2 ハリソン公爵家の日常
謎の眩しい光に包まれ、私は思わず目を瞑る。
……暫くして、何故か草の匂いと、水の流れる音、そして誰かがこちらへ向かってくる足音が聞こえてくる。その足音の主は目の前で立ち止まり、興奮している様な荒い呼吸を出している。私は不審者と思い、逃げようと目を開いた。
そこには褐色で、薄水色の髪の男が、金色の瞳をこちらに向けていた。あまりにも異質すぎるその姿に、そして周りを見ればそこは教室ではなく、近くに川がせせらぐ森の中だった。
『成功だ!!105回目にしてようやく成功したぞ!!!』
その男は私の両脇に手を添えて持ち上げ、嬉しそうに叫びながら回す。姿はいい大人の男性だが、まるで少年の様に目を輝かせるものだから、この状況下の癖に私は思わず小さく笑った。……まさかそこから、戦争に参加させられるとは思わなかったが。
「お嬢様!そろそろ起きてください!」
「んぇ?」
すぐ側でメイド長の声が聞こえる。私は重い瞼を開くと、そこにはやはり長年公爵家で働くメイド長が、こちらを呆れた表情で見ていた。
その後ろに最近入った新人メイドもいるので、おそらく私を起こそうとした新人メイドは、何度呼んでも起きない私に困り、最終奥義でメイド長を呼んだのだろう。大正解だ新人よ、私は今は辞めたメイドのクロエと、メイド長の声でしか滅多に起きない。私はゆっくりと起き上がり欠伸をする。……随分と懐かしい夢を見た。そう言えば、あの精霊は今どこにいるのだろうか?今度アイザックかウィリアムにでも聞いてみよう。そう片隅で考えながらメイド達にだらしない顔を向ける。
「おはよう〜」
「もうすぐ朝食のお時間です!早く目を覚ましてください!」
「ん〜はいはい〜……むにゃ」
「お嬢様!!!!!」
「はい!!すいません!!!」
私はこれ以上メイド長を怒らせない為にも、勢いよくベッドから降り、急いで支度をした。小さい頃からここにいるメイド長には、私は家族の次に頭が上がらない。
私は10分も掛からず支度をし、急いで食堂へ向かった。途中にある調理室から漂うこの匂いは、私の大好きな焼き立てのクロワッサンの匂いだ。私は今日の朝食のメニューに心躍らせながら食堂の扉を開く。すでに自分以外の家族全員が座っており、扉の音に全員がこちらを向いた。
「おはようシトラ。今日もまるで天使の様に可愛いなぁ!」
「おはようございます、お父様」
長テーブルの一番奥中央に座るのは、我がハリソン公爵家の現当主で、私の義理の父であるヴィンセント・ハリソン公だ。義理の娘である私をとても可愛がってくれる(若干引くほどだが)優しい父である。
「ふふ、今日も後ろ髪がハネてるから、またお寝坊さんだったのかしら?」
「え!?………後で直します。お見苦しい所をお見せしました、お母様」
父の隣で微笑むのは、私の義理の母であるマリアンヌ・ハリソン夫人だ。実家はハリソン家と同じくらい歴史の古い公爵家で、物腰柔らかく気品もある美しい夫人だ。何故13年間も母を見てきたのに、私はここまで変な女になったのだろうか。遺伝子か?
「毎朝使用人達に迷惑をかけるんじゃない。昨日も夜遅くまで部屋の明かりが付いていたぞ」
「ちょ、ちょっとリリアーナから借りた本が面白くて……」
母と反対側に座るのは、私の義理の兄でハリソン公爵家の次期当主である、ジェフリー・ハリソンだ。私よりも2つ上の子息で、私に甘い父と母に代わって、私が問題を起こすと永遠と説教をしてくる人だ。でも普段は優しくて、私はそんな兄が大好きだ。怖いけど。
私がいつもの定位置に座ると、使用人達が朝食を運んできてくれる。やはり先ほどの匂いの通り、今日は焼き立てクロワッサンだ。私は思わず顔を綻ばせながらクロワッサンを口に運ぶ。……流石公爵家の料理人、相変わらず最高の焼き加減、そして弾力。この世界に口コミサイトが存在するのなら、私は迷わず星5を与えるだろう。父はそんな私を満面の笑みで見ながら、思い出したかの様に声をかける。
「そういえば、今度の建国祭ではシトラは聖女として、国外の要人の接待をする事になったのは聞いているね?」
「はむ、もぐもぐはむはむ(知っていますが、それが何か?)」
「当日は私もジェフリーも会場にいるから、何かあったらちゃんと頼りなさい。決して!決して第二王子や!ペンシュラ伯爵やカーター侯爵、聖騎士達に頼るんじゃない!わかったかい!?」
「もふふー!(はーい!)」
「ちゃんとお返事できて偉いじゃないかシトラ〜〜!!」
「………父上、妹を甘えさせすぎです。……シトラ、人と話す時は口に何も入れないで、ちゃんと喋りなさい」
「………むぐっ……はい、お兄様」
危ない、あまりにもクロワッサンが美味しすぎて、口に含んだまましゃべってしまった。その後は、兄を怒らせない様にマナーを守って食事を取った。食事が終われば父と兄は仕事へ、母は婦人会、そして私はもうすぐやって来るであろうガヴェインと散歩だ。
……そういえば、この国では貴族は婚約者を10代で持つのは珍しくなく、兄は17歳となるのに、何故婚約者がまだいないのだろうか?贔屓目でなく、兄は家柄も、顔も良い。ちょっと厳しい所もあるが基本的に優しいのに何故だ?
……いかん、この前の第一王子のお見合い話を聞いて、頭が恋愛脳になっているのか気になってしまう。私は仕事をするために次期当主の執務室へ向かおうとしている兄を後ろから引き留める為に、腕の裾を引っ張る。兄は引かれた事に驚きこちらを向く。
「っ!?……シトラ、どうかしたか?」
珍しく慌てたのか頬が少し赤い。私は兄の仕事の邪魔をしない為にも早口で伝える。
「お兄様って今好きな人いるんですか?」
「はぁ!?」
兄は更に頬を赤くしてこちらを見る。……しくじった。流石に妹に好きな人を教えるのは恥ずかしいか?あり得ないなんだコイツ、と言わんばかりの表情を向けてくる兄に弁解をしなくては。こう、可愛い妹の我儘みたいな台詞を……と、私はない頭で考える。
「ええっと……お兄様が、婚約して、結婚するのを想像して……えっと、寂しくなったと言うか」
「………………」
駄目だこれは!!これじゃあ完全に、兄離れしてないブラコンじゃないか!!兄も目を大きく開いて固まっている。でも、言っている事はひどいがその通りで、兄が婚約し、結婚した事を想像すると、今まで私を支えて見守ってくれた兄が、どこか遠くへ行くような気がして寂しい。私は自分で思っているより大分、兄を大好きだと理解して恥ずかしくなり頬が赤くなる。……しかし!しかし姉も欲しい!できればリリアーナみたいな美女がいい!私もお姉様とか言いたい!!
「………ない」
「え?」
下を向いて反省していた私の頭に、兄の手が置かれる。私は思わず兄を見るが、兄は赤くなり過ぎたのか、熱を込めた瞳を私に向けていた。その色っぽさに、今度は私が目を大きく開ける。
「俺は、お前を絶対に寂しくさせない」
そう言いながら兄は頭を一度撫でて、そのまま仕事をするために執務室へ向かった。その後ろ姿を見て、私は兄が妹を思う気持ちに感動して暫く固まり、通りがかった使用人に何度も声をかけられるまで意識が戻らなかった。……兄も、結構シスコンだよなぁ。
◆◆◆
俺は早歩きで廊下を歩き、自分の執務室に入ると強く扉をしめて、その扉にもたれ掛かりながらズルズルとしゃがみこむ。……なんだあの裾を掴む仕草は?どこで習った?可愛すぎるだろう?
……しかも、自分が誰かと婚姻を結ぶ事を寂しいと、そう言う妹は恐ろしく可愛らしい表情を俺に向けた。心臓は煩く鳴り、思わず俺が好きなのはお前だと伝えてしまいそうになった。……だが、まだ早い。あの妹は鈍感すぎるのだ、外堀を埋めるように攻めなければ、いきなり告白したとしても冗談だと思ってしまう。……妹が主役の舞踏会で第二王子が愛を伝えたのも、最終的には冗談だと片付けてしまったほどだ。本当に我が妹ながら恐ろしいほどの鈍感だ。
妹の可愛らしい表情に、姿に思わず愛を告白して口付けでもしてしまいそうになったが、俺は必死に理性で抑えて、若干抑えきれずに重い言葉を投げかけ頭を撫でた。柔らかい妹の髪の感触が、今でも残っている様に思えて、俺は思わず撫でた手を見る。
「………変態か、俺は」
成人した妹は、見る見るうちに大人の女性に、美しくなっていく。そんな愛おしい女性を毎朝毎晩、しかも寝室は隣の部屋で、なんならバルコニーは繋がっているのだ。……俺も人並みには欲はある。その内本当に襲いそうで恐ろしいが、それでも離れたくない。
こんな俺の気持ちを、あの純粋な妹が知ったら、どう思うだろうか?
まさか自分が兄の欲の対象になっているなど、全く思っていないであろう妹を思い、俺は大きくため息を吐いた。