あなた甘いわよ
「じっ、獣医になりたいの。動物の、お医者さん」
「へえ……! いいじゃない。アンジュ様は動物が好きだものね」
「あ、ありがとう。そう言ってくれると、すごく嬉しい」
動物だけは、今も昔もわたしを虐げたりしなかった。むしろ、ノアにしろ、しめじにしろ、寄り添ってくれた。その存在に助けられて、今までやってこられたと思う。
わたしの愚かな血迷いによって、その友人の命を奪ってしまったことは一生忘れない。せめてもの償いや、動物たちへ恩返しがしたいという想いはずっとあった。図書館で借りた本で、獣医という職業があることを知り、これだと目が覚めたような気持ちになった。
「でも、お医者さんとなると頭がよくないとだめだよね? アンジュ様、大丈夫なの?」
にやりと笑う真珠。
「が、がんばるわっ! まだ少し……結構……成績は足りてないけど。あと半年以上あるから、チャンスはあると思う。いいえ、間に合わせるわ。ノアのためにも」
「おっ。僕のご主人様は、ずいぶんと頼もしくなったね」
「それは、ここのみんなのおかげね。日本に来ることができたのは、わたしの人生で一番幸運なことだったと思うわ」
ある意味では、厄介払いとはいえ修行に出してくれた両親に感謝すべきかもしれない。修行すら許してもらえず、あのまま狭くて薄暗い倉庫に閉じ込められている未来を想像すると、吐き気がしてくる。
ふるふると頭を動かし、嫌な想像を振り払う。
「そうと決まったら。洋子さんには早めに話をしておいたほうがいいかもしれないわ」
洋子さんは、わたしは高校を卒業したらソルシエールに帰ると思っている。いったんは帰るけど、魔女の称号を得たのち、すぐ日本に戻り、大学――受かっていればだけど。あれこれ準備をしなくてはいけない。
スムーズに事が運ぶかどうか分からないから、もしかしたら洋子さんに迷惑をかけてしまうかもしれない。それと、もし洋子さんがいいと言ってくれたら。大学に入ったあとも、魚心亭のお手伝いをさせてもらえたら嬉しいと思っている。
まだ不確定なことも多いけれど、このあたりのことをとりあえず伝えておこう。洋子さんにも都合などあるだろうし。
今からだと、どうだろうか。壁掛け時計で時刻を確認する。
「――もう二十三時。……遅いから、明日にしましょう」
「じゃ、僕も戻るね。おやすみ、アンジュ様」
穏やかな真珠の声。次の瞬間ぐいっと身体を引き寄せられ、おでこに柔らかいものが触れた。
「……?」
ぽとりと音を立てて、畳に落ちるネックレス。
「なんだろう、今の」
おでこに今も残る、ひんやりとした柔らかい感触。しかしわたしは深く考えることなく、いつものようにネックレスを首に付けたのだった。
◇
次の晩。
夕食の席で、洋子さんに切り出す。
「洋子さん。ちょっと、お話があるんです」
「どうしたの? 改まって」
優雅に刺身を口に運びながら、向かいに座る洋子さんは微笑んだ。
箸を置いて、口を開く。
「わたし、修行が終わったら、日本に定住しようと思ってるんです」
「あらまあ! 日本が気に入ったの?」
「はい……。実家はあってないようなものですし、祖国に思い入れはないです。日本にいるほうが、わたしは幸せなんです」
「アンジュちゃんが自分の幸せのことを考えられるようになったのは、すごく素敵なことね」
わたしに向けられる、温かでしっとりとした眼差しが、なんだかくすぐったい。
「それで。大学に行こうと思ってるんです。実は、獣医になりたくて」
「いいじゃない。わたし、応援するわよ」
「あ、ありがとうございます!」
――反対されなくてよかった。もしかしたら、という思いも多少あったので、ほっとする。
「高校を卒業したら、手続きのためにいったん国に帰りますが、すぐ戻ってきます。まだどこの大学を受けられるかわからないんですが、合格できたら、すみやかに荷物をまとめたいと思います。一人暮らしの家を決めるまでは、本当に申し訳ないんですが、こちらに置かせていただいてもいいでしょうか……。もちろん、お店のお手伝いはしますので……」
「ちょっ、ちょっと待ってアンジュちゃん」
なぜか慌てた様子の洋子さん。なんだろうと、首をかしげる。
「あなた、一人暮らしをするの?」
「あ、はい……。修行が終わった以上、そうなるかと……?」
問題があっただろうか。今後も魚心亭のお手伝いができるように、そんなに遠くには行かないつもりだけど。しいて言えば、県内の獣医学部に合格できるかどうかが一番の問題だ。
そう考えていると、特大のため息が聞こえた。
「あのねえ、アンジュちゃん。あなた甘いわよ」
「!」
洋子さんは、今まで見たことが無いくらい、厳しい表情をしていた。




