もう少しだけ、頑張れる?
突然の惨劇に、あたりは騒然となった。
「おい君! 大丈夫か!?」
「誰か! 救急車っ! AEDも!」
「……」
通行人たちが慌てた様子で、車と風丸くんのところへと集まってくる。
「うそ……嘘、でしょ」
ぶるぶると小刻みに震え出した両足を叱咤して、転がるように彼のもとへ急ぐ。しかし、倒れる彼のもとにたどり着く前に、わたしの頭は真っ白になっていく。なぜならもう――コンクリートの上は真っ赤に染まっていて。それがどこから流れているものかなんて、答えは一つに決まっているから。
どうにかたどり着いて、傷だらけの彼の身体に触れる。しかしぴくりとも動かず、その温かさは、急速に失われているように感じた。
「どうしよう、どうしよう」
救急車がすぐに来てくれたとしても、この状態で助かるんだろうか?
人間界の医療については、よく分からない。でも、もしここが魔女の国だったら。魔法で止血したり、傷を塞いだりすることができる。大魔法使いであれば、完璧に治癒させることだってできるかもしれない。
ほとんど無意識のうちに、わたしの両手は動いていた。バッグからアトマイザーを取り出し、震える手で何度も何度も首元に吹きかけた。
瞬時に現れたメーアにすがりついて、わたしは馬鹿みたいに繰り返す。
「メーア! 風丸くんが! 助けなきゃ! 死んじゃうかもしれない……っ!!」
「アンジュ様。落ち着いて。大丈夫だから」
彼は冷静にわたしの肩を抱き、ちらりと風丸くんの様子を見た。
「――まずいね。人間の治療では間に合わないかもしれない。……アンジュ様、治癒魔法を使おう」
「わ、わかった!」
促されるままに、わたしは呪文を唱え始める。
周りにはたくさんの人がる。こんな場所で魔法を使ったら、混乱を招いてしまうかもしれない。そうなったら、修行が未達成となるかもしれない。――そんなことが一瞬頭をよぎったけれど、すぐに消えていく。今一番大切なのは、風丸くんの命だ。わたしの状況なんてどうなったって構わない。
「קודש קדוש תן רחמים לחיים הגדולים」
メーアと重ね合わせた左手から、目を細めるほどの光が広がっていく。光は風丸くんの身体を包み込み、光の塊のようになった。
身体から、ぐんぐん何かが吸い取られていく。初めての感覚だ。
「いいって言うまで、気を抜いてはいけないよ」
「分かった」
だんだんと体が重くなっていく。手足の力が抜けてきて、大丈夫だろうかと心配になってきたころ。光が急速に収束していく。
「――あ」
光の中からのぞく風丸くんの身体に、傷はない。衣類も元通りになっていて、周囲を染めていた赤も、綺麗になくなっている。
「成功だ、アンジュ様。もういいよ」
メーアの声も、どこかほっとしたようだった。
光が完全になくなると、ざわめく周囲の声が耳に入った。
「え……!? どういうこと!?」
「怪我が治ってるぞ」
「っていうか、車も元通りなんだけど……?」
「このお嬢ちゃんが何かしたのか? すごい光の中にいたぞ」
――まずい。ばっちりしっかり、見られていた。
遠くから、救急車らしきサイレンの音が聞こえる。救急車が到着して、この状況を見られたら、どう説明したらいいんだろう?
みなとみらいという大都会だ。目撃者は多く、そのぶん訝しむ人間も多い。
ざわつきは広がっていき、関係のない通りがかりの人たちまで、何だなんだとわたしたちの近くに集まってくる。背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「――アンジュ様。もう少しだけ、頑張れる?」
「え? あ、うん」
メーアの疲れたような声に、反射的にそう答える。
隣を見ると、声色の通り彼はひどく疲れた表情をしていた。いつものキラキラ感がなく、額には汗が浮かんでいる。
「メーア、大丈夫? 具合が悪そうだけど――」
「時間がない。僕の言う呪文を復唱して。なるべく心を平坦にして、真っ白な気持ちで唱えて」
かぶせるようにして言い切るメーア。その様子にただならぬものを感じて、わたしは再び精神を集中させる。
「いくよ。אריה הנשייה אוכל הכל.」
「אריה הנשייה אוכל הכל.」
復唱すると同時に、彼と重ね合わせた右手から、いくつもの光が飛び出していく。まるで花火のように空を切って飛んでいくそれは、周囲の人だかりに降り注いでいく。同時に、騒いでいた群衆がだんだんと静かになっていく。
「メーア、これは」
再び吸い取られていく感覚に陥りながらも、彼に問う。
「忘却魔法。アンジュ様が修行未達成になったら、いろいろ面倒でしょ。魚心亭の立場も悪くなるし、修行先から日本が外されることだって考えられる」
わたしの脳裏によぎった一瞬のことを、彼は的確に把握していた。
「ありがとう。この発想は全くなかったわ」
「お褒めにあずかり光栄です、ご主人様」
昔読んだ書物に書いてあったので、呪文自体は知っていたけれど。練習したことはなかったし、今使うという考えにも至らなかった。
メーアの素晴らしいアイデアに救われた形だ。
「わたしにはあなたがいないとだめね。これからももっと練習して、自慢のご主人になれるように頑張らないと」
吸い取られているのは、きっと魔力なんだろう。めまいと頭痛を感じながらも。この状況に負けるものかと思いながら、必死で笑いかける。
メーアも、苦しそうな笑顔で答えた。
「アンジュ様はもうなっているよ。――大丈夫そうだね」
花火のような光の放出が終わり、周囲は静寂を取り戻した。
一瞬間を置いたあと、一気に時が流れ出す。
「――あれ? あたし、何でこんなところに?」
「暑~。早く中に入ろうぜ」
散り散りになっていく群衆。
駆け付けた消防隊員は「俺ら何でここにいるんだっけ?」と首をひねるものの、横転している新車を目にして、慌てて駆け寄っていった。
周囲が日常の続きに戻る様を見て、安堵の気持ちが胸に広がっていく。
「よ、よかった……。初めてだったけど成功したわね! メーア!」
ひどい頭痛を感じながらも、彼と喜びを分かち合おうとする。しかし、彼の姿はどこにもなく。しばらく周囲を見回して、足元に落ちているネックレスに気が付いた。
「もう戻ったのね。なんだかすごく疲れていたし、大丈夫かしら」
ネックレスをつまんだところで、うめき声が聞こえた。
「うっ……。……あれ。俺、なにしてんだ……? 熱っ! 地面熱っ!!」
「風丸くん! 気が付いたのね!」
コンクリートの道路から飛び起きる風丸くん。
手早くネックレスを装着し、その肩に飛びついた。




