虚空に向かって
「お邪魔します……」
「どうぞ。何もない部屋だけど……」
桜木町デートの翌日。病院で健康が確認された風丸くんは、魚心亭のお手伝いに来てくれた。営業終了後まかないを食べたのち、わたしの部屋へと案内しているところだ。
おそらく、綺麗でおしゃれな彼のお姉さんの部屋とは全く違うであろうわたしの部屋。六畳の畳敷きの部屋にあるのは、勉強机と本棚だけ。押し入れから折り畳みのミニテーブルを取り出し、その前に座布団を置く。
「なんか、落ち着くな」
座布団に腰を下ろした風丸くんが、辺りを見回しながらほうと息をつく。
「そう?」
「おう。姉貴の部屋はさ、なんか臭いんだよ。化粧品とか香水とかで。ここはなんていうか、畳の香りが癒されるな」
そう言いながら、彼は持っていた紙袋から小さな箱を取り出した。
「これ、あいつに。助けてくれたお礼。小早川へのお礼は、また今度ゆっくりでいいか?」
「わたしのことは本当に気にしないで。今回のことはメーアのお手柄だもの。……これはなにか聞いてもいい?」
ベロア生地でできた、黒い小さな箱。どことなく高級そうな雰囲気が漂っている。
「ピアス。あいつ、いつもなんか耳につけてるだろ。真珠の化身なら、アクセサリーとか好きかなと思って。そこまで高価なものじゃないから、気に入るか分かんないけど……」
ぽりぽりと頬を掻く風丸くん。
――ああ、これを用意したかったから、あの時すぐじゃなくて今日お礼をしたかったのね。そう合点がいった。
「もしかしたらぶつくさ言うかもしれないけど、きっと気に入ると思うわ! さっそくメーアを呼びましょう」
首からネックレスを外してテーブルに置き、いつものようにアトマイザーで海水を吹きかける。瞬き一つのうちにメーアが姿を現し――
「……?」
「…………来ないな」
「量が足りなかったのかな」
そんなことはない、いつもはひと吹きで大丈夫なんだけど。そう思いつつも、何度か吹きかけてみる。しかし、ネックレスはうんともすんとも言わない。
「海水が古くなっているとか?」
「夏休み中は毎朝散歩がてら浜辺で詰め替えているから大丈夫……だと思う。冬は三日に一回で平気だったし」
特にいつもと変わったことはない。何がいけないんだろう? もしかして、まだ疲れていて、寝ているんだろうか? 寝ていて出てこなかったことなんて一度もないけれど……。
あれこれ理由を考えながら、じっとネックレスと見つめる。金色の細いチェーンに、同色の台座。そこに乗るのが小指の爪ほどの美しい真珠で――
そこまで視線がいったところで。わたしの目は大きく見開かれた。
「――なにこれ」
「ど、どうした? すげえ怖い声出てるぞ」
戸惑う風丸くんに気を遣う余裕もなく、わたしはネックレスを引っ掴んだ。
そして、真珠の部分を目に近づける。――ああ、どうしたことだろう。
「……ひびが入っているわ……」
「えっ!? ま、まじかよ!?」
白く美しい球体の中心に、禍々しいひび割れが走っていた。よくよく見ると全体的にいくつも傷が付いていて、滑らかで美しい照りが失われている。くすんだ、と表現するのが適切なくらい、その輝きは色あせていた。
「どうして……」
真珠をつまむ指先が震えだす。取り落とさないように、ぎゅっと両手で握りしめる。
どうしてどうして。いつからこんな状態だった? 必死で記憶を辿るも、ぐるぐる思考が回るだけで、答えが見当たらない。
「もしかして、俺のせいか……? 俺を助けるために、こいつは無理したんじゃないか……?」
絞り出すような、苦し気な声。
――そうなのか? 確かにあの時、大きな魔法を二つも使ってわたしもメーアも満身創痍だった――。
だけど、一晩経ってわたしは回復している。魔力の消耗による頭痛やめまいもないし、反対に、魔力過多による魔力酔いも起こしていない。魔力酔いがないのは、メーアがわたしの魔力を吸ってくれているからだ。つまり、メーアは機能しているという証明のはずだ。
「ねえメーア! どうして出てきてくれないの? ねえ!!」
わたしはネックレスに向かって叫んだ。しかし、返事はない。嫌な汗がぶわっと背中に広がる。がたがたと震える手を叱咤しながら、何度も何度も海水を吹きかけた。
ミニテーブルはみるみるうちに水浸しになり、畳に水滴が滴り落ちる。
「――ごめん。小早川。ごめん」
風丸くんに抱き寄せられて、我に返る。
顔は熱いもので濡れていて、鼻も詰まっている。自分が泣いていることに、初めて気が付いた。
「――っ!! なんで、どうしてよ!! こんなの、こんなことって――!!」
風丸くんの肩越しに見える虚空に向かって、わたしは慟哭した。
つまりメーアは。自分の能力値を超えた働きをしたことによって、その負荷に耐えられず、もう出てこられなくなってしまったのか。
わたしの魔力を吸うという役目を全うするための、最低限の力だけを残して。
――そんなのない。あっていいはずがない。だって彼とはまだ、この先もずっと一緒にいて、楽しく過ごすはずだったのに――。
最後に交わした会話は何だった? 日頃の感謝だって伝えきれていない。一緒に飛んでいきたい所をリストアップしたメモ帳も、まだ何ページも残っている。
「うっ……ううっ……。どうして……どうして……」
両目から、とめどなく流れる涙。両手はだらりと垂れ下がり、なんにも力が入らなかった。
急すぎる別れ。昨日、生きていることは当たり前ではないと感じたばかりだったのに。
――人生は残酷だ。幸せと不幸は表裏一体で、急に手の平を返す。絶対的に信じられるものなんて、実は一つもないじゃないか。
辛い思いは一通り経験したと思っていた。でも、今が間違いなく人生で一番絶望を感じている。
風丸くんの腕の中で、わたしは声が枯れるまで泣いた。
途中洋子さんが様子を見に来ていたことに気づかないくらいには、憔悴しきっていた。メーアの温かさを知ってしまったわたしには、彼のいない世界というものが悲しくて、そして怖くて仕方がなかった。




