第10話【彼女の事情】
それは小学生の時の話。
母は、私と弟を連れて知らない男のもとへと遊びに行った。父には内緒だと念を押されたわけだが、子どもの私はお菓子や欲しいものを買ってもらえば言うことを聞いた。
その知らない男は一見怖い見た目をしていたけど、優しく笑って何でも買ってくれた。
父には内緒だから買ったものは家に持ち帰らせてもらえなかった。
だけど、今思えばこの時からもう母は父のことが好きではなくなっていたのだろう。
男の家ではいつも弟と二人で残されて母とその男が楽しそうに声を上げていた。
当時の私には何をしていたのかはわからなかった。
ただその男の人と仲良いことだけは理解していた。
ある時から母は弟を連れていかなくなった。
私だけを連れて男のもとへと赴くようになった。
その時が初めてだったかもしれない。当時の私には何もわからなかった。
しばらくそんな日が続いて、帰宅した母に向かって弟が一言聞くと父と母は私達から離れた場所で会話をし始めた。
会話の内容は聞こえなかったけど、母の動揺した声が聞こえた。いや父もそううだったのだろう。
その日の晩、私は母に叩き起こされて夜遅くに出かけることとなった。
それが父と弟との別れになるということを知るのはもっと後のことだ。
連れていかれた先はいつも来ていた男の家。
状況は分からなかったけど、母は泣いて男に縋りついていた。
そしてまた抱き合っていた。
男の家で暮らし始めて日常は一変した。
ご飯が父の作った美味しい料理ではなくなった。
私がわがままを言うと怒られた。
父のことを聞くと怒られた。
怖くて母の言うことに従った。
男の人はおじさんというと真顔で黙り込んでじっと見つめてきた。
「パパ」と呼ぶようにと言われ、そう呼ぶとにっこりと笑った。
それから引っ越して、苗字も変えた。
転校先の小学校に通うと、見たことない場所なのに懐かしく感じた。
自分の生活が変わっていったのに、周りは変わらないことが怖かった。
異世界に迷い込んだような感覚だった。
帰宅するといつも二人の声が聞こえてくる。
父と弟がいる家に帰りたい。
それは引っ越してすぐ、そこまで日は経っていない頃。
母のお腹が膨れて妊娠しているのだと教えられた。
弟には会えないけど、新たな弟妹が出来ることは嬉しかった。
産まれたのは妹だった。
仲良くできたらいいな。
それからは母が疲れた時は家事や赤ちゃんの世話をした。
時に母はわめき散らした。
偶に私がお世話している後ろでいつもの声が聞こえた。
妹には寂しい思いをさせないようにしようと思った。
お姉ちゃんがついているからね。
それから何年か経って、私はバイトすることにした。
早く独り立ちしたかった。
あれから母は男と別れ、色んな男をとっかえひっかえしている。
母はバイトを認めなかった。
やるなら母の紹介した仕事をしなさいと言った。
それでも良いと私は働くことにした。
内容は言ってしまえば接待だ。
お客さんと過ごして、楽しい時間を過ごしてもらう。
ただそれだけ。
我慢した。
将来のため、妹のために頑張った。
時には怖い思いをしたが、お店側が守ってくれた。
服は買ってもらえず、欲しいものは変えず。
収入のほとんどは母に取られた。
ほんの少しだけ貯金していくしかなかった。
だけど、母は私のお金も使って、これでもかと言うほど着飾っていた。
男と遊んでいるのだろう。
私の服は高校に上がってから母のおさがりがほとんどだ。
母と店の人との会話を聞いて、私は身の危険を感じて飛び出した。
母にとって私は商売道具でしかなかったのだ。
きっと妹も大きくなれば利用されてしまう。
妹を連れて、出来る限りのお金を引き出して逃げ出した。
電車やバスを乗り継いで、日が暮れたらホテルに泊まった。
いつ母の手が伸びてくるか怖くて眠れなかった。
あてはなかったけど、父と弟のもとへ行きたかった。
でも場所がわからなかった。
母は教えてくれなかった。
それなら遠くへ行くしかなかった。
ずっとずっと遠くへ。
妹は最初よく喋りかけてくれたが、いつしか静かに着いてくるようになった。
そして、お金も尽きて途方に暮れた。
目の前の公園に立ち寄って座り込むしか私にはもうなかった。
その時、男女二人組がやってきて声をかけられた。
その片方が弟だったというのは奇跡なんだろうか。
***
事情を聞くと俺は何も言葉を出せず、俯くしかできなかった。
父さんも困っているようだった。
「しばらく置いてくれませんか? せめて妹だけでも」
「……」
陽葵さんは震わせていた。
「僕は構わないよ。朝陽はどう? 嫌?」
ここで嫌と言える根性は俺にはない。
俺は首を横に振った。
「ありがとう……」
陽葵さんは泣き崩れた。
妹の日和ちゃんは別室にて嶋柳姉妹と遊んでもらっている。
重い話はあまり聞かせたくないのだろう。
志希姉たちが気を利かせて請け負った。
どうしたものかと考えていると家の前に車が止まる音が聞こえ、次の瞬間には驚くほど大きな声が外から響き渡った。
「陽葵!!! ここにいるんでしょ!!!」
玄関の方からドンドンドンと音を立てて叫んでいる。
陽葵さんを見ると震えて縮こまっていた。
もしかしなくても母だろうか。
何の情報を聞きつけてここまでやってきたのか、それとも行く宛はここしかないと目星をつけられていたのか。
その怒声は続き、もはや言葉を聞き取れないほど感情に身を任せているようだった。
「僕が対応するからここから動かないで」
そう言った父さんは母に会う前に誰かに電話をかけた。
「そちらに行く」だとかなんとか。そんな話をしていた。
それから父さんは玄関から出ることはせず、庭から外に出て応対した。父さんの指示ですぐ鍵を閉めた。
しばらく両親の話し合いが続き、ピタッと静まったと思ったら車が発進した。
窓から外を見ると走り去ったのはタクシーでふたりともそこに乗っているのが見えた。
父さんと女性の姿だったから間違いないと思う。
すると、嶋柳姉妹もこちらに戻ってきた。
「何があったの?」
志希姉が戸惑いながらそう聞いてきた。
「お母さんが来ました。ごめんなさい、ご迷惑おかけして」
陽葵さんは頭を下げた。
「あなたが悪いわけじゃないから謝らないで。ほらほら顔を上げて」
希乃果姉が陽葵に寄り添った。
ひとまずは両親同士で話し合って、それでどうするか決まるのだろう。
俺たちに出来ることと言えば、今はお客さんにゆっくり休んでもらうぐらいだ。
日和ちゃんは母の怒声にも動じないぐらいぐっすり眠っていたらしい。
それを伝えられた陽葵さんも日和ちゃんのもとへ行き、緊張が解けない様子だったが志希姉と希乃果姉の勧めで横になってもらうと、眠りにつくのには時間はかからなかった。
どれだけ緊張状態で旅をしてきたのだろうか。
俺たちは毛布を掛けてやり、その場を後にした。
その後、二人が寝ている間嶋柳姉妹に陽葵さんに聞いた内容を伝えた。三人とも黙り込んで志希姉が「そう」とだけ呟いた。
数時間もすれば父が帰ってきて、話し合いで解決したらしい。
玄関の奥に止まっているタクシーに女性が乗っているのが見えた。
目が合ったので思わず逸らした。
さっきやってきた時のヒステリックな姿を思い出し、関わりたくないと思っていたからだ。
「朝陽、起こしてきてやって」
「はい」
志希姉に言われるがまま、俺は陽葵さんたちを起こしに行った、
部屋に入ると既に起きていて、日和ちゃんが寝ている横で本を読んでいた。
邪魔にならないようにここで待っていてくれていたのだろうか。
「起きたんですね」
「はい、どうかしましたか?」
「迎えが来ました。父さんたち話し合いがついたみたいです」
「……そうですか」
陽葵さんはあからさまに不満そうな顔をした。
わからなくはない。
話を聞く限り良い母親ではないのだろう。連れ戻される気分になるのも仕方ない。
陽葵さんは一度ため息をついて、日和ちゃんを起こした。
「あ、そういえばあの優希って子。もしかして前隣に住んでいた男の子ですよね」
何やら嫌な予感がした。
悪意は感じられない。
「なんで女の子の格好しているの? 心が女の子とか? いや本当は女の子だったとか」
「……色々あったんです」
「でも男なら、女のフリしているとかキモくない?」
「いえ別に」
俺の表情は怒っているように取られたのかもしれない。
表情を見た陽葵さんはすぐさま視線をそらして立ち上がり、日和ちゃんを連れて玄関へと向かっていった。
俺は少しその背中を見つめて動かなかった。
気持ちの整理をつけたかったからだ。
優希のことをキモいと表現されたことに怒りを感じたのもある。
だが、それと同時に俺は優希のことを男だと思って接していなくなっていることにも気づいた。
半年も経って俺は優希を女性として見始めている。
そんな気がした。
俺は後を追って玄関で父を含め4人を見送った。
今一緒に母親と帰らせるのは危険と判断したとのことで、姉妹は父の車に乗り帰宅することとなったらしい。
その影響で父は数日家を空けることになった。
善十郎さんには連絡を取っていて、仕事は休むという話。
その後はどうするんだろうか。
送り届けて、はいさようならということにはならないだろう。
問題が大きくなって父が帰らないなんてことにならないことを願っていよう。
ふと横を見るといつもべったりくっついてくる優希が離れて立っていた。
優希との間には志希姉と希乃果姉がいて、俺の視線に気づいた二人は同じ方向を見た。
目が合った途端優希は逃げるようにして自分の家へと走り去っていった。
「なんだあいつ」
「……」
二人の姉は顔を見合わせていた。
その次の日から優希は部屋に引きこもった。