プロローグ
久しぶりの新作です!
三月の末日。
若井燕大は前世でどれだけの悪徳を積んでしまったのか。十六歳を迎えた誕生日は、その清算を求められたかのような厄日であった。
不幸の口火を切ったのは、VチューバーのSNSである。
寝起きにスマホを触っていたら、聖純セインのアカウントが久しぶりに更新されていた。喜んだのもつかの間、そこには『コロナ』『ワクチン』『マイクロチップ』『5G』『人工地震』『ディープ・ステート』『三百人委員会』など、胃が重たくなるような単語がズラリと並んでいた。
彼女は去年の十二月、配信中にうっかり卍を逆向きに書いてしまったばかりに、炎上して活動休止へ追い込まれた。そんな推しが陰謀論に目覚めてしまった現実は、胸が締めつけられるほどに痛かった。
推しの啓蒙活動にショックを受けているその裏で、第二の不幸は忍び寄っていた。
寝起きから辛い現実を目の当たりにしてしまったが、いつまでも打ちひしがれているわけにはいかない。なにせ今日は誕生日。しかもバイトの給料日だ。給料袋を手にしたら、少しは気分も晴れるだろうと起き上がった。
バイト先は個人経営の飲食店。手渡しの給料を受け取るついでに、折角だからお昼を食べていけと言われる腹づもりだった。
ところが、店に入った瞬間僕は凍りついた。
倒れている店長の腹部に、包丁が突き刺さっていた。
十時四十五分。人生で初めて救急車を呼んだ時間を、僕は生涯忘れないだろう。
救急車よりも早く、呼んでいないはずの警察はやってきた。僕が疑われなかったのは、今日シフトに入っているはずの尚子さんが不在で、連絡がつかなかったからだ。
店長は意識不明。尚子さんは所在不明。なぜこんなことが起きてしまったのか意味不明な十六歳に、ふたりの関係を根掘り葉掘り聞き出そうとするほど、警察も鬼ではなかった。それでも警察署を出る頃には、午後の三時を回っていた。
お世話になっていた店長が刺され、その第一発見者となった。
それはたしかに辛い。だが、それとは別に――
「今月の給料、どうなるんだろ……」
そんな気がかりをかき消すように、第三の不幸が目の前に現れた。
横断歩道の向こう側で、見覚えのある顔が歩いていたのだ。
竹林輝姫。僕とは天と地ほどの格差がある高校の先輩。本来なら遠巻きから眺めるだけの存在のはずだった。
だけどひょんなことから親しくなる機会に恵まれて、
「テルくんは一番のお友達だから」
いつの間にかそんな言葉をかけられる仲になっていた。
でもそれ以上の関係を望むことはない。カグヤ先輩が僕に友情を差し出してくれる理由を、重々承知しているからだ。
だからカグヤ先輩はどこまでいっても憧れの人。恋や愛なんて言葉を持ち出さず、勘違いしないよう自分に戒めている。
朝から散々な目にあったが、こんなところでカグヤ先輩と出会えたのは、病みかけた心が救われるかのようだった。
「カグヤ先――」
横断歩道を半分渡ったところで足が止まった。カグヤ先輩の隣りにいる男性に気づいたからだ。
ファッションに無頓着な自分にもわかる、品のいいスーツ姿。僕ら世代の両親くらいの年齢だが、カグヤ先輩の父親ではない。カグヤ先輩はファッション雑誌の専属モデルをしているから、その関係者かもしれないが……パーソナルスペースがあまりにも近すぎた。
――まさか。
嫌な想像が脳裏をよぎる。でもこれだけで決めつけるのは早計だ。
カグヤ先輩はそんなことをする人ではない。僕はそれを信じている。そう信じていたからこそ、彼女が男性と腕を組んだときも、二人がホテル街へと向かっていると気づいたときも、見守り続けることができたのだ。だがホテルの中へと消えていくふたりを前にしたときは、なにかが崩れ落ちるような音が聞こえた。
「ああ……」
カグヤ先輩はパパ活をしていた。
脳が壊れるような痛みが走る。
いつからそうしていたのだろう。気づけば見知らぬ公園のベンチで、沈みきった空を眺めていた。
「……帰ろう」
誰に言うでもなく呟いた。
十分後、改札で足止めされた。交通系ICカードが残高不足を示していたのだ。
真後ろのサラリーマンに舌打ちされながら、券売機へと向かう。サイフを開くとお札は一枚もなく、五十円玉と十円玉が二枚ずつあるだけ。
これでは最寄り駅までの切符どころか、駅ナカに入場する権利すら買えやしない。
結局、電車なら十分の距離を、一時間半以上もかけて歩いて帰る羽目になった。
「とんだ誕生日だ……踏んだり蹴ったりだ」
道中、恨み言をこぼしこそしたが、このときはまだ余裕があったのかもしれない。なにせ本当に余裕を失ったときは、いよいよ嘆きの言葉すらも出なくなるのだから。
このとき、最後の不幸はとっくに幕を上げていた。燃え広がっていく災厄が、なにもかも飲み込み奪い去っていたのだ。
最寄り駅に近づくにつれて、サイレンの音がより大きく響いた。
最寄り駅にたどり着いた頃には、夜空を赤く染める炎が目に飛び込んできた。
その先に足を向けたのは野次馬根性ではない。早く帰って横になりたいという欲望に、逆らう気が起きなかっただけだ。
大変なことが今、この先で起きているのだろう。それをどこか他人事のようにこの現実を捉えていた。
帰宅を妨げたのは交通規制。
片側二車線の道路。その対岸が荒々しく燃え盛っていた。
火災、と呼ぶには言葉が弱い。
これはすべてを焼き尽くさんとする災害だ。
家は大丈夫だろうか?
そんな心配すら不要だった。
あの木造アパートの末路を、この光景が雄弁に語っている。
「は、はは……」
乾いた笑いが漏れるだけで、嘆きの言葉ひとつ出てこない。
それでもまだ理性が残っていたのだろう。
今この瞬間、この惨状は公共の電波に乗っているはず。婆ちゃんに無事を知らせようとポケットに手を入れ――
「あ……」
スマホがない。
ひじりんの件で動揺し、布団の上に放りだしたまま家を出てしまったのだ。
どうするべきか悩む間もなく、つんざくような爆発音に意識を奪われた。
目を向ける。二十メートル先の建物が燃え盛っていた。対岸の火事がこちらの岸に飛び火したのだ。
パニックに陥った野次馬たちが、我先にと走り出す。他人にぶつかり、押しのけ、自分だけは助かりたいと恐怖に背中を押されていた。
ガードレールを掴みながら人波をやり過ごした自分は、トボトボとした足取りで彼らの背中に続いたのだ。
◆
帰る場所も、連絡手段も、身分を証明するものすらも失った。
残されたのは残高0のスイカと百二十円。
ほぼ着の身着のままの自分が、希望を託して向かった先は交番だった。こういう困ったときこそお巡りさんに頼るべきだと閃くも、この災害で不幸に見舞われたのは自分だけではない。
駅前の交番は、まるで砂糖に群がる蟻のように群衆がひしめいていた。その中に混ざったところで、自分の番が回ってくるなど到底思えない。
きっと、自分が思いつく程度の助けを求める先は、どこもこんな感じなのだろう。
それでも歩くのを止めなかったのは、諦めず次の場所を探し求めたからではない。次の目的を定めることもできないくせに、なにもしないままでいることができなかったからだ。
ただ、彷徨っているだけ。
どのくらいの時間、歩いただろう。その感覚すらも失って……その内、今どこを歩いているのかもわからず、彷徨っている意識すらもついには失い、ゾンビのように街を徘徊していた。
そんな生ける屍が人の心を取り戻したものは、小動物の鳴き声だ。それは足元から聞こえたもので、遅れてその立方体を蹴った感覚を思い出した。
ガムテープで閉じられた箱の中から、かすかな「みゃー」という声。
「もしかして……」
急いで開けると、思い描いていた光景が収められていた。
子猫である。薄いブルーの瞳がじっとこちらを見上げている。
そっと手を伸ばす。子猫は警戒する様子もなく、指先の臭いを嗅ぎ、やがてペロペロと舐め始めた。
「そうか……」
目頭が熱くなる。
狭い世界に閉じ込められていた子猫を抱き上げ、そっと胸に抱えた。
「おまえ、捨てられたのか」
みゃー、と子猫は応えた。
白色に近い灰色がかった柔らかい毛並み。ほんのりとお日様の香りがする。
こんなにも人懐っこいのだ。生まれたときから、人の手で育てられた子猫だろう。
どうして、こんな子を捨てたのか。その理由を考える気力はないが、それでもこの子を守らなければと思った。
とはいえ、自分も帰る場所を失った身。連れ帰る場所すらないというのに、一体この子のためになにができるだろうか。
そんなことを考えていると、
「雨……」
パラパラと雨が降ってきた。
雨を凌げる場所はないかと、周囲を見渡す。
見知らぬ住宅街の十字路。土地勘なんてあるわけもなく、駅のある方角すらもわからない。
せめて公園でもあればと考えるも、歩き詰めた疲労を今更ながら思い出した。
この子猫を助けたいという使命感の裏で、なにもかも嫌になってしまった。その折衷案で段ボールの中に座ったのだ。雨が降る中、地面に座り込むよりはマシだろうと。
雨は本降りにこそならないが、蝕むように髪や衣類を濡らしていく。
みゃーみゃーと鳴いていた子猫だが、腕から抜け出そうとする素振りはない。その内、疲れたのか眠りについていた。
自分もまた、そんな子猫に倣うようにうとうとしていると、
「わっ……段ボールに男の子が捨てられてる」
驚き混じりの女性の声が、意識を引き戻した。
頭に落ち続けてきた雨がふいに途切れた。
雨が止んだわけではない。
差し出された傘が、頭上の街灯を遮る影を作っていた。
「どうしたの。お母さんに捨てられちゃった?」
からかうような、それでいて優しい声。
そっと顔を上げる。
「行く場所がないなら――」
浮かんでいたのは、慈愛に満ちた天使の微笑みのようであり、興味を掻き立てられた小悪魔の微笑にも映った。
どちらにせよ――
「うちに来る?」
こんな綺麗な人に拾われるのなら、最悪な一日は終わったのだろう。