産まれてよかった
補修した真珠を身に着けてディアーブルさんの工房を後にしたのは、ソルシエールに来てから三日目だった。
達成感のような気持ちと、早く日本に帰らなきゃという焦りを感じる。どちらかと言えば、後者の方が強いかもしれない。遅くとも二日で帰ると言って出てきたのだから、洋子さんも風丸くんも心配しているかもしれない。
実家がある西の森を目指して、草原を急ぐ。
魔女は箒に乗れるのだから、こうして徒歩で移動する人なんてわたししかいない。晴れた空を飛び交ういくつもの箒を見上げる。
倉庫の地窓から見上げていた時代は、その姿がうらやましかったけれど。今は、歩くのもわたしらしくていいじゃないかと思えるから不思議だ。
魔女の国は一年中温暖だ。真っ黒いローブの下は汗だくとなり、息がはずむ。
へとへとになりながら森に入ると、ほどなく懐かしい一軒の家が見えてきた。
壁いっぱいに緑の蔦が絡み、窓のところだけぽっかりと穴が開いたように抜けている。黒いとんがり屋根から伸びる煙突からは、白い煙が昇っていた。
「……何も変わっていない。誰かいるみたいね。母さんかしら」
懐かしさは感じるが、リラックスはしない。むしろ近づくにつれて、どんどん緊張感が高まっていく。
ローブを脱ぎ、麻袋にしまう。深く息を吐き、ドアベルを鳴らす。――自分の家とはいえ、そのまま中に入ることはできなかった。
「はいはいー」
中から聞こえる女性の声。
木製のドアが開き、予想通り母さんが顔を出す。わたしを見て目を見開いて驚いたものの――次の瞬間にはもう、明らかに興味を失っていた。
「――ああ、そういうことね。もう修行が終わったの」
わたしから目を逸らし、ため息交じりにそう言った。
小さいころの母は、すごく優しそうな顔をしていたと思うのに。改めてその顔を見ると、皺は増え、目はきつくなり、髪には白いものが混じっている。いつからこのような顔になってしまったのだっけと、ふと思う。
なにせ虐げられていた時代はまともに顔を合わせることがなかったのだから、こうして真正面から顔を合わせるのは十二年ぶりかもしれない。
わたしは成長し、母は年老いた。時の流れをこんな形で感じることになるとは思わなかった。
「はい。無事に修行を終えて、魔女の称号を得てきました。――そのご報告に」
「どうでもいいわ、そんなこと。魔女と言っても、あなた魔法を使えないでしょ? 出来損ないなのだから、大きな顔をしないほうがいいわよ」
「……」
何も、変わっていない。相変わらず家族の中でわたしは出来損ないで、表に出したくない人物のままだった。
もちろんそのつもりで覚悟はしてきている。だから、別段ショックではない。感じているのは、家族に対する落胆だった。
「修行を終えたのだったら、あなたはもう成人扱いでしょ。もうここには来ないでくれる? ああ、うちの子だったっていうのも話さないようにね。アミとクロワの将来に差し支えたら困るもの」
「……わかりました」
「じゃ、わたしは仕事があるから。さっさとお行きなさい」
ばたんと音を立てて、扉が閉じる。――ものの十数秒の出来事だった。
はあ、と深いため息が出る。肩は重く、どっと疲れた気がした。
実の親との決別は、ひどくあっさりしたものだった。
しかし、これでよかったのだと思う。雑用要員として家に引き留められる可能性も無くはないと考えていたから。
さくさくと草を踏みしめながら、実家を後にする。去り際に目に入ったのは、かつてわたしが閉じ込められていた倉庫の地窓だ。
冷たい床に這いつくばり、ここから切り抜かれた景色だけが、当時のわたしの全てだった。格子の隙間から見える地面と空に、果てしない憧れを抱いていた。
――でも今は。わたしはたくさんのことを知り、経験し、世界はもっと広いことを知っている。箒に乗って空を飛ぶこともできたし、魔法を使うことだってできた。実家との縁は切れたけれど、帰る場所はちゃんとある。この三年間で世界は完璧に塗り替えられた。
「むしろ、この家に産まれてよかったのかもしれないわ。そうでなければ、この素敵な三年間を味わうことはできなかったもの」
心には、なんの陰りもない。わたしは自由で、未来がある。
さあ、かけがえのない人たちのもとに帰ろう。
はやる気持ちそのままに、わたしは江ノ島へ繋がる洞窟へと駆けるのだった。




