第9話【運命の悪戯】
俺の母は幼いときに姉を連れて夜逃げした。
その時の記憶は朧気ではっきりとは憶えていない。
母は父が仕事に出た後よく昼間に外に出かけていたのは憶えている。最初は俺も連れてかれていて、いつからか母と姉を見送って留守番をするようになった。
出かけた先は?
知らない家だった。誰か男の家だった。散らかっていて服も散乱していた。その情景だけは頭の中に残っていて、消えない。
だけど、それがドラマで観たものなのか実際のものなのかはもう俺にもわからない。
俺たちにゲームを与えて、別の部屋で母とその男が楽しそうな声を上げていた。
記憶違いかもしれない。
俺を連れていかなくなって、何度も母は姉を連れて出掛けていた。
ある時、俺はこう言ったらしい。
「お母さん、お風呂入ってきたの?」
母は風呂上がりのような良い香り漂わせて帰宅した。それは父がちょっとした用事で一旦帰宅していた後で母にとっては最悪のタイミングだったのであろう。
翌日、目覚めると母は姉を連れていなくなっていた。
当時の記憶はほとんどなく、母や姉がどんな人物だったのかも思い出せない。
父はもっと大人になってから話すつもりだったらしいが、俺から切り出した。父の話すときの顔はすごいつらそうだった。父のタイミングで話してもらった方がよかったかもしれない。申し訳ないことをしたと思う。
その後、母から離婚届が届いて、結果として離婚したらしい。
父から聞いて初めて知った話だが、その時母のおなかの中には妹がいたという。今となってはその妹が父との子なのか怪しいものだ。
そんなことを思い出すのはなぜだろうか。
母親が恋しいのだろうか。
姉なら間に合っている。俺には血のつながりのない姉がふたりいる。
もうひとり血の繋がらない弟……今となっては妹だろうか。
そんなやつがいる。同い年なのでどちらでもないが世話をしすぎてもうそんな気分だ。
それに向こうの母親にもよくしてもらっている。
俺にはちょっと変な形な気もするけど、家族がいるのだ。
いや、ただのお隣さんなんだけど。
でも最近この手間のかかるこいつが悩んでいるように見える。普段から感情表現は少なく、何もかも委ねてくるようなやつだ。
だけど、見るからに俺から距離を取ろうとしているときがある。
意識されているのだろうか。
正直男の時と同じ距離感でいられるとこちらも心臓が持たないので、距離を保ってくれるとありがたい。
とはいうものの。
今日も今日とて朝のお世話から始まる。
優希が女になって約半年。夏ごろに姿が変わった時は戸惑いも大きかったが、時間が経つほどに俺も慣れてくる。
こいつの身体に触れることもこいつが恥ずかしげもなく下着姿を晒すことも動じることは少なくなった。
決して魅力を感じないというわけではない。
だけど、慣れというものは怖い。
最初はどこまで触れていいかわからないラインも今ではわかるようになった。それは志希姉や希乃果姉のサポートによるところも大きいだろう。
ふたりが姉として世話してくれればそれで済む話なのだが。
今も目の前にいる優希は俺に身体をゆだねて服を着せてもらうのを待っている。
「これからコンビニに肉まん買ってくるけど、食うか?」
「……俺も行く」
「寒いけど大丈夫か?」
「まあなんとかなる。朝陽の上着の中に入る」
「やめろ」
着せ替えにも手慣れたものだ。こうしていると子どもが出来たみたいだ。子どもにしては大きいから大変だ。
「朝陽、お父さんみたいだね」
「誰がお父さんだ」
「……」
着せ替えが終わって、立ち去ろうとすると優希が俯いているのに気付いた。
「朝陽は結婚って考えたことある?」
「まあ、人並みには」
「好きな人いるのか?」
「……いや? 特に誰と言うことはない」
「そうか」
結婚ね。祖父さんに急かされているのだろうか。お見合いとか。
それに関しては俺にはわからない話だ。父さんがそんな話を持ってくることはないし、父さんの性格だと結婚しろとすることもないだろう。
最近悩んでいるのはそれだろうか。
「優希は?」
「朝陽がもらってくれればいいよ」
「……まあ、お互い開いていなかったらそれもありかもな」
俺は立ち去った。自分で言っていて恥ずかしくなった。逃げよう。
恥ずかしいが、嘘ではない。
優希の気持ち次第の話だから俺だけの話ではないのだけど。
というかもう家族として過ごしすぎて、恋人になるイメージつかない。
気兼ねなく接すること出来るのは俺にはそういない。
優希は俺のことどう思っているのだろう。
普段の身の委ね方から信頼してくれているのはわかる。
それはどういう気持ちなのだろうか。
嶋柳宅から出て自分の家に戻る。
出かける前に声をかけておかねばならない相手がいる。
「志希姉、希乃果姉。コンビニ行ってくるけど何か買ってくる?」
姉二人は俺の家のリビングでくつろいでいた。こたつを持ってきたのはこの二人だ。わざわざ自分の家から引っ張り出してきて、こちらの家に設置した。
それほどこの家の居心地がいいのだろう。
「別にないわ」
「肉まんお願いね~」
肉まん買いに行くという話も実は希乃果姉からのお願いからだった。寒いから自分は外に出たくないのだそうだ。
その気持ちは俺も一緒なのだが、俺も肉まん食べたい。
「志希姉は仕事の方は大丈夫なんですか?」
「もう少し……」
志希姉はそう言ってそっぽを向いた。こたつから出たくないらしい。いつも漫画のアシスタント2人ぐらい呼んで仕事しているのに大丈夫なのだろうか。
志希姉のことだ。その前には動き出すのだろう。
俺の後ろから玄関の戸が開く音が聞こえた。優希もこっちに来たのだろう。
「朝陽、まだ?」
「もう行くよ」
いってきます、と姉たちに告げて外へと出た。
風が頬に当たる度痛く感じれ荒れるほど冷たく、地面は雪が積もって白い。
雪と言えば白だが、実際の雪を見ると人の行き来により土などで汚れてところどころ茶色い。映像で観るような一面綺麗な雪景色なんていうのは町中だとみられるものではない。
俺の横には優希が引っ付いている。
やはり耐えられないほど寒いらしく、出て早々に「寒い帰りたい」と弱音を吐いている。
「帰りたいならさっさと帰っていいぞ」
「いやだ……」
優希は俺の身体に顔をうずめた。がっしりと俺の服を掴んでいる。
親から離れたくない子どもか。
「なんで着いてきたんだよ」
「そういう気分だった」
「そうか」
俺も一人寒さに耐えながら歩くのはあまり気乗りしなかった。お荷物でもいてくれるのはありがたかった。
それにくっつかれると案外暖かい。重いけど。
「優希」
「なに?」
「……何か悩んでいたりする?」
「…………なんで」
優希は俺から目をそらした。
「言いたくないなら別にいいけど」
「……朝陽は。いや、なんでもない」
「…………わかった」
俺はそれ以上何も聞かなかった。
その後も沈黙が続いて、肉まん買ってコンビニを後にしたあとも口を開こうにも話す内容が浮かばなかった。
先に口を開いたのは優希だった。
「朝陽」
視線の先には公園のブランコに座って俯いている女性と少女がいた。
もう一度優希の方を見た。
「わかったよ」
俺はその女性に声をかけることにした。歳は俺とそんなに変わらないだろうか。いや、希乃果姉と同じぐらいに見える。
高校生と言うには少し大人っぽい。
「あの」
女性は疲れ果てたような弱った顔でこちらを向いた。
「……えっと、すみません」
「いや、どうしたのかなって思いまして」
一度俺から視線を外して、優希を一瞥した。
また俯いて、
「ちょっと家出しちゃって。離婚した父の家を探してここまで来たんですけど、場所がわからなくて」
「…………」
複雑な事情があるらしい。離婚した父、と言われて何か思い出したような気がしたがそれが何かは気づけなかった。
「場所は?」
「わかりません」
首を横に振って答えた。
事情をもう少し聞くと、母と一緒に暮らすことに耐えかねて昔離婚した父のもとに逃げ込もうと考えたらしい。
しかし、父の居場所も昔住んでいた場所もわからないまま飛び出して、電車やバスを乗り継いでここまできたが、お金も尽きて途方に暮れていたとのことだった。
俺は悩んだ。
ここで俺が家まで保護するのもいいだろう。その場合面倒ごとに巻き込まれることになる。別に俺が巻き込まれようと構わないが、今日は優希も志希姉、希乃果姉も家にいる。
警察に連絡するのが正しい判断だろう。だけど、母親のもとに返されておしまいだろうか。それは後味が悪い。
「朝陽」
悩んでいると優希が声をかけてきた。優希を見た時の視界の端で女性も何か反応をしていたが、この時の俺は気も留めなかった。
「どうするにしても、ここじゃ風邪ひいちゃうから家に連れていこう。」
「……ああ、そうだな」
確かに言われてみればどう対応するにせよ、まずは冷えた体を暖めてもらったほうがいいだろう。
俺たちは女性と少女を俺の家に連れていくことになった。
「家に行けば志希姉もいるし、こういうのは朝陽のお父さんに任せたらいい」
優希は小声で俺に伝えた。
こいつなりに俺に気を使っているのだろうか。
「うん、ありがとう」
「……」
家に辿り着くと、女性は少しキョロキョロとし始めていた。
小さく「もしかして」とつぶやくのも聞こえたが、今は何も聞かない方がいいだろう。
とりあえず家の中に入ってもらった。
知らない人物を連れてきた俺たちを見て志希姉と希乃果姉は驚いていた。志希姉に至っては少し警戒した表情をしている。
事情を話すと志希姉も受け入れた。
だけど「判断は自分には出来ないから俺の父さんに連絡を入れるように」とのことだった。
「あの、父に連絡するのでお名前とか良ければ……」
「……あ、熊谷陽葵って言います」
「どうも」
俺は父さんに電話をかけて、事のあらましを伝えた。
父さんは女性の名前を聞いた瞬間、携帯を落としたように大きな音が聞こえた。
驚いて父さんを呼ぶと「すぐ戻るから」と言って通話は切られた。
なんだろう。
ものの数十分で父さんは帰宅した。
その間女性と共に来た女の子は希乃果姉が相手している。子どもの扱いが上手いのは志希姉よりも希乃果姉だ。
志希姉は何故か黙り込んでいた。
父さんは慌てていて、息を切らせて部屋のドアを開いた。
そんな父を見るのは初めてかもしれない。
「陽葵……っ陽葵なんだね……っ!」
その場にいた全員が固まった。
「……君のお母さんの名前は夕海だね」
「…………はい」
陽葵と呼ばれた女性は静かに頷いた。この二人だけが今状況を理解している。
「父さん」
「……ああ。朝陽もみんなもわからないもんね」
一息ついた瞬間、口を開いたのは女性の方だった。
「もしかして、お父さんですか?」
全員の視線が女性に集まった。
離婚した父親。言われてみれば父さんも当てはまる話だ。それに思い当たらなかったのは、離婚についてあまり話さなかったからだろう。離婚した親というイメージは俺の中では薄かった。
つまり、この目の前にいる人物は俺の姉で連れてきた女の子が妹だということだ。
状況が飲み込めなかった。
飲み込み切れなかった。