僕の前に腰かけて
地面にぶつかる!! そう思って目をぎゅっとつむり、真珠の身体にがっしりとしがみつく。祝福の石の化身である彼には血が通っていないのか、身体も氷のように冷たかった。
今か今かと、その時を待つ。――しかし、いつまで経っても衝撃は訪れない。それどころか、ふわっと浮遊する感覚があった。
「……?」
「アンジュ様。目を開けてごらん」
真珠の優し気な声。
おそるおそる目を開くと――いつも部屋の窓から見ている星空が目に入る。しかし、地に足は着いていない。一体どういうことだろうと周囲を見回すと――わたしは彼に抱えられたまま、宙に浮いていた。ざあっと、勢いよく血の気が引いていく。
「ふぁっ!? ななななっ、なにこれどういうこと!?」
「おっと。あんまり動くと危ないよ? 箒は飛ぶものであって、その上でダンスを踊るものじゃないからね」
「ほ、箒ですって?」
「そうだよ。ほら、見て」
彼の目線の先――足元のほうを見ると。そこには確かに箒の柄があった。
「ええっ!?」
慌てて首を後ろにひねり、彼の肩越しに後ろを見ると。そこには箒の穂が見えた。柄と穂のつなぎ目には赤いリボンが付いている。わたしが作ったしるしで、鈴木さんたちの暴走から生き残った唯一の箒。
つまり現在の状況はこうだ。わたしは箒に乗った真珠に抱えられて、夜空に浮かんでいる。
分かったようで、分からない。だってわたしには魔力がないから、箒で飛ぶことはできないのだ。今まで何度もまたがってみたけど、うんともすんとも言わなかったのだから。
まだ夢を見ているのかのような感覚だ。一人だけ面白そうにしている真珠に尋ねる。
「真珠、どういうことなの……? わたしは飛べないのよ。説明してくれる?」
「ふふっ。簡単さ。アンジュ様の魔力は僕が――」
そこまで言ったとき。静かな夜空に、女性の声が響き渡った。
「アンジュちゃーん! どうしたの!? すごい叫び声が聞こえたけどっ!」
「洋子さん!」
わたしの部屋から洋子さんの大声が聞こえる。そういえばさっき、地面に落ちると思って大声を出してしまった。心配して来てくれたのだろうか。
わたしは無事だと説明したほうがいい。でも、この状況をなんて説明したらいい……? わたしを抱える浮世離れな美青年に、空飛ぶ箒。自分でもよく分かっていないのに、どうしたらいいんだろう。
あわあわしているうちに、洋子さんがわたしの部屋の窓からひょっこり顔をのぞかせた。
「……んっ? アンジュちゃん!?」
「あっ」
洋子さんの少し険しい目が、わたしを捉えてぴたりと止まる。髪は寝起きのまま少し乱れていて、淡い黄色のパジャマ姿だ。
その表情は険しいものから、徐々に目が見開かれ、驚きへと変化していく。わたしの顔と箒を見比べて、信じられないものを見たような表情をしている。
何か言わなくちゃと、焦って口を開く。
「あのっ。洋子さん。これは、ですね」
「まあまあアンジュちゃん! よくわからないけど、あなた飛べるようになったのね!? それに、ずいぶん体調もよさそうじゃない!」
両手を胸の前で組み、目をきらきらさせる洋子さん。
混乱させて迷惑をかけてしまうかと思っていただけに、面食らう。
「あ、えっと」
「よかったじゃない! って言っていいのかしら? 気にしてるみたいだったから、そう言わせてもらうけど」
「あっ、はい」
「驚いたわあ。でも、アンジュちゃんも叫んじゃうくらい嬉しかったのよね? ご近所さんに迷惑をかけない程度に楽しんでいらっしゃいね! それじゃ、わたしは布団に戻るわ。明日はお赤飯を炊かなきゃね!」
鼻歌を口ずさみながら、洋子さんは窓をぴしゃりと閉めた。
「――さすが洋子さんだね。肝が据わっている」
真珠が感嘆の吐息を漏らす。
「そ、そうね。受け入れがスムーズすぎてちょっとびっくりしたけど、洋子さんは並大抵のことには動じないから……。そういえば、真珠のことは何も言われなかったね?」
そう言って、彼を見上げる。
――下から見上げるアングルというのは、あまり美しく見えない角度らしい。小桃ちゃんは下から写真を撮られることを嫌がり、常にななめ上から自撮りをするくらいだ。しかしこの真珠という青年の美しさに関しては、角度は関係なかった。相変わらず隙のない美しさを誇っている。
彼は銀色に縁どられた目を細めて、にっこりと微笑んだ。
「ああ、彼女に僕は見えていないからね。僕のこの姿は魔力のない人間には見えないよ。だから、ネックレスを付けたアンジュ様が箒に乗っている姿が見えていたはずさ」
「そ、そうなの。じゃあ、あなたは今後ずっとこの姿のままなの? というか、そもそもどうしてこの姿になったのかしら?」
彼自身のことと、この状況については、分からないことだらけだ。
地上からの高さに今更どぎまぎしつつ、尋ねる。
「ふふっ。気になることがたくさんあるね? アンジュ様は可愛いな。じゃあ、夜空をドライブしながら説明しようか」
言い終わると同時に、箒がすいっと動き出した。
「わわっ、と!」
「僕の前に腰かけて。そのほうが安定する」
「こ、こう?」
彼は軽々とわたしの身体を自分の前へと移動する。わたしが前、真珠が後ろという形で二人乗りする格好だ。
両手で目の前にある箒の柄を握りしめる。滑らかな調子で動く箒によって、心地よい海風が髪をさらさらとなびかせる。
得も言われぬ感動が、じわりと胸に広がった。
「ほんとうに、飛んでいるのね」
ぽつりと零れた呟きを、真珠が拾う。
「そうだよ。僕とアンジュ様ならきっと何でもできるんだ。さあ、出かけよう!」
高らかに上げたその声に呼応するように、箒はぐんぐん加速し、胸の鼓動も高まっていく。
真っ暗な海に浮かぶ満月に向かって、わたしたちは風を切った。




