第02話【知らないようで知っている】
非存在性症候群 [Non-existent syndrome]。通称Nose。
突如として身体の変化が起こる症状に対してつけられた名。近年密かにその名を広め始めている病のひとつ。
具体的には身体の性別が変わること、さらに言えば面影は残るものの同一人物か怪しいと言われるぐらいにその肉体は変化することとされている。
名前の由来となったように、この症状が起こった人々は当初自分を証明することが出来ず、存在しない人物のような扱いを受けたことからこの名前が付けられたという。現在では差別に当たるのではないかと議論を呼んでいるそうだ。
認知されるようになったのは、変化が起こってしまった子どもの言うことを信じた親が様々な検査を行い、その内DNA検査にして親子関係が証明され、そこから色々あって症候群として認められたそうだ。
その症候群に優希もなってしまったというのだが、一日経った現在でもそのことを飲み込み切れていない。
いつものように朝出迎えると姉弟であった三人組は姉妹となっていた。
喉につっかえていたものが取れたように、姉たちの気まずさは消え、以前のような態度を取っていた。
無論、優希も姿以外は相変わらずの様子でふらふらと眠たそうに押されてきた。
俺はその恰好に目をそらしてしまう。
優希は襟がよれよれのシャツを着ていて、胸元どころか正さなければ下着すら見えるような状態であった。
そのシャツは優希が着替える時にひとつ俺のタンスから拝借した男の時ですら優希には大きいサイズのシャツであったが、女の子になった今ではさらに大きく見え、その縦は膝上までその身をすっぽり隠している。
視線を戻すと、優希を押しながら運ぶ希乃果姉さんと目が合った。少し考えるように上を見上げたのち、優希をいつものようにこちらに渡してきた。
「は~い、パス!」
「えっ、うわっ」
驚くのもつかの間、俺は優希をその身体に受けとめた。柔らかさに気づくも意識をそらした。
「希乃果姉さん!」
「今は慣れないだろうけど、学校始まれば朝陽に頼むことになるし、夏休みの今のうちに慣れておこう!」
「慣れておこう! ……って。さすがに学校でもずっと着いて回れないですよ」
「それは……まあ、後々考えるとして」
「ええ……」
逃げるようにして希乃果姉は食卓へと去っていった。
「おい、優希」
「……なに」
「起きてるなら自分で歩いてくれ」
「寝てまーす」
わざとらしい調子で声を上げた優希に俺はため息をつくしかなかった。
優希自身が気にしてなさそうとはいえ、俺も女子の身体に触れるのは抵抗があった。しかし。優希の様子は変わらず支えなければその場に倒れそうなぐらい身体を預けてくるので、俺が運ぶ以外に選択肢はなかった。
「別に全部任せようってんじゃないわよ。女子として朝陽には言えないこともあるわ」
志希姉さんから返ってきた言葉これだった。
「……じゃあ、何を任せるっていうんですか」
「いつも通りのこと以外にないわよ」
きっぱりと志希姉さんは答えた。
いつも通りというのは何を指しているのだろうか。朝の移動はさっきも任された通りだろう。
「着替えも朝陽に任せよう」
「おい」
話に割り込む形で意見したのは優希。
「それは自分でやったほうがいいんじゃない? 優希」
「希乃果姉」
「何?」
神妙な面持ちで優希は希乃果姉さんを呼んだ。
「朝陽に全部任せた方が抜けないから任せたい」
「ダメだろ、それは」
俺のことを顧みない発言に思わず口にしていた。その様子に希乃果姉さんは楽しそうに笑った。
「あははっ。朝陽も言ってるし自分でやろうね。……今は」
「今はって言いました? ちょっと希乃果姉さん」
俺はこの人たちに振り回され続けるのだろうか。優希の症状は治る見込みどころか原因すら判明していない。いつまでこの姿でいるのか、もう死ぬまでこの姿でいるのか。
いずれにせよ。俺に拒否権はないようで受け入れてなんとかするしかないようだ。
食事も終わりそれぞれ分かれたが、優希はいつものようにソファに座ってダラダラと過ごしていた。
「優希」
「何」
寝転がった状態で顔だけ向けて、返事をした。顔を見ると自然と下着が露出している胸元も視界に入ってしまう。
「見えてて恥ずかしくないのか」
「……ああ、ブラね。朝陽なら別にいいよ。男子として見たい気持ちは分かるし。」
優希は起き上がり、視線を落としてブラ紐を触る。
「俺が目のやり場に困るんだよ」
「俺も着けたくなかったんだよ~……変な感じするし。でもつけないと痛いし……姉ちゃんたちにつけろって言われるし……」
確かに男でブラジャーを付けている人というのはそうそういない。必要がないからだ。しかし、前々から希乃果姉さんが「着けないと痛いんだよ~」とか「大きいとかわいいのがなくてさ~」なんとか愚痴っていたことも聞いたことがある。
「……そのTシャツいつまで着てんだよ。もう肩出るぐらい襟広がってんだろ」
「ずっと着るよ」
「じゃあ、下着が見えないように着てくれ」
「広がりすぎて無理」
駄々こねる子どものようにああ言えばこう言うといったような様子で、優希は拒否した。どこにでもあるようなTシャツになぜそんな愛着があるというのだろうか。
こいつ自身は改善する気がない。ならば、下着が見えても動じない心を身に着けるしかないのだろう。そんなことを思いながら部屋の掃除に移った。
「その身体になってどんな気持ちなんだ?」
「セクハラか?」
「断じて違う」
休憩がてら優希の隣に座り、率直な質問を投げかける。優希はゲーム画面から視線を外さずに答えた。
「なんか内臓なんかな、中身が変な感じあるけど、そこまでじゃない」
「ふーん」
「あ」と声を上げて、優希は手を止め顔を向けて言った。
「歩くときバランスとりづらくなった」
「バランス?」
コントローラを置き、立ち上がる。しかし、言った通りバランスがとりにくいのか少しふらついた。
「体幹が弱くなったのか、それともあるものがなくなったからかわからないけど歩こうとすると思うように力はいらないんだよな」
そう言って優希は身体の胸の当たり、腰の当たり両手でポンポンと当てて見せた。その際シャツは引き締まり、胸の突出した部分が強調される。
「ほら、触ってみろよ」
優希は俺の手を掴み、引っ張った。俺は思わぬ行動に驚き、そのままバランスを崩す。優希はテーブルの上に倒れ、俺はその上から覆いかぶさるような体勢になった。
突然の出来事に俺は頭が真っ白になった。
数秒ぐらい経って、向こうから声をかけられた。
「お前がバランス崩したら俺は支えられねえぞ」
「……っ、わりい」
バッと身体を起こし、距離を取った。視線を優希の方へと戻すと、何かを待つように両腕を天高く伸ばしていた。
「起こして」
「……」
こいつの前には女子に触ることに抵抗感があるなんて話はできないようだ。ため息をついて、俺は優希の手を取る。ぐっと力を入れて起こそうとするも腕だけ引っ張られるような形になったので、腰の方も持つようにして抱えた。
すると身体が起きた段階で、優希は腰に当てた俺の手を触り、
「ほら、柔らかいだろ。筋肉がないっていうか」
「……そうだな」
意識しているのは俺だけのようで、なんだか馬鹿馬鹿しくなる。
「女性の方が筋肉量は少ないっていうからな」
「あーなんか聞いたことあるー」
俺は優希をそのままソファに座らせた。座らせた後、優希は何事もなかったかのようにコントローラに手を伸ばし、ゲームを再開する。
この場を離れようと思い、移動する前に一言優希に告げた。
「……そんな男に身体触らせるもんじゃないだろ」
「朝陽以外には触らせんよ」
優希を見ると、優希もまた俺を見ていた。その表情は無表情なのにどこか微笑んでいるようにも見え、不覚にもドキッとしてしまった。
注意するつもりがカウンターを受けた気分だ。
次回更新は6月20日予定