11 本気になる前でよかった
どう返せばいいのか、言葉が見つからないまま目を見開いていると、
「好きになったら、報われたくなっちゃうから。叶わない想いを抱えるだけしかできないのは辛いもんね」
僕は、その言葉にただ頷くことしかできなかった。
これは、無意識の内に自分が避けてきたことだったのだろう。月に手を伸ばしたくなると、必ず傷つくことになるから。
月に手を伸ばしても、どうせ届かないのなら――
「月は綺麗だな」って、憧れるだけに留めておけばいい。
そうすれば、痛みを伴うこともないのだから。
「でも、その娘と一緒にいるのがあまりにも楽しいから、夢心地だったんじゃないの?」
「……そうですね。本当に、夢みたいな時間でした」
「だから夢が壊れちゃったのが、そんなに苦しかったんだ」
ユエさんの言葉に、僕はゆっくりと頷いた。
今ならわかる。あの絶望は、想いの押し付けだったのだ。
もし好きな人ができたとか、恋人ができたのなら、それは受け入れられたはず。でも、大人に身体を売るような真似をしていた――それだけは、どうしても受け入れることができなかった。そういうことだけはしない人、という前提という名の理想を抱いていたのだ。
現実を突きつけられたとき、こんなにも苦しかったのは、それだけ心地よい夢を見せてもらってきたからなのかもしれない
不幸中の幸いだったのは――
「だったら、本気になる前でよかったね」
その言葉に、僕は思わず苦笑し、肩をすくめた。
「ですね。このままいってたら、ガチ恋まったなしです」
それくらい、カグヤ先輩と過ごす時間は楽しかった。向けられる好意が心地よかった。
それだけに、発作のように思うことがあった。どうして僕なんかとこうして、楽しそうにしていてくれているのか。けれどその度に、求められている友達のあり方を思い出し、勘違いするなよと自分を戒めてきた。
「それを言うならVチューバーのことも、同じだね」
ユエさんが、ふと面白いことを思いついたように呟く。
「同じことって?」
「ガチ恋してたら、給料なんて取りに行ってる場合じゃなかったかも」
その言葉の意図を察して、僕は思わず吹き出した。
「ははっ、たしかに。そこまでのめり込んでいたら、一日寝込んでたかもしれません」
「生きてるって素晴らしいね」
「まったくです」
もしガチ恋していたら今頃、この世の人間ではなかったかもしれない。ユエさんと出会うこともなく、あの子猫も別の誰かに拾われていただろう。
思わぬ形で元気を取り戻したおかげで、少しだけ気持ちが前向きになった。
けれど明日からのことを考えると――
「はぁ……」
自然と深い溜め息が漏れる。
ユエさんはそれを聞いて、困ったように眉が揺らいだ。
「やっぱり、気持ちを吹っ切れない?」
「いや、それはもう大丈夫です。ただ明日からのことを考えると、それはそれでまた悩みが出てきて……」
「君の悩みは過去にも未来にも山積みか。楽しいのは現在だけだね」
「自分でそれ、言っちゃいます?」
「楽しくないの?」
「楽しい楽しい。とっても楽しいです」
「よし」
僕のわざとらしい返事に、ユエさんは満足そうに頷いた。
「それで、今一番の悩みは?」
「お金ですね」
「あー、さっき宝くじ売り場、じっと見てたもんね」
「引っ越し先、どうしようかなって。今の家賃が破格すぎて、まともに払うのが馬鹿らしくなっちゃうんですよ」
「そんなに安いの?」
「五千円」
「やっす!!」
幽霊でも見たかのように、ユエさんは目を見開いた。
「この街のどこに、そんな田舎のアパートみたいな物件があったのさ」
「そこは大人同士の友達価格ってやつらしいです」
「そうだとしても安すぎない?」
「それに加えて、事故物件でもあります」
「事故物件……」
「なんでも逃避行してきた恋人たちが、『来世でこそ結ばれようね』って心中したらくて」
「うわ……よくそんな場所に平気で住めるね」
「だって2Kで家具も家電もついてるんですよ。お得じゃないですか」
「いやいやいや! 前の住人が使ってたもの、そのまま使ってるの!? 幽霊とかでないの?」
「金縛りひとつないですね。ただ、近所にヤバイ幽霊屋敷はあります」
「幽霊屋敷?」
「なんでもその家で、過去に四〇人死んでるとかで……」
「……え、怖っ」
「しかもその家にちょっかいどころか、周りに住んでるだけで祟られるとか。大家さんから『絶対に近づくな』って、何度も念を押されました」
「今回の火事、その家が出火元なんじゃない?」
「少なくとも僕はそう疑ってます」
僕らは顔を見合わせて、同時に深いため息をついた。
事故物件とはいえ、なにも起きなければ住めば都である。近所に心霊スポットがあるのも、近づかなければ気になることはなかった。おかげで家賃光熱費、それに食費もバイト代で賄えていた。
けれど、もうあの生活に戻れないだろう。
「いい物件、見つかればいいけどな」
「そこはご両親に任せるしかないんじゃない。お金のこともあんまり気にしないほうがいいよ……と言いたいけど、お家のお財布事情とか、両親との兼ね合いとか、なにか問題でもあるの?」
どこまで話すべきか迷ったが、向こうから聞かれたのだ。ここまで来たら、隠すこともないだろう。
「うち、両親いないんです」
「あ……そうだったんだ。なんかごめんね」
ユエさんが申し訳なさそうに目を伏せる。僕は気にしないでほしいと、軽く首を振った。
「なら、昼間電話してたのは?」
「祖母です。母は僕が生まれすぐ亡くなったので、祖父母の家で育ったんですけど。中二のときに父を亡くしてからは、保護者としてただの代理じゃなくなったから」
「……そっか。それならお金のことも心配しちゃうよね」
「基本的には、父が残してくれたお金でやりくりしてて。計算では、余裕を持って私大にも進めて、就職するまで持つはずだったんですけど……」
「ここで家賃が跳ね上がると、きついか」
「ええ。大学に入ったら遊びまくるぞ、なんて贅沢なことは言いませんけど……生活費のためにバイトに明け暮れる本末転倒は避けたいなって」
「うんうん、それは悩ましいね」
ユエさんは頷きながら、ふと気づいたように首を傾げた。
「だったらさ、なんで北海道から出てきたの? お婆ちゃんの家にいれば、家賃もかからないでしょ? ……お父さんが亡くなってから、居づらくなっちゃったとか?」
「……えーと、父を亡くしてすぐ、ちょっとクラスメイトと揉めちゃって」
「お父さんのことなにか言われて、怒っちゃった感じ?」
「まあ、そんなところです」
僕は苦笑しながら肩をすくめた。
「こういうのって、相手にした時点でどっちもどっち、みたいになるじゃないですか。先生的には喧嘩両成敗で終わりかもしれないけど、そのまま綺麗に収まらなくて」
「クラスでの地位が、向こうのほうが上だったから色々とやられちゃった?」
「ええ。三年になってクラスが変わっても、あの手この手で陰口やデマを撒き散らされて。ほんとうんざりしました」
大きく息をつく。
今思えば、あれはイジメ認定される類かもしれない。でも、暴力を振るわれたわけではない。結託して無視されたり、ものを盗まれたり隠されたりしたわけでもない。直接侮辱されたわけじゃないから、証拠も集められなくて、先生に相談してもどうにもならないと諦めてしまった。
泣きたくなるほどのイジメではなかったけれど、ストレスだけが一方的に積み重なる中学生活だった。
「それが高校でも続くと思ったら、もうやってられなくて」
「進学先、みんな同じ高校に行く感じだったの?」
「そこまでの田舎じゃないです。ただ、そいつが嫌だからって、二番目の高校に通うのも癪だったから。それで父の友達が、こっちにツテがあるからって勧めてくれたんです」
「それで地元を飛び出したわけか」
納得したようにユエさんは頷いた。
「地元の友達と離れるのは、寂しくなかったの?」
「……揉めた件で、しれっと距離を置かれました」
「うわ、薄情な奴ら」
「所詮、クラスの余り物の寄せ集めですから」
僕は自虐的に笑った。




