下
《恋人》
昨日は、七時に起きたようだから、少し早めにと、六時の少し前に起きだした。目覚まし時計は六時にしておいたのだが、そのうるさくて鬱陶しいジリジリジリという音がする前に、時計を止めてしまったのは、今日と言う日への緊張か何かが原因だろう。とりあえず、まずは友人が起きているかどうか確かめるために電話を入れる。メールなら、返事はすぐじゃなくてもいい、という意思表示を兼ねているような気がするのだ。誰に聞いても、メールはすぐに返して欲しいという答えが返ってくるのだが、それはメールの意味はないのではないか。
「おう、ちゃんと起きてるぞ」腹立たしそうだった。そして、眠たげだった。
「今どこに」「あと半時間後に、千鶴ちゃん家に向かおうかなと。流石に六時に家を出るわけはないだろうし」
「そうか、頼んだ」友人から何かしらの連絡があるまで、暇をすることになる。
「ところで、お前が行こうとは思わないのか」
「俺は家を知らないんだ。千鶴のは」「なるほど」
いつもどおりの酷い寝癖を直したり、コーヒーを入れたりして、平静を保とうとする。時計があるとはいえ、犯罪者相手に大立ち回りを演じるかもしれないのだ。鼓動が少し速くなる。こんなときでも、いつもどおり変わらない事物は変わらないままであって、それで少しずつ心が落ち着いていく。
《友人》
黒のマフラーに顔をうずめて、寒さと虚無感を和らげる。天才と言うものは、馬鹿と紙一重というが、そのとおりだった。言っていることの意味は分かったが、その真意は分からない。そもそも天才ではなく馬鹿なのかもしれない。少なくとも、それに付き合っている俺は馬鹿に違いない。ここで、タバコでも吸っていたら、絵になっているかもしれないなと思ったが、きっと咳き込んで、より青臭くなる落ちが待っている。
雪が降っていた。寒くて、どうしようもない。建物の陰に隠れ、待ち続けて十数分。その程度しか待たなかったのは幸いか、千鶴が現れた。
「楽しそうだな」幸せものめ。いいや、変人に恋をした不幸せものめ。
彼女はこちらに気付くことはない。俺は物陰に隠れて、その可愛らしい眼鏡少女が行過ぎるのを待った。そして、一定の距離以上近づかないようにしながら、その姿を追う。こんなことをするのは今日限りだ。尾行というと、何かしら面白そうな響きがあって、遊び半分にやってみたが、二度目をやろうとは思えない。それを無理やりにもやっているのだから、このツケはどこかで払わせなければ。
しばらく行くと、昔、俺たちが通っていた小学校の前を通った。辺りは誰もいない。朝と寒さと冬休みという条件が人を消している。天才氏の家まではあと少しだ。誰かが襲ってくるとしたら、もう無いと考えていい。今までに細い路地はいくらかあったし、それに誰もいないとはいえ、こんな小学校の前で襲うとは考えられない。いや、違う。小学校の前は道路を挟んで、いくらかアパートや民家が並んでいて、そのすぐ裏手は車一台が通れるか通れないくらいの細い道になっている。見つかりやすいが、最も逃げやすい。
男が見えた。昨日見た、あの目付きの鋭い男だ。千鶴の目の前に立った。まずい、隠れるのはやめだ。凍った道を思い切り踏み切って、飛び掛るようにして走った。開けていた距離が長すぎた。男の手が千鶴の口を押さえるのが見える。ポケットに突っ込まれた右手が、鈍く光りながら姿を現した。間に合わない。
「千鶴――」
男と目が合った。しかしすぐに、どうでもいいというように目をそらす。そして、力が抜け、その胸に倒れこんだ千鶴を抱きしめるようにして、引きずる。その体を滴って、血が凍った地面を溶かし、染めていった。
携帯を取り出した。過去に戻るだか何だか言っていたのは、にわかには信じがたい話だ。だが、賭けられるのはそれだけだった。
「千鶴が、千鶴が、刺された」
《恋人》
そのときが来た。電話口から慌てた友人の声が聞こえる。「千鶴が、千鶴が、刺された」まずは時計を見る。そして、その時分秒を正確に頭に刻む。「どこだ」「小学校。俺たちが通ってた――」
電話を切った。ギリリと奥歯をかみ締める。自分は確かにこのときを待っていたが、脳裏に、千鶴が死ぬ瞬間がよぎって、怒りがふつふつとわく。自分は、この後、千鶴から幾度とメールを受けた覚えがある。ということは、犯人は、千鶴を騙ったということにもなる。
左手首の時計を見る。文字盤が露出して、はたから見れば使い古されたただのオンボロだ。その時計の針を慎重に動かしていく。二十分前だ。友から聞いたその場所を考えると、そのくらいの時間があったほうがいい。人差し指で押さえていた針を放すと、その瞬間、軽い眩暈と共に、かすかな浮遊感に襲われる。意識が一瞬途切れ、そうしてすぐに戻ってきたときには、時間の巻き戻しは完了している。
コートを羽織ると、寒い外の世界に出た。いつにもまして、寒いのは、朝だからという単純なものではないだろう。
小学校。実を言うと自分はその小学校には通っていない。そこには友人と、そして千鶴が通っていたそうだ。二人はその頃からの友達だそうで、一時期それをほのかに羨ましがっていた記憶もある。その小学校の目の前の、アパートの一つの塀の内に体を縮めて隠れた。千鶴を助けるだけなら、千鶴と一緒にいるだけでいい。だが、それだけでは駄目だ。静かに降る雪を眺めていると、足音が聞こえてきた。おそらく、最初の足音は千鶴のものだ。友人の電話によれば、犯人は千鶴を待ち伏せていたということだ。そして、次にもう一つ新しい足音が聞こえた。そこで、すっと、立ち上がった。
驚いて立ちすくむ千鶴に、悠然と歩み寄る男。幸い、自分はその男の後ろにいた。狙うのは、ポケットに入れてある右手だ。後ろから手を押さえ、そして殴りかかった。不意をつかれた男は、振り向いたのが精一杯で、その背中を打たれて、僅かにうめき声を上げた。右手をポケットから出させないように押さえつけて、もう一度殴る。だが、力の差は歴然だ。そうして、自分が子供であることも忘れていたのも災いした。いともたやすく男に払いのけられ、そして、刺された。
男の右手を握り締めた。ねじるようにして、腹をえぐるその手が、決して千鶴に向けられることのないようにと、それだけを考えて。男の苦々しげな表情が見えた。ナイフを引き抜こうと力を入れられているのが分かる。だが、死ぬと思ったときの、人の力というのは想像を絶するものがある。いくら力を入れられようと、殴られようと引き抜かせない。意識はもうほとんど無くて、あとは、二人、名前を読んでくれた人がいたことくらいしか、覚えていない。
―九年後―
盆、という言葉に託けて、仕事を休んでやった。それこそ、休みはきちんともらっているので、わざわざ強調して表すことではないが、大きな休みを取って、故郷へ戻ってきたのだ。
また、同じように、先祖の墓参りだ。ただ、隣に一人増えただけで、それ以外は何も変わらない。空の色も、これから行く場所も、違う今日の日とまったく変わらない。
夏のこの季節は、やはり友人の家が一番だった。一度、時間を巻き戻してから、ほとんど毎年、ここへ来ている。ほとんど毎年なので、たまには違うところに行けよと、言われるのだが、おかまいなしだ。一応、今の自分があるのは、ここのおかげでもあるのだから、大切にしたい所なのである。
「大切にしたいとはいってもな。仕方というものがあるだろ」仏頂面で、友人は言った。自分は、風鈴が泳いで遊ぶ様子を眺めながら、鼻で笑ってやった。
「何だそれ」「その程度のもんだってことだ」
日差しの強い縁側で、二人だけでぐだぐだと話をしているのも、違う九年後と変わらなかった。
「大切にしたいって言ったんじゃあなかったか」そういいながら、友は大の字になって、はあと盛大にため息を吐いた。ふんと、自分もそれの真似をした。昼食として何かしら作っている彼女の鼻歌を聞きながら。