15 デートに行こっか
スピーカーモードではないから、電話越しに聞こえてくる婆ちゃんの声は、ところどころ掠れて断片的だった。それでもなんとなく、「孫がお世話になっています」といった定型句は聞き取れた。
「いえいえ、そんな! わたしのほうこそ、テルマサくんには助けられてばかりで」
ユエさんはそれに、いつもよりワントーン高い声で応じた。畏まった話し方は、いかにもよそ行きの響きを帯びている。
だがその一方で、体勢はというと、ソファーに足を乗せてクッションを抱えながら、背もたれにずっしりともたれかかっている。
声と姿勢のギャップがここまで露骨だと、もはや感心してしまう。
ユエさんは、保護者である婆ちゃんに、これまで挨拶が遅れたことを丁寧に詫びながら、するすると本題へ入っていった。
来週から、新事業立ち上げのために長期出張が決まっている。けれど、ペットをどうするかが悩みどころだった。出張先に連れていけるわけでもなく、預け先もすぐには見つからない。かといって、僕に毎日通ってもらうのも無理がある。
そうやって頭を痛めていたところに、今回の災害が起きた。
引っ越しシーズンも終わりかけている今、急いで住まい探しに奔走するのは得策じゃない。それならいっそ、出張が終わるまでの間、家の管理とペットの面倒をまとめてテルマサくんに任せたい――
要約すればそんな内容を、三十分以上もかけて丁寧に語っていた。
そしてその結果、
「はい。はい。こちらこそ、テルマサくんにはこれからもお世話になります」
ユエさんは、深々と頭を下げるように小さく頷いた。まるで申し訳無さが滲みでるような、控えめな仕草だ。
とてもじゃないが、自分の四倍近く生きている目上に対する態度ではない。
しかしそんな態度も見えていなければ関係ない。こちらが萎縮するほどの感謝が、漏れ聞こえてくる声音に滲んでいた。
「ええ。今、テルマサくんに代わりますね」
ユエさんはにこりと笑い、ウィンクまで添えてケータイを差し出す。
「あ、婆ちゃん?」
「いやー、今時珍しいくらい、しっかりした娘さんだねぇ、ユエさんは」
疑いの欠片もない、感心しきった声が受話器の向こうから聞こえてきた。
「年齢は四歳上だけど、学年差は三つって言ってたっけ? 三年後のあんたが、ユエさんのような大人になれている姿は、婆ちゃんはどうしても想像できないね」
「うん、それは僕も思う」
隣で耳をそばだてて、得意げにしているユエさんを、ちらっと横目で伺う。
「でもさ、そんな人から、大切な家族とお家を任せたいと言われてるんだ。今更婆ちゃんが口うるさく忠告したって、あんたにとっては承知の上だと思うから」
婆ちゃんは微笑むようにふっと息を漏らした。
「これまで通り、真面目にやんなさい。その真面目さを買ってくれてるんだから、その信頼だけは絶対に裏切るんじゃないよ」
「うん、わかった。約束する」
「婆ちゃんも、あんたのそういうところはちゃんと信頼してるからね」
「あ、ありがとう……」
現在進行形で、信頼を裏切っている僕の胸に、チクリと痛みが走る。
だからこそ、厚かましく続けるお願いは、少し言い出しづらかった。
「でもさ、学校に報告していなかったバイト先に住み込むってなると……教師的には、そうかわかった、って素直に納得しづらい思うんだよね」
「それは……その通りだね」
苦笑交じりに、婆ちゃんは困ったような声を出す。
「それも大学生くらいの、年頃の娘さんの元だしねぇ」
「変な誤解をされたくないからさ……カヤちゃんの伝手で見つかった住み込み先、ってことにできないかな?」
「そこはカヤちゃん本人に、あんたからちゃんと頼みなさい。あの子も心配していたから、一度連絡してあげな。番号、わかるかい?」
「わかんない。教えてもらえる?」
僕はスマホを取り出して、婆ちゃんに教えてもらった番号を連絡先に登録する。
「じゃあ、テル。ユエさんには、くれぐれもよろしくね」
「わかった。たぶん、またすぐ連絡すると思うから」
「いつでもかけてきなさい。じゃあね」
ぷつり、と向こうから電話が切れた。
ふぅ、と一息。とりあえず、最大の山場は越えたらしい。全身から緊張が抜けていく。
「だから言ったでしょ、大船に乗ったつもりでいなって」
それにしても、初対面の婆ちゃん相手にあれだけ喋ったはずなのに、ユエさんはやたら元気そうだ。一応、老人を騙すための嘘だったはずなのに、いたずらがバッチリ成功したときのような顔で、ピースサインなんてしている。
「あ、そうだ。カヤちゃんって人にも電話かけるんだっけ。どんな関係の人?」
「例の父親の友達です」
「そっちの説得は大丈夫そう?」
「大丈夫だと思います。婆ちゃんがOK出したって言えば、深く突っ込んでこないはずなんで」
「なら、私が出るまでもなさそうだね」
「ですね。九割九分、問題なしです」
「よし、それじゃあちゃっちゃと電話しちゃって」
ユエさんはにっこり笑って、目を輝かせながら言う。
「デートに行こっか」