13 ヤバイね
「住み込み……?」
「そう。お給金を貰ってる家政婦さんみたいに頑張るんじゃなくてさ。お母さんみたいにご飯を作って、部屋のお掃除をして、お洗濯をしてほしいの」
「……せ、洗濯もですか?」
思わず頬が熱くなる。
家事の中でも、特に洗濯はプライベートな領域だ。ユエさんの服を、自分が? いやいや、まさか下着まで?
「なにを想像してるのかな?」
まるで好物を前にした悪魔のように、ユエさんはニヤリと笑った。
……本当にこの人は、からかえる隙を見せた先から飛びついてくるな。
「ま、下着は自分でやるから。一通りの家事をお願いしたいんだよね。できそう?」
「……まあ、そのくらいなら期待に応えられますけど」
「お、強気だね」
「小さい頃から仕込まれてきましたから」
「それは頼りになるね」
ユエさんは満足げに頷く。
「それと子猫のことも協力してほしいかな。ペットを飼うのは初めてだから。お世話に慣れるまでの間、不自由はかけたくないんだよね」
「むしろそこは、積極的にやりたいです」
子どもの頃から、ペットを飼うことに憧れていた。
短い間とはいえ、可愛い盛りの子猫の世話ができるなんて。もはや仕事ではなくご褒美である。
「あとね、これが一番大事」
ユエさんは人差し指を立てた。
その口端がニヤッっというか、ニヤーっというか、ニチャってるというか。妙にねちっこく持ち上がる。
嫌な予感しかしない。
「わたしのご機嫌伺い」
ユエさんは、人を使った遊び心で膨らんだ胸を堂々と張る。
「……具体的には?」
「大丈夫、ちゃんと可愛がってあげるから」
肩の高さに上げた両手を、不安を煽るようにわきわきと動かす。
これは『ちゃんと構ってね』なんて可愛いものではない。
求めているのは遊び相手ではなく、好きにしていい玩具だった。
「家賃光熱費は気にしなくていいし、食費はもちろん面倒見るよ。むしろまとまったお金を預けるから、学校のお昼はそれでどうにかして」
玩具になる未来を考慮しても、破格の条件だった。
「それで報酬なんだけど……君、アルバイト代どのくらいもらってた?」
「頑張った月で六万くらいですね」
本物の苦学生からしたら、鼻で笑うような額かもしれない。
でも、学業を疎かにせず、汗水垂らして働いた結果の六万円。胸を張って誇れる、自分の力で得た労働の対価だった。
「じゃあ、月給はそれで」
「軽っ!」
僕が垂らしてきた汗水とは、一体なんだったのか。
そう頭を抱えたくなるが、これは美味しい話だと気を取り直す。
住み込みの間は生活費がかからず、食費までも保証されている。無駄遣いさえしなければ、夏までに給料が丸々貯まる計算だ。
それなら引っ越しの初期費用どころの話じゃない。新しい生活に必要な家具や家電も、一通り揃えられるはず。
そうやって算盤を弾いていると、
「あとね、引っ越しにかかる費用と、生活に必要なものは全部買ってあげる」
「……え?」
思考が一瞬、停止する。
「一人暮らし応援キャンペーン、みたいな抱き合せ品じゃなくてさ。君が羨ましそうに見ていた、うちにあるようなやつ。どう? 悪い条件じゃないでしょ?」
悪いどころじゃない。破格すぎる。
ひとつ条件が上乗せされた、なんてレベルじゃない。四つも五つも突き抜けた大盤振る舞いだった。
両手を上げて受け入れたい話だが――そこですぐに飛びつくほど、僕も浅はかではない。
住み込みの間にかかる光熱費に食費。
毎月の給料。
引っ越しの初期費用。
さらに、この家にあるような、家具や家電をプレゼント。
……軽く見積もっても五十万では収まらないだろう。
僕が与えられるものが十だとしたら、ユエさんは百や二百をポンと差し出してくる。
そんな一方的に大金を与えられるような話、簡単に受け入れていいわけがない。
ただでさえ、ユエさんと出会って一日も経ってないのだ。そんな相手のもとで、いきなり住み込みなんて……。
信用できる、できない以前に、問題がありすぎる。
「悪いどころか、良すぎて戸惑ってるっていうか……住み込みとはいえ、労働環境も緩いから楽しそうなのもまた……。でもそれに対しての報酬が、あまりにも破格すぎて……これじゃあ、アルバイトって感じがしないっていうか――」
「ヒモみたい?」
ユエさんは冗談を口にするような、軽いノリで即答した。
「じゃあ、そういうことで」
「そういうことって……」
「お金のことなら気にしないでいいよ」
僕の反応を見て、ユエさんは朗らかに笑いながら、
「わたし、お金持ちだから」
誇るように胸を張った。
「去年の夏、宝くじを当てちゃったんだよね」
「宝くじ、ですか」
「昼に言ったでしょ、あれ、結構当たるよって」
そういえば、そんな話をしていた気がする。
でも宝くじでお金持ちになったなんて話、どこまで信じていいのか。もしかすると、相続とかで転がり込んだ資産を、そう騙っているだけかもしれない。
念の為、踏み込んで聞いてみることにした。
「……ちなみに、いくら当てたんですか?」
「十億」
ユエさんは右手の人差し指を立て、その隣に左手で作った丸を添える。
満面のドヤ顔だ。
やっぱり冗談かと肩を落とし……いや、待て。
去年の夏、宝くじ、十億。
それだけの言葉を並べれば、自然とひとつの名前が頭をよぎる。
いやいや、さすがにそれはないだろ……
そう一度は否定するも、その考えを肯定するような符号があることに気づいた。
ユエ。
中国語で『月』という意味を持つ名前。
そして別の国では、
「……ルナ」
月を、こう呼ぶ。
恐る恐るぼくは、そのフルネームを口にした。
「夜桜、ルナ?」
ユエさんはニヤっと笑った。
次の瞬間、彼女は僕の顎に触れ、クイっと持ち上げる。
「どう、お姉さんのヒモにならない?」
艶っぽく囁かれる言葉。
その視線、その声音に込められた魅了の魔力が、理性も遠慮も、積み上がっている問題もすべて吹き飛ばしていく。
「……なり、ます」
この身をすべて捧げるように、気づけば首を振っていた。
するとユエさんの微笑みは、途端に無邪気な少女のものに変わる。
「よし。これからよろしくね、ツバメくん」
「ツバメくん?」
「お姉さんの若い燕になったから」
語尾にハートマークがつきそうな声音で、ユエさんは楽しげに笑った。
……とんでもない選択をしてしまった気がする。
でも、不思議と後悔はなかった。
夏休みまでの間、この人にいいように遊ばれるんだろうな、と思っただけだ。
格付けこそ完了しているが、それでもなすがままに受け入れるつもりはない。
「そんないかがわしい言葉を使うほど、歳は離れてないでしょう」
一矢くらいは報いる気構えで、僕は立ち向かった。
「結局、ユエさんって何歳なんですか?」
「あー、女の子に年齢を聞くのはマナー違反だよ。めっ!」
「つまり年齢に老いを感じるほど離れてると」
「ぐぐっ、その詰め方は卑怯だよ……」
悔しそうに唇をとがらせたユエさん。
これから散々からかわれ、弄ばれるだろう未来を思えば、幸先の良いスタートは切れたようだ。
「わたしの歳は十――」
そう言いかけたユエさんが、ふと口を閉じる。
この期に及んで、無意味な抵抗をしているのではない。
なにかに気を取られたかのように、視線がテレビの上を向いていた。
つられて視線の先を追うと、ちょうど十二時を回ったばかりの時計が目に入る。
「たった今、二十歳になりました」
「え……」
二十歳。
言葉遊びのようにヒモとなることを受け入れたが、疚しさや後ろめたさはあまり生まれなかった。警察の目を盗んで赤信号を横断するくらいの気持ちで、大人たちにはルール破りを隠せばいいと。
法律上、十八歳で成人とはいえ、社会が与えるのは義務ばかり。大人たちは十八歳を、自分たちの同類のように扱わず、子供扱いを続ける。
だからこそ僕たち未成年の間には、十代は子どもである、という仲間意識があった。小学生が中学生を、中学生が高校生を大人のように感じるような、年上の子どもだと。
成人済みとはいえ、僕がユエさんのもとに転がり込むのは、どこかで「ま、バレても許されるだろ」という甘えがあった。
だけど、成り立てとはいえ二十代となると話は違う。
二十代と未成年。
字面から許されない感が溢れている。
疚しさ、後ろめたさ、そして背徳感。
倫理観の警鐘がけたたましく鳴り響き、越えてはならぬ『線』が、くっきりと浮かび上がってきた。
頭の中のコウくんが、
『ワカもついに、こっちのステージに上がってきたか』
と先達者面でしみじみと笑っていた。
「大人になって最初にしたことが、子どもをヒモにするとか」
そしてこの大人は、倫理観をどこまで真面目に捉えているか知らないが――
「ヤバイね」
口元に手を添えながら、心底楽しそうに笑っていた。
少し長くなりましたがここまでが導入です。
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