あなたが誇れる主人であるために
待っている時間は、実際にはおそらく十分ほどだったと思う。しかしひどく長く、そしてじれったく感じた。
虫眼鏡から目を上げたディアーブルさんは、難しい顔をして言った。
「――なるほど。ひび割れに、傷。これは重症だねえ」
「な、直せそうでしょうか?」
「すがるような目をしてるところ、ほんとうに言いにくいのだけれど。これは無理だね、お嬢さん」
虫眼鏡を机に置く乾いた音が、虚しく室内に響き渡る。
なにか返事をしなきゃいけないと思うのに。口をきけないほど、一瞬で打ちひしがれた気持ちになっていた。
「すまないね、お嬢さん。――でも、この祝福の石はとても素晴らしいね。傷がついていても誇り高さを感じる。本来の美しさがありありと頭に浮かぶよ」
私を気遣うように、ディアーブルさんは真珠のことを褒めてくれた。
「どうしても無理なんでしょうか。わ、わたしにとってこの真珠は、とても大切な存在で――」
言っているうちに、みるみる熱いものが目に溜まっていく。
泣いちゃいけない。もう子供じゃないのだし、ディアーブルさんだって困るに違いない。
小さなため息とともに、なだめるような声が聞こえた。
「――ただ単に、傷を直し、ひびを塞ぐことはできるがね。つまり、一般的な宝石の修理のようにね。でも、祝福の石は特別だ。この真珠は、とても美しく、気高い性質だとお見受けする。手を加えて修理することが、この石のためになるのかどうか、よく考えるといい」
――この石のためになるのかどうか。その言葉にはっとする。
メーアは、修理を望んでいるのだろうか?
もちろん、もう一度わたしに会いたいとは、思ってくれている……と思う。でも、彼の誇りはわたしを守ることにある。彼と共に過ごした時間の中で、わたしはそれを理解していた。
一緒にいるときに何度も言ってくれた「アンジュ様の幸せが僕の幸せ」という言葉が、頭の中で繰り返される。
「この石は……お伝えしていいのかわからないのですが……わたしのことを守ってくれているんです。あの、迷信的な意味じゃなくて、ほんとうに。すみません、信じられない話かもしれないですが」
「いや、信じるよ。私は幾度も、そういった話を耳にしているからね。私のところに回ってくるのは、だいたい訳ありのお客さん方なんだ」
苦笑しながらも、その優しい声色に安堵して話を続ける。
「ありがとうございます。ディアーブルさんのお話だと、もしこの真珠を修理したら、その守ってくれている力が無くなることもあり得るわけですよね」
「その通り」
つまりそれは、わたしの魔力を吸う能力がなくなるということ。そうなると、わたしは魔力過多を引き起こしてしまう。以前ネックレスを海に打ち捨てられてメーアと離れ離れになったときは、一日後には熱が出て、どんどん体調が悪化していったことを思い出す。
おそらくあのままネックレスが見つからなかったら、わたしは数か月以内に死んでいたんじゃないだろうか。そう確信するほどに、メーアの能力は絶大だった。
真珠を修理して、その結果魔力を吸う能力が無くなったとしたら。メーアは再び姿を現せるようになるかもしれないけど、わたしはほどなく死ぬのだろう。――わたしとメーア、どちらも共存する道はないということだ。
メーアはわたしが死ぬことをよしとしないだろう。というか、わたしが死んだら、その守護である彼もいなくなるのかもしれない。
結局、選択肢は一つしかない。突きつけられた事実に、愕然とする。
「すみません。とても失礼なことをお伺いします。国内外を探せば、他に修理できる方がいる可能性はあるんでしょうか」
ディアーブルさんの腕を信じていないと捉えられてもおかしくない発言だ。しかし、聞かなければいけない。後悔したくないから。
怒られることを覚悟して、わたしはきゅっと目をつぶった。
しかし、彼は穏やかな調子で続けた。
「ああ、もちろんその可能性はあるね。しかしながら、私がこの仕事を始めて六十年になるがね、そのような人物の話は聞いたことがないということだけお伝えしておこうか」
その言葉が意味することは。『そんな人物はいない』ということだと、わたしは理解した。穏やかながらその口調はきっぱりしていて――ディアーブルさんの真意がそこに感じ取れた。
「祝福の石は、神のご意思によって授けられるもの。それを修理しようだなんていうことは、はっきり言ってしまえば禁忌にも近い。――ここまで言えば、私の言いたいことを理解してもらえたかな? お嬢さん」
「はい……。申し訳ありませんでした」
深くうなだれる。
無理だ、諦めなさい。禁忌に踏み込むな。そうディアーブルさんは言っているのだ。
やりきれない気持ちを抱えたまま沈黙が流れる。そして、もう帰ろうかと思い始めたとき。
「修理は無理だがね、お嬢さん。体裁を整えることはできるよ。その真珠は深刻にひび割れていて、小傷も多い。性質や能力に立ち入らずに、最低限のケアや補修をすることはできる。――やっていくかい?」
勢いよく顔を上げる。わたしと目が合ったディアーブルさんは、ぱちりと小さなウインクをした。
「おっ、お願いします! 少しでも、少しでも何かしてあげたくて……!!」
机に手をつき、身を乗り出す。
「承った。この石も幸せだね、いいご主人様じゃないか」
腕まくりをしたディアーブルさんが、積みあがった本の隙間から羊皮紙を引っ張り出し、何かの形を描き出す。
――ごめんなさい、メーア。あなたと再び会うことは叶いそうにない。またあなたと笑いあって、一緒に箒で空を飛びたかった。もっとたくさんの時を共に過ごしたかった。
祝福の石を修理するという禁忌を犯すことを、あなたはよしとしないでしょう。思い上がりではなく、きっとあなたは『そんなことしなくていいよ。僕は出てこられなくなっても、ずっとアンジュ様の側にいるんだから』と言って、わたしをなだめるんだと思う。
そう。あの時間が特別だっただけ。姿が見えないことが、普通だったはずなのだから。
あなたと過ごした時間を、決して忘れない。あなたが誇れる主人であるために、わたしは前を向く。
「お嬢さん。補修の計画なんだが、この案をどう思うかね――?」
「はいっ」
ディアーブルさんの手元をのぞき込み、そこに描かれているものを見て。ずっと我慢していた涙が、呆気なく溢れ出す。鼻の奥が、ひどく熱い。
はらはらと流れる涙を見て、ディアーブルさんがハンカチを差し出してくれた。お礼を言って、ポケットから自分のハンカチを取り出す。
「あの、これって……」
「お嬢さんは若いから、いつか使うこともあるだろう。もし使わないようだったら、両方ともあなたが使ったらいいだけだ」
「ありがとうございます……。すごく、素敵です」
「光栄だ。じゃあ、細かい部分を打合せしてもいいかい?」
「はい。よろしくお願いします」
わたしがこの国に長くいないことを知ったディアーブルさんは、急ぎで取り掛かってくれると言ってくれた。
来たときは明るかった外が、いつの間にか暗くなり、そして明るくなって。睡魔なんかちっとも感じることなく、わたしたちは作業に没頭したのだった。




