あなたのことが大好き
「大丈夫ですか? 風丸くん。戻りますか?」
「ひっ! い、いや、平気……。だんだん慣れてきたから……! っ、おい! お前ふざけんな! 押すなよ!!」
「狭いからもうちょっとそっち行ってくれない? はあ、ほんと軟弱だなあ。アンジュ様なんて、最初から生き生きして飛んでいたんだよ?」
魚心亭を飛び立ってから、三十分ほど経っただろうか。風丸くんはがっしりと箒の柄を握り、身を固くしている。そしてそんな彼をにやつきながらつつく真珠。予想していた光景とはあまりにかけ離れていて、わたしは困惑していた。
いつか三人で箒に乗ってみたいという思いから作った、この特大箒。気持ちを伝える前に、ちょっとでも和やかな雰囲気になったらいいなと思っての夜間飛行だったのだけど――。どうやら逆効果だったようだ。そう結論付けて、魚心亭の庭へと舞い戻る。
「ご、ごめんなさい! 無理させちゃいましたね……」
箒を降りた途端、ぐたっと芝生に座り込んだ彼に駆け寄る。月明りに照らされたその顔は真っ青だ。
「いや、ごめん……。俺こそせっかく乗せてくれたのに……。悪いけど、今日はもう帰るわ……」
「はい。すみません。ただでさえ試合で疲れているのに、余計に疲れさせてしまいましたね」
力なく立ち上がり、ふらつきながら荷物のもとへ向かう風丸くん。
「いや、ほんと気にしないで。明日はあるってことでいいか?」
「わたしは大丈夫です」
もともと明日は一緒に食事に出かける予定だった。今日の試合観戦が予定になかっただけなのだ。
急いでいるわけではない。気持ちを伝えるのは、明日で大丈夫だ。
「じゃ。また明日な」
「はい。――おやすみなさい」
彼を見送って玄関の扉を閉めると、真珠が口を開いた。
「……言わなくてよかったの?」
主語がないけれど。彼はネックレスの状態でも情報を見聞きできるから、なんのことを指しているのかすぐ理解できた。
「明日で大丈夫。さすがにあの状態の風丸くんを引き留めてする話じゃないもの」
「ふ~ん」
両腕を頭の後ろで組み、形のよい唇を尖らせる真珠。
自室への階段をのぼりながら、前々から気になっていたことを尋ねる。
「真珠はわたしが風丸くんと一緒にいるの、嫌?」
「うん、嫌」
即答だった。ある程度予想はしていたけれど、とてもすがすがしく言い切ったその様に、思わず苦笑いしてしまう。
自室に入った途端、座り込んで畳に足を投げ出す真珠。隣に座り、引き続き問いかける。
「……ずいぶんはっきりと言うのね?」
「だってさ――。僕が一番アンジュ様と長くいるし、一番よく分かっているんだよ? あいつ見てると、足りないところばかりでイライラするんだ」
つまりそれは、真珠もわたしのことを、きょうだいのように思っているということだろうか? 姉なのか妹なのかはわからないけど。
そういう存在が自分ではなく、他の人と仲良くするのが嫌だと、そういうことなんだろうか。
だとすれば、その気持ちは分からなくもない。ずいぶん昔、わたしに魔力が無いとわかる前。妹が生まれてから、両親はそちらに付きっきりになってしまった。寂しさのあまり気を引こうといたずらをしたり、だだをこねたりしたことは、うっすらと覚えている。
その時の自分は、どうしてほしかっただろう。きっとそれが今、真珠に対してかける言葉なのではないか。
ぶつくさ言いながらむくれる真珠を前にして、脳内に散らばる記憶をかき集める。
「――わたしは風丸くんと仲良くなっても、真珠のことは変わらず大切に思っているわよ。あなたがいてくれなかったら、今のわたしはいないと思うもの。ずっと卑屈なままで、幸せになろうという発想にもなっていなかったわ」
「……うん」
「真珠の代わりなんていないし、ずっと側にいてほしいと思ってる。いてくれなきゃ嫌」
言っているうちに、真珠のむくれた頬が緩んでいくのがわかった。
「……もちろん側にはいるさ。……あいつのことは嫌いだけど。アンジュ様が幸せなら、それが僕の幸せでもあるからね。何も言わないよ」
「真珠……」
祝福の石。その使命から言っているにしては、感情の乗った言葉だった。胸の奥が熱くなって、思わず言葉を失う。
――わたしは本当に恵まれている。こんなに素晴らしい存在が、生まれたときから一緒にいてくれたなんて。わたしの魔力を吸い続けることで命を守り、そして姿を現せるようになってからは、わたしに生きる意味を教えてくれた。
家族やきょうだいという表現では、あまりに不十分だ。もっと大きくて、強い絆でわたしたちは結ばれている。
「――あのね。もしよかったらなんだけど。わたし、真珠に名前をあげたくて」
心の中でずっと考えていたことを口にする。
真珠は驚いた表情でわたしを見た。銀色の長いまつげに縁どられた青い瞳が、大きく見開かれる。
「名前?」
「そう。真珠って呼んでるけど……それって、宝石の名前であって、あなた自身を表すわけじゃない気がしていて。ずっと違和感があったの」
「……」
少し俯いて、押し黙る真珠。さらりとした髪に隠れて、その表情は見えなくなってしまった。
「……どんな名前、なの?」
「色々考えたんだけどね。メーア、ってどうかしら? 外国語で海っていう意味なの。音の響きが素敵で、真珠に一番しっくり来ると思って」
「メーア。僕が……」
――しばらく反応を待ってみる。
しかし、彼はまた黙り込んでしまった。
「あっ……気に入らなかった? 一応、苗字も考えたんだけど、やめておこうかな」
「苗字もあるの? 教えてアンジュ様」
食いつくような勢いに、少々面食らう。気に入らなかったわけではなかったのかしら。
「苗字はね、エーデルシュタイン。宝石っていう意味。だからね、メーア・エーデルシュタインってどうかなと」
「メーア・エーデルシュタイン」
「そう」
――そしてまた沈黙が流れる。
黙って俯く真珠が気になり、彼の顔をのぞき込もうと首を曲げる。――と同時に、彼は顔を上げた。
その表情――はにかむような、照れくさそうな。それでいて、泣きそうな。初めて見るその顔に、思わず心臓がドキンと鐘を打つ。
「ありがとう。アンジュ様。すごく嬉しい」
もともと美形の真珠だ。滅多に表情を崩さない彼が、さまざまな色を顔に浮かべている。目を奪われて、瞬きすらすることができない。
ひんやりしたものが頬に触れる。彼の手だった。
「アンジュ様。ずっと僕のそばにいてくれるよね? あいつがいてもいなくても、僕を愛してくれる?」
海のように青く澄んだ瞳が、わたしに問いかける。水面のように揺れるそれは、優しく弧を描き、目じりは少し赤いようにも見えた。なぜだか、ぐっと胸が苦しくなる。
「――ええ。わたしはあなたのことが大好きよ。今までも、この先もずっと。だから、これからもよろしくね。メーア」
真摯な瞳に対して、わたしもありったけの誠意をもって答えた。
わたしの祝福の石。唯一無二の相棒として。嘘偽りのない、心からの愛情をもって。頬に添えられた彼の手を握り、彼にありったけの笑顔を向けたのだった。




