家族
――梅の花が白く咲き誇る春。
わたしは無事に、国立大学の獣医学部に合格することができた。同じ大学の建築学部を受けた風丸くんと一緒に発表を見に行って、互いの番号があることに、手を取り合って喜んだ。
一緒に魚心亭に帰ると、洋子さんが笑顔で迎えてくれた。
「アンジュちゃん、おめでとう! これで来月から大学生ね。あと、これで修行も終わりっていうことになるのかしら? それも併せてお祝いしなくちゃね! あ、風丸くんもおめでとう。将来ここをリフォームするときはお願いするわ」
「うっす。ありがとうございます」
「ありがとうございます! この三年間、洋子さんによくしていただいたおかげです。――これからも、よろしくお願いします」
にこにこ顔の洋子さんに、二人揃って頭を下げる。
「アンジュちゃん、今ちょっと時間あるかしら? ちょっと話があるのよ」
「もちろん大丈夫です。風丸くん、わたしの部屋で待っててくれる?」
「おう」
玄関からぞろぞろと台所に移動する。風丸くんはまっすぐ進んで階段を上がり、わたしの部屋へと向かう。
椅子に座ると、洋子さんが口を開いた。
「アンジュちゃん。合格したからこの話をさせてもらうわ。今後のお金の話よ」
「! は、はいっ」
――以前、ちらっと話に出ていたことだ。学費や交際費など、極力自分の力でなんとかするつもりでいるけれど。洋子さんには当てがあるから、ちょっと待っていてと言われたところで終わっていた気がする。
「あなたの学費、工面できたの。見て、これ」
そう言って、洋子さんは足元に置かれた白い紙袋をテーブルに乗せ、中身を取り出した。
それを見て、目を丸くする。
「よ、洋子さん! こんな大金どうしたんですか!?」
それは分厚い三つの束だった。白い紙で留められた状態は、テレビ番組でしか見たことがない。
一つが確か百万円だったと思う。となると、これは三百万円――!? 魚心亭の懐事情は決して温かいとは言えないことぐらい、わたしにも分かっている。
不安交じりに、目の前に座る洋子さんを見つめる。
「ふふ。びっくりしてるわね? わたしもこんな大金見たことないから、朝枕元に置いてあるのに気づいたときは、ひっくり返るかと思ったわよ」
「あ、朝、枕元に……? すみません。それ、大丈夫ですか? いったい誰がどうしてこんなお金を……」
誰かがお金を盗んでいくならわかるけど、お金を置いていく現象なんてあるんだろうか。というか、急にこんな大金が現れるなんて怖いじゃないと思うのだけど、洋子さんにそんな様子は全く感じられない。頭の上に?マークがいくつも浮かぶ。
そんなわたしを見て洋子さんは一段と笑みを深め、面白そうに言った。
「じゃあ、ネタばらしをしましょうね。あのね、アンジュちゃん。わたしはあなたを引き受けるとき――つまり、修行を受け入れるときね。魔女の国と一つ契約を結んでいるの」
「契約、ですか」
初耳だった。
「そう。あなたを受け入れる代わりに、何でも一つ願いを叶えてくれるっていうものなの」
「……それがつまり、魚心亭への見返りだということですか」
「そういうことね。まあ日本はともかく、いろんな国があるみたいだから、謝礼がないと協力を得られないっていうケースも多いのかもしれないわね」
確かにそうかもしれない。日本人は法律も技術も発達していて、真面目な人柄が多い気がする。
昔倉庫で読んだ書物に書いてあったけれど、中には好戦的だったり、日常的に略奪などが起こったりするような国もあるみたいだった。海賊の国や、オークの国なんかが、そう書かれていた気がする。
「それで、わたしは現金を要望したって訳なの。一応、正式な修行の終了日はこの間のアンジュちゃんの誕生日だったでしょ? その翌朝に、枕元に置かれていたってわけ。すごいわね。魔法で運ばれてきたのかしら?」
「なるほどです……」
よく考えられたシステムだなあと、珍しく祖国に感心する。
しかし、着目するべきはそこではない。
「でも洋子さん。わたしの学費のために現金をお願いしてくださったっていうのが、すごく申し訳ないです……。自分のために、もっと違うお願いをしたかったですよね……」
例えば、長生きしたいとか。魚心亭が繁盛しますようにとか。洋子さん個人としての望みを頼むのが、本来の使い方なのに。
洋子さんにはずっと気を遣わせっぱなしで、本当に申し訳ない。わたしが社会人になったら、いっぱい恩返しさせてほしい。わたしは項垂れて、テーブルの木目を見つめた。
「いいえ。実はね、わたしがお願いしようと思っていたことは、叶っちゃったの。だから全然気にしないで」
「え、そうなんですか!」
勢いよく顔を上げる。すると、見たことがないぐらい嬉しそうに目を細める洋子さんと視線がぶつかった。
「そう。話の二つ目がその件なんだけど。実はわたしね、再婚することにしたの」
「再婚ですか!? お、おめでとうございますっ!」
思いがけない報告に驚く。
すごくおめでたいことだ。相手はどなただろう?
「うふふ。ありがとう。あのね、相手はアンジュちゃんもよく知っている人よ」
洋子さんは艶っぽく笑い、首を少し傾けた。
わたしも知っている人? ――となると。考えるまでもなく、答えは明らかだった。
「治郎さんですね?」
「当たりよ」
微笑む洋子さんからは、幸せオーラがあふれている。
店での二人は、まるで長年連れ添ったような空気感というか、阿吽の呼吸で日々仕事をしていたから、すごく納得できる。けれど、いつのまに店主と従業員という関係から恋人になっていたのだろう。全く気が付かなかった。
記憶を掘り返していると、洋子さんが話を続けた。
「わたしね、家族が欲しかったの。こんなことアンジュちゃんに言うのは大人としてよくないのかもしれないけど……。離婚してここに戻って来て、バタバタしているうちに母が亡くなって、わたしと治郎ちゃんだけになったでしょ? でも、やっぱり治郎ちゃんは従業員だから、わたしがしっかりしないといけないじゃない? プレッシャーに押し潰されそうだったの」
「洋子さん……」
眉を下げて、困ったように笑う洋子さん。強くて優しいと思っていた洋子さんが見せるその表情に、わたしは胸が切なくなった。
「こういう辛い時に、家族がいたらどれだけ心強いんだろうって思うようになったの。だから、あなたを受け入れるのと引き換えの願い事は、『家族が欲しい』にするつもりだった。まあ、叶えてもらえるかは半信半疑だったけどね。内容が内容だし」
懐かしむように、言葉は続く。
「でもね、結局アンジュちゃんが養子になってくれたし、治郎ちゃんとも自然とそういうことになって、再婚することになった。だから、お願いしたいことがなくなっちゃったのよ」
「そうだったんですか……」
『家族』。そのありがたみは、わたしも痛いぐらいによく分かる。当たり前にあるようで、幸せなそれを手に入れることは、すごく難しいことを。
わたしと洋子さんが抱える背景は全く違うけれど、お互い心の底で渇望していたものは同じなのかもしれない。こうして家族になることができたのも、偶然ではなく、もしかしたら必然だったのかもしれないと、どこか運命的なものさえ感じた。
「わたし、嬉しいです。洋子さんと治郎さんと家族になれて」
心からそう伝える。
「ありがとう。改めてアンジュちゃん、これからもよろしくね」
差し出された右手を、しっかりと握る。温かくて柔らかい感触に、幸せが広がる。
「はいっ! こちらこそ、よろしくお願いします!」
お互いに顔を見合わせ、微笑みあう。
「それでね。まあつまり、そういうことだから、お金のことは気にしないでね? あとアンジュちゃんは勘違いしているみたいだけど。もらったお金がこれで全部だとは、一言も言っていないわよ?」
「……! もうっ、そういうことですね!?」
いたずらっぽく笑う洋子さんはとても綺麗で。その姿がとても眩しく見えると同時に、洋子さんの幸せの中に自分がいるという事実に、心が温かくなる。
「――さ。ごめんね、引き留めちゃって。これからお国に帰るんでしょう? 気を付けて行ってらっしゃいね。わたしは銀行に行ってくるわ」
紙袋を大事そうに抱えて立ち上がる洋子さん。
「はい。スムーズにいけば、夜には戻れると思います。遅くても明日中には。行ってきますね」
わたしも立ち上がり、風丸くんが待っている自室へと急いだ。




