We don't know yet.
中学は三年間、図書委員だった。
特別文学少女というわけではない。
ただ、文化部でクラスでも目立たない私が、周りから反感を買うことなく、また周囲のイメージを壊すことなく一年間努めあげられるのが図書委員だったというだけだ。
だから高校に入っても何気なく、特段深い理由もなく図書委員に立候補した。私が一年で唯一自主的に挙手をする機会といっても良い。
図書委員は貸し出し当番で昼休みが潰れるせいか、他の生徒からは敬遠されがちだ。いつもならペアになる男子が決まらずクラス委員長が「誰かやりませんか」と促すパターンになるのだが、珍しく今回は違った。
私の挙手から少し遅れて、一人の男子生徒が手を挙げた。
まだ新学期で、クラスメイトの名前のほとんどを覚えていない中、さすがの私でも知っている。クラスで一番顔の造形が良く、無口なのにいつも人に囲まれているその子は、名前を由岐亨といった。
「よろしく、竹谷さん」
最初の委員会で、由岐は律儀に私に挨拶をしてきた。初めてまともに聞いた由岐の声は、落ち着いた耳心地の良い音だった。
私は「はあ、どうも」と冴えない返事と生ぬるい会釈を返して右隣の席に座った。名前しか知らない未知のクラスメイトの隣は、大層居心地が悪かった。
ノートにメモをとるフリをしてそっと左を見やれば、由岐は気だるそうに頬杖をついて黒板を見上げている。その横顔からは何を思っているのか推し量ることができなかった。委員会が終わるまで、ぐるぐると一つの疑問が私の胸の中で巡った。
由岐享は、どうして図書委員になったんだろう。
◇ ◇
「竹谷さんは、本読む人?」
何度目かの委員会を経て、私たちは世間話をする程度には打ち解けてきた。
回ってきた昼休みの貸し出し当番の最中、閑散とした室内に由岐の声が何気ないトーンで響いた。
「本ですか? 人並みには読みますかね」
「どんな本読むの?」
「どんな……うーん、推理小説とかは結構好きです」
「てか、前から思ってたけど何で敬語なの?」
あ、また頬杖ついてる。
そんなことを思いながら「いや、なんとなく」と言葉を濁した。カースト上位者には丁寧に接するべきだと思っているからなのだけど、そんなことは口にできない。
「敬語、不都合ですか?」
「不都合っていうか……何か距離を置かれてる感じがする」
「はあ、そうですかね」
私にとっては他人とこれくらいの距離感で付き合うのが当たり前なのだけれど、どうやら由岐とは感覚が違うらしい。むしろ、ただのクラスメイトと業務以外の言葉を交わしている現状がかなり努力している方だ。
あまりにも貸し出し業務が暇なのか、由岐は返却された本の背表紙を撫でながら、何だか面白いことを言った。
「竹谷さんって、他の女子とは何か違うよな」
「……と言うと?」
由岐の白くて綺麗な指先を凝視しながら、私は言葉を返した。
「なんというか、一緒にいて落ち着く。安心感があるというか……家族とか、親しい男友達といる時みたいな気持ちになる」
「……私の性別を疑っているので?」
真顔で冗談めいたことを言ってみると、由岐は普段無表情な顔をくしゃりと歪ませて、そうじゃないよと笑った。その表情は、私の心に響くものがあった。
「竹谷さんって面白いな」
「はあ、どうも。お褒めに預り光栄です……」
「あのさ、敬語やめて普通に会話してよ。クラスメイトなんだし、同じ委員会なんだし」
図書室のドアが開き、手に本を持った生徒が入って来る。
返却受付の準備をしながら、私は特に考えもせずに軽く頷いた。
◇ ◇
一週間の貸し出し当番も、今日で無事三回目が終わった。
由岐はこれまで真面目に委員会にも当番にも顔を出していたが、今日は当番を無断で欠席した。一人で手が回らないほどではないし、昼休みに何か用事があったのかもしれないし、私は頭の片隅で気にかけつつもいつも通りに業務を遂行した。
由岐が図書室に姿を見せたのは、五時間目の授業の予鈴が鳴る頃だった。
「もう当番の仕事は終わるから、教室に戻ってくれていいよ」
カウンターに無言で入ってくる由岐に、私は散らばった本をかき集めながら声を掛けた。数冊借りていこうと思って見繕っていた残骸だ。数少ない友人にはたまには恋愛小説でも読んで勉強しろと言われるが、推理小説のような論理的な道筋も、明確な動機もない、運命やら奇跡やらで何とかなってしまう恋愛小説が私は正直苦手だった。
何の返答もなかったので本を抱えながら振り返ると、由岐が机に突っ伏していた。
「……どうかした?」
私の抑揚の欠片もない声が、シンと静まり返った室内に霧散する。やはり返事はない。
私なんかが触れるのは非常に申し訳なかったが、緊急事態とみなして彼の肩を揺すってみた。すると少し頭を傾けて、由岐がこちらを見上げた。
「気分が悪いなら、こんなところにいないで保健室で休んだ方がいいんじゃない?」
由岐は言葉の中ほどで目を伏せ、また腕の中にもぐりこんでしまった。伏せた目にかかる睫毛が私より長かったことに動揺を禁じ得なかったが、今はそれどころではない。他人を羨んだところで睫毛が長くなるわけではないのだ。
どうしようか。
しばらく逡巡した私は、由岐の隣に腰を降ろした。
多分放っておいてもいいのだろう。気にせず教室に戻って次の授業を受けても、きっと由岐は文句を言ったりはしない。私の行動など、彼には何一つ影響を与えたりはしない。だから、これは私の自己満足だ。
借りたばかりの小説から一冊選び、ページを捲った。最初のうちは隣の由岐のことが視界の端にちらついたが、次第に物語に引き込まれて貪るように文字を追った。
気付いたら、由岐がこちらを凝視していた。私も本を閉じて彼を見る。しばらくお互い見つめ合う格好で、どちらかが口を開くのを待った。
「……ごめん、当番に来られなくて……授業、サボらせて」
先に口を割らせた優越感を少し味わいながら、私は首を横に振った。
「別に、当番はそれほど忙しくなかったし、授業に出ないのは私がそういう気分だっただけだから気にしないで」
「……気を遣わせて、ごめん」
そう思うなら現状を説明してくれ、と口に出そうかと思ったがやめた。私が首を突っ込むような話ではないかもしれない。知らないほうが良いことかもしれない。
由岐は気だるそうに身体を起こし、ぎこちなく口を開いた。
「ちょっと落ち着いたから、もう大丈夫……その、さっきまですごい頭が痛くて」
「なら、やはり保健室に行くべきでは……?」
「いや、うん、それはそうなんだけど……」
口ごもる由岐の顔色はまだ青白い。私は指先で本のページを弄びながら、次の言葉を待った。
「香水が……」
言いながら、由岐の目線はまたゆるりと下がっていく。視線がかち合わないのをいいことに、私はじっくりとその顔を眺めた。
カースト上位の女子たちの話題に常にのぼっている由岐亨。やはり造形が良い。同じ生き物とは思えないほど整った顔立ちに、今は血色の悪さが加わってさらに人形めいて見える。
彼女がいるという噂を耳にしたが、こんな美男子の隣を歩けたらさぞかし気持ちが良いだろう。そしてその彼女もまた、彼にお似合いの美女なのだろう。
「昼休みに呼び出された先輩たちの――香水の匂いがきつくて……気分が悪くなって……でも、その先輩たちは、よく保健室に入り浸ってるから……またそこで出会ったりしたら嫌で……」
なるほど。やはり彼が私とは違う世界の人間だということと、保健室ではなく図書室に来た理由についてだけは納得した。だが、高校生の口から「香水の匂い」などという大人な言葉が出てくることを一切想定していなかったせいで、私は少しばかり動揺した。
由岐は言い終えるとまたぐったりと机に臥せってしまった。静かな図書室に、浅く上下する彼の背中。本の表紙に指を置きながら、さて、どうしたものかと考えたが、答えは割とあっさりと私の中で決まった。
私はそのまま由岐を置いて、図書室を出た。
ここで推理小説の続きを再開しても、きっと由岐は文句を言ったりはしない。私の行動など、彼には何一つ影響を与えたりはしない。だから、これは私の自己満足だ。
氷嚢を貰いに保健室に行くと、由岐が言っていた先輩らしき人物たちがいた。茶髪で化粧の濃い、女の先輩が三人。まるで歩く校則違反だ。
室内に漂うのは、人工的な香水の匂い。三人とも別のものをつけているのか、何だか色々な匂いが混ざっていて顔を顰めたくなった。
夏の体育終わりの教室と同じだなと思いながら、彼女らの目にとまらないように氷を袋に詰めていく。その間にも、先輩たちは我が物顔で室内を闊歩しながら色々と下世話な話に花を咲かせていた。
備品貸し出し表に名前と時間を記入して、私はそそくさと保健室を出た。無意識に息を止めていたので、廊下で新鮮な空気を目一杯肺に取り込む。
――亨くんはほんと、お人形みたいで最高。さっさと今の彼と別れて乗り換えなきゃ。
一瞬でも彼のことを人形のようだと思った自分を、何だか恥ずかしいなと思った。
図書室に戻ると、由岐は出た時と同じ姿勢のままでいた。眠ってしまったのだろうか。
「気分、どう?」
先程と同じように肩を揺すると、由岐は静かに顔を上げた。その額に、冷えた氷嚢を押し当てる。
「氷、貰って来た。ちょっとは楽になるかも」
「……ありがとう」
由岐の声は掠れていまいち聞き取れなかったが、多分お礼を言われたんだと思う。
彼の手に氷嚢を持たせて、私はまた隣の席に納まる。いよいよ手持無沙汰になってしまった。授業が終わるまであと三十分。また本の世界に戻る気分には、何となくなれなかった。
「……教室に戻ったんだと思ってた」
「そっか」
「だから……戻って来てくれて、安心した」
「……そっか」
体調が良くない時は誰だって心細くなるものだ。私は自分にそう言い聞かせて、素っ気なく返事をした。何が面白かったのか、由岐がフッと笑った。
「やっぱり竹谷さんといると落ち着く」
氷嚢で隠れているせいで、どんな顔をしているのかはよく分からなかった。だけど、その低くて綺麗な声に私の心はざわついて、それを見咎められたくなくて私はわざと何でもないような声で言った。
「そういえば由岐くんが言ってた先輩たち、保健室にいたよ。だからここにいて正解だったね」
あの場で由岐が先輩と鉢合わせしていたら、多分休むどころじゃなかっただろう。静寂の広がる授業中の図書室は、気持ちを休めるには最適だ。
「……それもそうなんだけど」
「なに?」
「ここに来たのは、無意識で……多分、それは竹谷さんがいると思ったからなんだ」
それはどういう意味、と私は聞くことができなかった。聞いてしまったら、何かが終わってしまうような気がしたのだ。
一瞬固まってしまった私に、由岐は心底申し訳なさそうに言った。
「ごめん、変なこと言った。忘れて」
「……ううん」
それ以来、由岐と言葉を交わす機会は一度もなくなった。
◇ ◇
四回目の貸し出し当番が回って来て、また私は昼休みの半分以上の時間を図書室で過ごした。
由岐の姿はない。元々一人で事足りる業務なので、特段困りはしない。ただ少し、寂しい気持ちにはなった。
クラスでは顔を合わせるが、隣の席にでもならない限り会話をすることもない。一部の男女が親交を持つぐらいで、基本的に学校生活は性別で分かれている。これまでもそういうものだったし、これからもそういうものだと思っていた。
ただ、私の目は気付くと由岐を追っていた。休み時間、先輩に呼び出される回数が増えた彼の姿を、私は密かに心配な気持ちで見守っていた。それは単純に、同じクラスメイトとして、同じ図書委員としての心配なのだと、私は自分にそう言い聞かせた。
昼休みの終わり頃、図書室に似つかわしくない人物たちがぞろぞろと入室してきた。見覚えのある顔。由岐を困らせているあの先輩集団だ。
「あんたが竹谷歩美?」
先輩はカウンターに身を乗り出して、私を舐めるように見た。鼻につくのは相変わらず香水の匂い。
「はい、そうですが」
本の返却ではなさそうなことだけは確かだが、訪問の意図がよく分からない。
「あんた、亨くんの彼女なの?」
「とおるくん?」
「とぼけんなよ。由岐亨のことに決まってるだろ」
「ああ……」
そういえば由岐の名前は亨といったか。そう呼んだことがなかったので、一瞬理解が追い付かなかった。
「いえ、人違いです」
「はあ? 嘘吐くなよ。噂になってんだけど。同じクラスの地味な図書委員が亨くんと付き合ってるって」
「誤解です。私と由岐くんは単なる図書委員でしかないので」
「ねえ香織、やっぱ噂は違ったんだよ。こんなブスで地味な女が亨くんの彼女なわけないじゃん」
「そうだよ。こんなのが亨くんと釣り合うわけないもん。それなら絶対香織の方が良いって」
姉妹のように似ている先輩たちが、口々にそう窘める。どうやら香織と呼ばれた先輩は、由岐と付き合いたいらしい。それなら来るべきなのは私の元ではなく、由岐のところなのではないか。
「分かった。じゃあ、質問を変える。あんたは亨くんのこと、どう思ってんの?」
「どう、とは?」
「だから、好きなのかってことだよ」
「……それは」
親しくもないような人間に、何故そんな個人的な感情について問い詰められなければならないのか。私は沸々と湧いてきた怒りを抑えることができず、カウンターの下で拳を握った。
「先輩に言う必要はないと思います」
「あんた、あたしのこと舐めてんの?」
先輩がどすの効いた声で言った。ひりついた空気が図書室を覆う。
何人か生徒が足音を忍ばせて出て行ったから先生を呼んで来てくれるかと期待したのだが、どうやら逃走しただけのようでいまだに援軍は来ない。
先輩が私の胸倉を掴んで、自分に引き寄せる。近くで見た先輩は今日も厚化粧で、主張するつけまつげがハリボテ感を強めていた。
「亨くんの周りをうろちょろして目障りなんだよブス。彼に迷惑かけてるって気付いてないの?」
それはこちらの台詞だ。飛んできた唾に思わず顔を顰めると、先輩は般若のような表情をした。だが、もう怖くはなかった。それよりも猛烈に腹が立って、私は同じくらい強い視線で先輩を見返した。
「それなら先輩たちも同じことです。由岐くん、先輩たちにちょっかいかけられてとても困ってます。迷惑かけてるのはどっちですか。本気じゃないなら、放っておいてあげてください」
「……まじで、あんた何様のつもり?」
「私はただのクラスメイトで、ただの図書委員ですが、少なくとも由岐くんの顔しか見ていない先輩たちよりかは、ちゃんと彼のことを見ているつもりです」
自分でも驚くぐらい、すらすらと言葉が出て来た。普段の私なら、学校内での争いごとなど絶対にしない。目立たず、波風立てず、無難な学校生活を送ることに全力を注いて生きてきた。だからずっと、私は地味な図書委員であり続けてきたのだ。
それなのに今の私は、これまでの努力を全てドブに捨てて一時的な感情だけで先輩に噛みついている。この衝動が何なのか、私には分からなかった。
「先輩が本気で由岐くんのことを好きだと言うのなら、別に口出しする気はありません。でも、遊びだって言うならやめてあげてください。由岐くんはお人形なんかじゃない。先輩の価値を高めるだけのお飾りなんかじゃない。容姿だけじゃなく、その中身もちゃんと見てあげてください」
「黙れよ、ブス!」
耐えきれなくなった先輩が、私の頬を叩いた。割と良い音がして、私は口の中を思いっきり噛んだ。二発目が飛んできそうになったので、私はカウンターの下で適当に掴んだ本を無我夢中で振り回した。だが相手は三人だ。
「このっ……!」
誰もいないのを良いことに、先輩たちは私をカウンターの中から引きずり出した。こういう時に大声など簡単に出ない。歯を食いしばって抵抗したが、私は汚い床に転がされた。
香織と呼ばれた先輩が、私の前髪を掴んで引き上げる。ポケットから出したカッターナイフが私の頬に添えられて、本能的に背筋が凍った。
「その顔、更に不細工にして二度と亨くんの前に出られないようにしてやろうか」
もはやここまでかと諦めの心境になった時、図書室の扉が荒々しく開く音がした。同時に、先輩がカッターを持つ手を振り上げた。
「竹谷さん!」
その場に縮こまった私の、目の前が真っ暗になった。ふわりと誰かの体温を感じ、匂いを感じた。先輩たちの悲鳴が聞こえて恐る恐る目を開けると、私を庇うように誰かが覆いかぶさっていた。それは、紛れもなく由岐亨だった。
由岐の右腕からは血が滴っていた。見上げると、彼は顔を歪めながらも私のことを酷く心配してくれた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「……私は、大丈夫だけど」
図書室にいた誰かは、先生ではなく由岐を呼んだのかもしれない。余計なことをしてくれたと思う反面、その顔を見て心の底で安堵した自分がいた。
「……先輩、何してるんですか」
「ち、違うのよ、亨くん。これはね、」
「何が違うんですか。竹谷さんに何したんですか」
先程までとは打って変わって甲高い声で釈明しようとする先輩を、由岐の冷めた声が遮る。感情的になる彼の姿を見るのは、これが初めてだった。
「だから、ちょっと脅してやろうと思っただけで……」
「――これが、脅しですか」
由岐はそう言って切られた腕を見せつけた。先輩はバツが悪そうな顔で、尚も言い訳を探して周囲を見渡していた。
「ちょっと香織、さすがにこれはやばいって」
「あたしたちは関係ないからね。何もしてないから」
「ちょっと、待っ……」
取り巻きの先輩たちは、脱兎のごとくその場から去った。あとに残された香織先輩は、急にしおらしい態度で私に謝罪を繰り返した。
「本当にごめんね。怖がらせるつもりも怪我させるつもりもなかったの。ただ……」
「もう良いです、先輩」
溜息を吐いて、由岐がそう言った。
「このことは後で先生に報告しますから。俺らがここで話し合うことは、もう何もないです」
ああ、この人はちゃんと怒ることができる人なんだなあと、私の中にそんな場違いな感想が浮かんだ。やっぱり由岐は、人形なんかじゃない。ちゃんと中身の伴った、れっきとした人間だ。
それに気付かないままでは、きっと先輩の気持ちが成就することは一生ないだろう。
本当にごめんね、と自らの保身のために謝り続ける先輩に、私は言ってやった。
「もし先輩の気持ちが本物だというなら、その香水はやめておいた方が良いですよ」
◇ ◇
項垂れながら先輩が図書室から出て行き、お互い緊張の糸が切れてなし崩し的に床にへたり込んだ。私はポケットからハンカチを取り出して、由岐の腕に巻いた。傷自体は浅いようで、出血も既に止まっていた。私は由岐の綺麗な腕に傷が残らないか心配したが、本人は気にしてなさそうだった。
「……竹谷さん、本当に巻き込んでごめん」
「私は大丈夫。それより、怪我の方が心配だから早く保健室に。それから先生にも報告しに行かないと」
気が抜けたせいか、時間差で震え出した指をそっと背中に隠した。今更になって芽生えた恐怖心に私も大概普通の女子だったんだな、と心の中で自嘲していると、由岐がまた申し訳なさそうに、
「……怖い思いをさせて、ごめん」
と謝った。
何てことない、と言おうとして開いた口からは何も出て来なかった。声が出なかった。震えは止まらなかった。
何か言わなければ、そう思って焦る私の肩を由岐が引き寄せた。自分とは異なる体温と匂いをすぐ近くに感じ、私の鼓動は早まった。
「あの……」
すぐ目の前に由岐の綺麗な顔があって、私は緊張に身を固くした。
「由岐くん……?」
「……あれからずっと、避けるような態度を取ってごめん」
「……」
「当番もサボってごめん」
「……」
「俺のせいで、竹谷さんに怖い思いをさせてしまって――本当にごめん……」
大丈夫だよ、気にしてないよ、そうやっていつも通り愛想笑いをしたかった。そうやって、いつも通りの私でいたかった。でも、どうにもそれが上手くできなかった。きっと由岐は何でもないというように澄まし顔でいる私が良いはずなのに、それができなかった。
「……そんなに、謝らないで。由岐くんは何も悪くないでしょう」
絞り出した言葉に、由岐は笑みを零した。
「……竹谷さんは、本当に優しいな」
「……そんなことない」
私は優しくなんてない。由岐が思っているような人間じゃない。一緒にいて落ち着くと言ってくれたあの頃の私と、今の私では彼に対する気持ちの持ち方が変わってしまったのだから。
「でも、俺は竹谷さんの優しいところ以外も知りたい」
「……え?」
予想しなかった一言に、私は間の抜けた声をあげた。
「俺が図書委員になったのはね、竹谷さんのことをもっと知りたいと思ったからだよ」
由岐は少し覗き込むようにして、私と目線の高さを合わせた。
「竹谷さん」
「……はい」
改まって呼ばれて、私は思わずその場で居住まいを正した。
「俺はこれからも、竹谷さんと色々なことをしたいし、一緒に時間を過ごしたい。図書委員の時だけじゃなくて、教室でも、学校の外でも。でもこれは俺の一方的な気持ちだから、竹谷さんが嫌ならもう二度と近づかないって約束する。だから、教えて欲しい。竹谷さんの、素直な気持ちを」
「私は……」
私はどうしたいのだろう。何て言ったら良いのだろう。
握った手のひらが熱い。由岐の視線が熱い。
「……私は、由岐くんみたいに人から好かれるような人間じゃないし、先輩の言う通り不細工だし、卑屈だし、愛想もないし、何の面白みもないけれど、それでも良いのなら――由岐くんの友達にしてください」
できる限り精一杯の言葉を尽くしてそう言った。誤解のないよう、傷つけないよう、色々考えて慎重にそう伝えたのに、由岐は何だか複雑そうな顔をしていた。
「……俺は、もう竹谷さんとは友達だと思ってたんだけどな……」
「え……」
「早とちりだったのか……」
溜息を吐く由岐に、私は狼狽えた。
「すみません、本当にただの委員同士だと思ってました」
「正直に言われるとすごく凹む」
「だって、由岐くんはちゃんと友達も付き合っている人もいるわけで、こんな私と親しくなる必要なんてないから……」
「いや、付き合っている人なんていないよ。ただの噂だから、それ」
「そうなんですか?」
「そう。というか竹谷さん、また敬語に戻ってるよ」
「ああ、ええと、そうですね。ちょっと混乱していて……」
「そうなんだ。竹谷さん、全然顔に出てないよね。だから俺、嫌われてるのかなって思ってたよ、ずっと」
「そういう由岐くんも、表情が変わらない方なのでは?」
「じゃあ俺ら、似た者同士だね」
秘密を共有するような笑みを浮かべた由岐に、私は「そうだね」と笑い返した。
二人しかいない図書室で、二人だけの思い出がまた一つ。
僕らはまだ、この気持ちの本当の名前を知らない。
でも、きっと僕らは、もう――
END




