夕暮れは、まぶしいぐらいの茜色
「大丈夫ですか!? どこか痛いところとか、おかしなところはないですか!? とりあえず、ベンチに座りましょう!」
彼の手を引き、先ほどまで座っていたベンチに戻る。
メーアは治癒魔法が成功したと言ってくれたけど。確認の意味も含めて、わたしは彼の身体をくまなくチェックしていく。
「こ、小早川。大丈夫、大丈夫だから。――ってか俺、はねられた、よな……? 車が突っ込んでくるって思った途端、意識がなくなって――」
忘却魔法の影響か、あるいは自己防衛のためか。事故に関する部分の記憶が飛んでいるようだった。
風丸くんはわたしの事情を知っているので、本当のことを教えても大丈夫だろう。
「――はい。風丸くんははねられて、怪我をしました。――結構な怪我だったので、魔法を使って治しました」
「……まじかよ。ごめん……。ってか、すごいな。今全然普通だし。信じらんね……」
「で、でも! 念のため、今日か明日、お医者さんに行って異常がないか確認してもらってください。成功したと思いますが、万一ということもありますので」
「分かった。今のところは大丈夫そうだけどな」
彼は自分の両手を眺めたり、肩を回したりして、動きを再度確認している。
その様子を見て、助かってよかったと、心の底から安堵した。
「公衆の面前で魔法を使うとちょっとまずいので、メーアの機転で忘却魔法もかけました。だから、風丸くんの事故はなかったことになっています」
「そ、そっか。ほんとにごめん。命を救ってもらったうえ、迷惑もかけちゃって……」
眉を下げる風丸くん。気にしないでくださいと伝えても、申し訳なさそうな顔をしたままだ。
怖い思いをしたのは彼で、痛い思いをしたのも彼だ。わたしはただ、メーアと力を合わせてどうにかこうにか対処しただけで。不慣れな魔法を使って成功できたのは、実力ではなく単なる幸運なのだから。
「ちなみに、メーアって?」
「あ。真珠のことです。彼自身を表す名前があるべきだと思って、昨日名付けたんです」
「そうか。あいつが。……今度会ったら、お礼言わなきゃな」
ぽつりとこぼしたその声は掠れていて。
嫌いと言いながらも、風丸くんのためにメーアは頑張ってくれた。このことをきっかけに二人の距離が縮まったらいいなと思う。
「はい、ぜひ労ってあげてください。わたし一人では、到底対処しきれませんでしたから。――メーアはひねくれたところもありますが、優しくて頼りになる、とても善いひとですよ」
「……そうだな。命の恩人になっちゃったし、これからは上手くやっていけたらと思う」
神妙な顔をした風丸くん。
「なあ。明日の夜、ちょっと時間もらえるか? 病院行ったあと、お前んち行くから。お礼を言うのは早い方がいいと思うんだ」
律儀な提案に、もちろんわたしは頷いた。メーアは疲れていたから、今すぐと言われたら悩んだけれど。明日なら回復していると思う。
「分かりました。――というか、すごく今更ですけど。お店を手伝いに来てくれると、帰りが遅くなっていますよね? お家の人は心配しないんですか?」
「あー、平気。うちさ、女系っていうの? 母ちゃんと姉貴、あと近くに従姉妹も住んでて。夜な夜な女子会してるのよ。男の俺と父ちゃんがどうしてるかなんて気にしてないっていうか」
はは、と苦笑いする風丸くん。女が強い、と聞いて、そういえば父さんも、家では母さんと姉妹たちの勢いに押されていたなあとふと思い出す。
「そんな感じだから、事前に連絡しておけば何も言われない。ああ、洋子さんが一回母ちゃんと電話したみたいだった。来てもらってすみませんみたいな」
「洋子さんが。……ご心配をかけていないならよかったです。風丸くんのお家は賑やかなんですね」
男性陣の肩身の狭さがなんとなくおかしくて、ふふっと笑いがこぼれてしまう。
「賑やかどころじゃないよ、ほんと。毎日うるさくて仕方ない。――だから、小早川といると、すごく落ち着いて居心地がいい」
「きゅ、急に何を……」
台詞の後半部分に、どきっと心臓が跳ねる。そういえば告白の返事をしたのはほんの三十分前。
ずいぶん昔のことのように感じられた。
「あのさ。敬語やめない? 付き合ってるのに、それは変だろ」
ちょっとすねたような表情に、再び心臓が鐘を打つ。
――事故の緊張感で早鐘を打っていた時とは違う、くすぐったいような、切ないような、不思議な感覚だ。
「そう、ですね。直します」
「それ」
「あっ! 直す、直す? 直す!」
「ははっ。小早川がバグってる」
敬語をやめようと意識すると、どうも不自然になってしまう。片言になってしまったわたしを、可笑しそうに見つめる風丸くん。その姿がどうしようもなく愛おしく感じられて、涙がこぼれそうになる。
――こんなやりとりができることが。ふとした一瞬に、生きる意味を見出せることが。その積み重ねが、幸福というものなのかもしれない。彼を失う恐怖を目の当たりにしたからか、生きているのは当たり前ではないと、心にくっきりと刻み込まれた。
今まで、わたしは彼にたくさんのものをもらった。一人では気づけなかったことを教えてくれて、心の奥底に閉じ込めていた感情を引き出してくれた。そして何より、わたしを好きだと言って、必要としてくれた。自分に価値を見出せず、ぼんやりと生きていたわたしにとって、それは最も心に沁みることだった。
今度はわたしの番だ。この先どんなことがあろうと、わたしは彼を守り、支えていきたい。そのために、もっと強くて大きな魔女――人間になりたい。
今になってまた震えてきた両手をぐっと握りしめて、決意する。
みなとみらいの夕暮れは、まぶしいぐらいの茜色で。色鮮やかに、わたしの脳裏に焼き付いた。




