった。
「ツバメくん……本当にわたしのこと、なにも知らないんだね」
ユエさんはまるで珍しい生き物でも見つけたように、サングラスの奥に見える瞳を、パチパチと瞬きを繰り返す。そこに怒りや呆れはない。ただただ、ここまで自分に無知でいられる相手が存在する事実に、感心しているようだった。
「……えーと、テレビ、あんまり見ないもので」
「でも、お婆ちゃんと暮らしてたんでしょ? ご飯のときとか、テレビ流れてなかった?」
「流れてはいましたけど……女子アナが大げさなリアクションをするだけで『面白いことひとつ言えないくせに、いっちょ前にキンキンうっさいねぇ、この女は』って、すぐチャンネル変える人でして」
「あー……それなら、アイドルが出るような番組は論外か」
ユエさんは苦笑いを浮かべながら、納得したように頷いた。
婆ちゃんの横でテレビを見ることがほとんどだった僕には、アイドルバラエティの類は縁がなかった。ましてや小学生の頃からユーチューブが好きだったのだ。地上波の流行なんて、気にかけたことすらなかった。
「ナンバーワンアイドルとしての誇りはあったんだけどな。まさか、ここまでわたしのことを知らない高校生がいるなんて……ちょっと、天狗になってたかも」
「ナンバーワン……アイドル?」
「女性アイドル部門で、個人・グループ共に三連覇しました」
そう言って、ユエさんは頬の横にピースサインを添えて、得意げに笑った。
どのメディアが発したランキングなのか、それは名言されなかったが、そもそも僕が知らないだろうと見越してのことだろう。細かい部分はさておき、彼女が想像以上の大物だったという事実だけは、しっかり伝わってきた。
僕は急に落ち着かなくなって、きょろきょろと周囲を見回す。
通行人にカメラは向けられていないか?
電柱の影に誰か隠れてないか?
建物の窓からレンズが狙ってないか?
そうやって今更ながら、昨日と同じユエさんの格好は、身バレ防止の変装なのだと悟った。
「大丈夫だよ」
そんな僕の挙動不審ぶりをおかしそうに見ながら、ユエさんはくすっと笑って言った。
「今のわたしは、ただの一般人だから」
「一般人……?」
「うん。今年の一月に、引退したんだ」
「そう、だったんですか」
カメラに狙われているかもしれない焦燥感が、すっと胸の奥から引いていった。代わって、ふと湧き上がるのは、素朴な疑問だった。
「でも……どうして引退を?」
「もちろん、十億円当たったから」
ユエさんはまるで当然のことを、『わざわざ聞く?』という顔を向けてくる。
「わたしくらいの人気者になるとね、本当に大変だったんだよ。朝から晩までスケジュールはびっしり。移動中はたまったLINEの返信やSNSの更新、台本のチェック、雑誌のコメント校正……って、まあ数え切れないくらいの雑務をこなしてさ。たまのオフも、あってないようなものでさ。寝てるとき以外、ずっと働いてる感じだった」
思い出しただけでぐったりとしそうな顔で、ユエさんは肩を落とした。
「そこにさ、一生働かなくても食べていける大金が転がり込んできたの。これは神様が、おまえはもう十分に頑張った、休みなさい、ってご褒美をくれたのかなって。天河ヒメと同じ景色は見たし、自分の中では区切りがついちゃった、って感じかな」
「ってことは、デジタルデトックスはその反動で?」
僕がそう尋ねると、ユエさんはにやりと、どこか意味深な笑みだけを返してきた。
そしてなにかを思い出したように、手をぽんっと叩いた。
「あ、そうだ、ツバメくん。一緒に暮らす上で、ひとつルールを追加しとこっか」
「ルール?」
「うん。わたしのアイドル時代のことを調べるのは禁止」
「なんでまた?」
「夜桜ルナのキャッチコピー、知ってる?」
「いえ、まったく」
「『二十一世紀最後の美少女』だよ」
「……それ、またすごい謳い文句ですね。そういうのって、事務所が考えるんですか?」
「ううん。気づいたら、メディアが勝手にそう呼んでた」
ユエさんは得意げに胸を張ると、ふふんと鼻で笑った。
「そんな時代のわたしを知ったら、ツバメくん、ガチ恋しちゃいそうでしょ?」
「どれだけ自己評価高いんですか」
「なにせ、二十一世紀最後の美少女ですから」
そんな誇りを鼻にかけながら、ユエさんは小指だけを立てて、右手を僕の前に突き出してきた。
「だから、約束。ね?」
「その小指はなんですか?」
「約束を破ったら、一万回拳骨して、針を千本飲ませるっていう、怖ーい契約」
「どうしてわざわざ、物騒に言うんですか」
「はいはい。早く小指出して」
渋々右手の小指を差し出すと、ユエさんの小指が絡んできた。
「ゆーびきりげーんまん、嘘ついたら針千本のーます。指、切った!」
子どものように楽しげな声で言い切ると、ユエさんはそっと自分の小指を見つめた。
「……そういえば、指切りって初めてしたかも」
「僕もです」
「そっか……じゃあ、これがお互いの初めてだったんだね」
恥じらいを含んだような、それでいて艶っぽい声音。
その含みを悟っても、僕の顔は赤くなることなく、代わりに深いため息が漏れた。
「楽しそうでなによりです。じゃ、行きますよ」
「あ、ちょっと待ってよ、もう!」
――この指きりで学んだことがひとつある。
それは、ときに突き放すことも、健全な距離を保つためには必要だということだ。




