09 それ、ファンが勝手に言ってるだけですから
今年初めて入ったお風呂は、そのまま湯に溶けてしまいそうなほど格別だった。
風呂キャンセル界隈なのかと疑われそうな感想だが、決してその一味というわけではない。普段はシャワーで済ませているだけで、湯船に浸かるのが久しぶりだったのだ。
普段の入浴時間は五分もいらない。しかし今日は、時間を忘れてしまうほどじっくりと湯に身を委ねた。肉体の疲労よりも、精神的な疲れのほうが大きかったのだろう。湯に溶け込んだラベンダーの香りが心を掴み、浴槽から身体を離そうとはしなかった。
髪と身体を洗うとき、ラベルレスのボトルディスペンサーに三択問題を迫られ、壁がけゆえの未知なる駆動機構に悩まされこそしたが、人生の中で一番快適な入浴時間であった。
レバーを上や奥に押すのではなく、まさか引っ張る仕組みだったとは……。
「お、やっとあがったー」
リビングに戻ると、まるで遅刻をからかうような口調で声をかけてきた。
「見かけによらず、長風呂なんだね」
「見かけによらずって、どういう意味ですか?」
「五分も湯船に浸かってられなそうなタイプってこと」
「……まあ、いつもはそうですけど」
図星を突かれ、肩をすくめる。
「僕、そんな風に見えるんですか?」
「清潔感って言葉、知ってる?」
「……毎日シャワーは浴びてるし、ちゃんと身体も洗ってます」
「あー、これは知らない感じかー」
僕の答えが的外れだったのか、ユエさんは顎に手を当てなら、ため息混じりに続けた。
「不潔って意味じゃなくて、自分をよく見せようって努力が見られないってこと。その髪、どうせ千円カットでしょ?」
「な、なんでわかるんですか?」
「一目瞭然。君が与える第一印象は、清潔なだけの人畜無害くん。モテるモテない以前に、女の子の視界に入らないタイプだよ」
「……人間大事なのは中身だと思います」
「それははじめましてをクリアした人が進める話ね。第一印象はね、出会った瞬間、わかりやすく見えるところで決まるんだから。今の君は、自分をよくみせる努力すらしていない、その中身が表に出ている形かな。あーあ、地顔は可愛いのになー。もったいない」
「うっ……」
最後の一言で完全に戦意喪失した。しれっと『素材はいいのに』と褒めることで、努力をしていない僕をより際立たせる。反論の余地をしっかり封じられた。
「可愛いを前提の世界で生き抜いてきた、お姉さんからのアドバイスです。まずはドライヤーを使うことから始めましょう」
この論破バトル、髪は自然乾燥派の僕は完膚なきまでに敗北した。ただ長風呂しただけなのに、まさかこんな仕打ちを受けるとは。儲かった桶屋を逆恨みしたくなる気分だ。
棒立ちのまま項垂れていると、
「ひゃっ!」
首筋に冷たいものが押し付けられた。
「可愛い反応」
ユエさんは生気を吸引する小悪魔のように、ニヤニヤと満足そうに笑っている。
言い返そうと顔を上げると、ユエさんは肩の高さで両手を上げていた。まるで降伏しているように見えるが、実際は選択肢を突きつけている。
「どっちがいい?」
その小さな手に収まっているのは、コンパクトなカップアイス。深みのあるボルドーのフタが、片方はバニラ、もう片方はストロベリーであることを示していた。
それはアイスミルクでもラクトアイスでもない、本物のアイスクリームであった。
「ストロベリーでお願いします」
「お、可愛いほうを選んだね」
たとえからかわれようとも、本物を口にできるのなら安いものだった。
結局そのままの流れで、ソファーで肩を並べた観賞会となった。それを避けるために励んだキッチン掃除だが、その苦労が報われなかったわけではない。
時刻は十一時を大きく回っていた。
ユエさんは長尺な映画ではなく、面白そうなアニメを吟味している。一話見終える頃には日付が変わるだろう。そのくらいなら、風呂上がりでリラックスしているから、変に緊張せずに済みそうだった。
そう自己分析しながらストロベリー味を堪能していると――
「あっ……」
あるアニメのサムネに目が止まり、声を漏らした。
それを聞いたユエさんの手が止まった。
「気になる作品でもあった?」
「えっと……三つ前のやつ」
「これ?」
リモコンが三回押されると、画面にタイトルがアップされた。
「『昏き虚飾の、黎明期?』
「黎明期です」
「へー……。もしかしてこれ、異世界転生ものってやつ?」
「なんでそう思ったんですか?」
「タイトルなのに長い説明文が後ろに続いてるから」
「正解です」
ユエさんの勘は鋭い。この作品は異世界転生モノだった。
「これ、好きなの?」
「一応、小説と漫画は全部読んでます」
「めっちゃ好きじゃん」
「ははっ」
僕は曖昧な顔で苦笑した。
こういう作品を好きだと思われるのが恥ずかしいわけじゃない。ただ、この作品を読み始めた理由が、今となっては苦い思い出になったから。
「じゃあ、これ見よっか」
この手の作品に抵抗はないらしい。僕が好きなら試しに見てみよう、くらいの気軽さで、ユエさんはボタンを押した。
「って、一話だけ?」
「今期から始まった春アニメなので」
「今月の初日から配信って、気合入ってるね」
「ファンの数と熱量が凄いですからね。今期の覇権だ、って盛り上がってますし」
「へー。そんなに面白いんだ」
期待しながら昏き虚飾の黎明期を再生したユエさん。その隣で、僕は既に鑑賞後の反応を予想していた。
アニメが始まると、まず目を引いたのは作画のクオリティだった。キャラデザインはブレがなく、背景との遠近感に不自然さがない。アクションシーンの躍動感も素晴らしく、キャラクターが生き生きと動いている。いわゆる神作画というやつだ。
各キャラクターの声もイメージ通りで、モブに至るまで棒読みのキャラがおらず、没入感を損なわないのが好印象だ。原作に忠実ながら、アニメならではの演出が加わり、すでに知っている物語にも新鮮さがあった。
ユエさんは空になったアイスのカップを置くのも忘れて、物語に集中していた。そしてエンディングが流れた後、口にした感想は――
「まあまあだね」
特に刺さらなかったようだ。つまらないわけではないが、続きを気にするほどでもない、そんな温度感。
「これさ、始まり方、前に見たアニメと同じなんだけど……怒られないの?」
おそらく、冒頭の婚約破棄のくだりを指しているのだろう。
「そこは王道のテンプレらしいです。理不尽な扱いからの逆転劇みたいな」
「たしかにあの王子様は嫌なキャラだから、主人公が乱入したときスカッとしたね。うん、だったら掴みとしては悪くないかも」
「あ、ちなみに主人公はユリアのほうです」
「え、そうなの? 流れ的にはヒロインにしか見えないんだけど」
「そうなんですけど、原作者が『主人公はユリアだ』って明言してるので」
「へえ……」
納得しきれない様子ながら、ユエさんは渋々受け入れた。それ以上深く突っ込もうとするほどの興味がないだけかもしれない。
「でも、こんなにアニメのスタッフが頑張ってるのに、よかったのは最初の山場だけだったな。面白くなるのはこれからってやつ?」
「キャラクターを好きになれば、ずっと面白いですよ」
「それって、好きになれなきゃ退屈なやつじゃん」
僕は応とも否とも言わず、三度目の苦笑を浮かべる。
「今期の覇権じゃなかったの?」
「それ、ファンが勝手に言ってるだけですから」
ユエさんは呆れたように眉を寄せる。