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泣き虫フィルと感情の仮面

掲載日:2021/02/14

泣きたくても泣けない時はある。

--------

「やーい!泣き虫フィル!悔しかったら追いかけてこいよー!」

「うわーん!かえしてよー!ぼくのハンカチなのにー!」


今日もいつものように、村の皆はぼくのことをいじめて楽しんでいた。ぼくは泣き虫で、簡単なことですぐに泣く。泣くのが好きな訳じゃない。でも、気持ちが昂ると怒るよりも泣くことを体が選んでしまう。


「…フィル!またそんな泣いて!どうして怒らないのよ!!そんなんだから泣き虫フィルなのよ!」

「タ、タイスちゃん…。」

「あなたがそんな風にすぐ泣くからあいつらも調子に乗るんじゃないの!」


タイスちゃんは、ぼくと同じ日に生まれた女の子だ。僕と同じ日に生まれて、僕と同じ青い髪だから、姉弟みたいと言われることがある。でも、ぼくと違ってタイスちゃんはすごく人気があった。

明るくて、可愛くて、誰にでもハキハキと言えて、それがすごく正しかった。男の子と喧嘩しても必ず勝ってた。もちろん、男の子たちも女の子を本気で叩けなかったっていうのもあるだろうけども、それを差し引いてもタイスちゃんは強かった。ぼくはタイスちゃんと喧嘩したことはないけど、たぶん勝てないと思う。


ぼくはそんな人気者のタイスちゃんに、毎日怒られていた。

きっと同じ日に生まれた男の子が、女の子である自分より泣き虫なのが、我慢できなかったんじゃないかと思った。

ぼくはそんなタイスちゃんに対して、いつもごめんなさいって心の中でも謝っていた。弱くてごめんなさい。強くなれなくてごめんなさい。君のことを好きになって、ごめんなさいって。いつも、毎日。




『タイスちゃん!これあげる!かんむり!』

『わー!きれいなおはな!ありがとう、フィル!』


『ぼく、しょーらいタイスちゃんとけっこんしたいな!』

『ほんと!?うれしい!フィルだいすき!』

『ぼくもだいすき!』


『フィル…またいじめられちゃったの?』

『うん…おんなのことあそぶなんて、おとこらしくないって…。』

『それじゃあ、わたしはだれとあそべばいいの?』

『…いじめられてもいい。』

『フィル?』

『ぼくは、タイスちゃんとあそびたいもん。』


『へへーん!フィルをいじめるからこうなるのよ!』

『す、すごい!タイスちゃんつよーい!』

『ふっふーん♪フィルもちゃんと私くらいつよくなってね!やくそく!』

『う…うん…!』




あの日の約束を、ぼくはまだ守れずにいた。

ぼくは未だにいじめられてて、タイスちゃんに守ってもらった。


「しっかりしてよね!私と同い年でしょ!?」

「う…うん…ご、ごめんね?」

「…まったく、もう!イライラするなあ!ほら、これあげるから!」


タイスちゃんが一枚のハンカチをくれた。それは確か、前の誕生日にタイスちゃんのママから貰った大切な宝物のはずだった。


「だ、ダメだよタイスちゃん!これはタイスちゃんの――」

「いいから受け取る!そしてちゃんと約束して!もうあんなやつら相手に泣いたりしないって!」


タイスちゃんはよほど怒っているようで、顔を真っ赤にして眉を吊り上げていた。こういう時のタイスちゃんは、僕が何を言っても駄目なことが多い。

けどきっと、タイスちゃんがどんな顔をしててもぼくは約束したと思う。何を言っても駄目だとか、そんなことは関係ない。なんとなくだけど、この約束だけは破っちゃだめだと思った。だってぼくは、もっと昔の約束も守れてなかったから。


「…うん。わかった!ありがとうタイスちゃん!ぼく、もう泣かない!もっと強くなってみせるよ!」

「…そ、それでいいわ!絶対にわたしより強くなってね!ほんとにほんとの約束よ!」

「うん!」


誰よりも強くなって、タイスちゃんより強くなって、いつかこの子を守れるくらいに強くなるんだ。

それがぼくの目標になった。ぼくが生きていく理由になった。




その日からぼくは、いじめられても絶対に泣かなかった。頑張って怒るようにした。そしたら今度は腹を立てた男の子たちが暴力に訴えるようになった。

痛かった。叩かれるのは嫌だった。転ばされた拍子にすりむくこともいっぱいあった。でも泣かなかった。


「フィル!がんばれ!負けるな!」

タイスちゃんはいつも僕の事を応援してくれた。それだけでどんなやつでも戦える気がした。

「くっそー!」

「う、うわ!?」


いつしか、僕は叩かれるだけじゃなくなった。叩き返した。それでも負けて、負けて、負け続けて…そのたびにタイスちゃんから怒られた。


「しっかりしなさいフィル!なんでもっと強く叩かないの!絶対手加減してるじゃない!?これじゃフィルが傷つくばかりじゃないの!」

「だ、だって…強く叩いたら痛いんだよ?ケガするかもしれないもん…。僕、あんなやつらでも、ケガさせたくないもん…。」

「ああいうあいつらはちゃんと叩かないとわからないでしょ!?フィルが傷付いたら私もつらいってなんでわかんないの!もう知らない!フィルのバカ!」

「あ…タ、タイスちゃん!」


その日初めてタイスちゃんは涙を見せて…それ以降、僕とタイスちゃんは話さなくなった。




「…ごめん…。僕は…やっぱり弱虫だ…っ!」

僕が情けなさすぎて、ついに嫌われたんだと思った。そう思ったら、久しぶりに涙が出た。

叩かれるよりも、いじめられるよりも、タイスちゃんを泣かせたことが、話せなくなったことが辛かった。




それから数年。

僕が12歳になった時、村から出て引っ越すことになった。元々村の冒険者ギルドで出張所勤務をしていたお父さんが、王都の冒険者ギルド本部所属に戻ることになって、勤務先が王都になったからだ。

王都から村に引っ越すことは珍しくないが、その逆は割と珍しい。出発の日は、村の人たちが奇異と惜別の念を綯い交ぜにした目で見ていた。その中には、僕をいじめていたやつらと、疎遠になったタイスちゃんの姿もあった。

タイスちゃんは綺麗になった。でもそれは子供から大人になる最中のような、花のつぼみが開く寸前みたいな儚さも感じられて、僕はついつい見惚れてしまっていた。きっと、今日しかそれを見ることが出来ないと思った。


「あ…っ!」

僕の目線に気付いたタイスちゃんは、気まずそうに目をそらした。それはそうだろう。僕らはあの日から、ずっと他人のように過ごしてきた。今更、昔のように接することなんて出来ない。


…それでも、タイスちゃんに何か言いたかった僕は、自然と体が動いていた。


「タイスちゃん!」

「…っ!?」

あの日貰った一枚のハンカチを、ひらひらと彼女に見えるように振って見せた。僕は君に励まして貰った日々を忘れない。君に貰ったこのハンカチの価値を見失わない。


絶対に君を、忘れない。


正しく伝わっただろうか。泣きだした彼女にきちんと伝わったのか、不安ではあったけども。


「お父さん、行こう!」

「…すまない、フィル。」

「大丈夫だから!楽しみだなー、王都!」


あの日の誓いを胸に、僕は王都へと向かっていった。




--------

王都に着いてからは、冒険者見習いとして簡単な任務をこなすようになっていた。


最初、冒険者になって強くなりたいと言った僕にお父さんは猛反対していた。優しすぎる僕では絶対にやっていけない、内勤の仕事を引き継いでくれ。そんなお父さんの願いを全部跳ねのけてでも、僕は冒険者になりたかった。あいつらよりも、そしてタイスちゃんよりも強くなって、どんなことがあっても泣かない強さを手に入れるためにも、僕は冒険者にならなくちゃならなかった。そう信じていた。


「フィル、剣を強く握りすぎだ。そしてもっと足を使え。」

「はいっ!」


それでも、剣の握り方もわからなかった僕を導いてくれたのは、元冒険者でもあったお父さんだった。お父さんは…とても強かった。既に引退して10年以上経つはずなのに、模擬戦で勝つことが出来ない。村のあいつらにも勝てなかった僕だから、大人のお父さんにも勝てないのは仕方なかったのかもしれないけども、それにしたって手も足も出ない。剣の動きが見えなかった。


「はあ…!はあ…!ありがとうございました!」

「よし…よく泣かずについてきてるな。偉いぞ、フィル。」


そう言って笑いながら頭を撫でてくれるお父さんのことが好きだった。悔しさと一緒に、誇らしさで胸がいっぱいになる。いつか僕も、お父さんみたいに強くなるんだと心に誓った。




そんな父から冒険者としての心得と技術を教わる毎日を送りながら、僕はひたすら薬草集めの依頼を受け続けていた。王都からとても遠い土地でも関係なく薬草を集めに行き、道中で遭遇する魔獣を退治しながら仕事をこなしていく日々が過ぎていく。初めはバディとして同行してくれていたお父さんも、途中からは僕に任せてくれるようになった。


薬草集めの依頼はギルドへの貢献度があまり高いとは見てもらえない。必要不可欠な消耗品なのに、その確保を新人に任せているものだからいつも数が足りなかった。だけど、たまに薬が足りなくてギルド管轄の治療院でも治療が出来ず、痛いのを我慢してる先輩冒険者さんの姿を見てからは、ずっと薬草集めを続けていた。ヒーラーさんがいればすぐに治せるけど、ヒーラーさんは上位冒険者の間で常に人気があって、いつもギルドに居なかった。


「おい、また薬草収集屋ハーブコレクターが薬草依頼を受けにきたぜ。」

「よっ!薬草名人!今日もギルドを代表してたくさん集めてくれよな!」


ぎゃははと笑う冒険者たちを無視して薬草集めを続けた。


「ありがとうな。この前はお前の薬草のおかげで助かったよ。」

「フィルさん!今日もお疲れ様です!ご飯一緒に食べませんか?」


僕のことを認めてくれる人もできた。新人冒険者に薬草が群生してるところを教えてあげたりもした。


でも時々納品した薬草が間に合わなくて死んじゃう人もいた。魔獣に食い殺される人も何人もいた。山賊に襲われて人を斬らないといけない時もあった。どれもすごく辛くて、何度か冒険者を辞めたくなった。


それでも僕の心の真ん中には、あの日の目を逸らして泣くタイスちゃんの姿が鮮明に焼き付いていた。彼女と胸を張って再会できるようになるまでは、冒険者を辞めたりはしない。あの日貰ったハンカチに何度も誓いを立てて、挫けそうになる度に決意を新たにした。


そんな出会いと別れを繰り返す、ある意味で充実した日々を送り一年が経った。僕は周りから嗤われる一方で笑顔を失い、あの日の約束を守って泣きもせず、無表情で薬草ばかり集めているとして一部からは不気味がられていた。


そんなある日、ギルド職員さんから青い書類を渡された。今まで渡されたことのない書類だったが、同期はとっくの昔に受け取っていた馴染みのある書類だ。


「昇級試験…僕が、ですか?」

「ええ。薬草依頼じゃギルドへの貢献値が稼げなくて、渡すのがこんなに遅くなってしまいましたが…()()()受けてみますか?」

「は…はいっ!」


僕の大きな声に、職員さんもびっくりしていた。僕の働きがやっとギルドに認められたような気がして、嬉しかった。


「そっか…君はまだ、笑えたんだ…。」

職員さんがその様子を見て柔らかな笑みを浮かべていることにも気付かないまま、昇級試験を受ける手続きを進めた。




--------

「フィルさん、そんなに何本も剣を下げていくんですか?討伐対象はアーミードッグ一匹ですが…。」

「はい。今回は薬草を持ち帰りませんから、その分多めに。念の為です。」

「…もしや二刀流を使われている?」

「まさか。そこまで器用じゃありませんよ。」


僕の両腰にはショートソードがそれぞれ3本吊るされていた。いつもは2本ずつ計4本吊るしている。いずれも何度か使用したことのある剣なので、使用中に事故が起こる心配は少ない。万が一に備えて錆止め油も多めに塗っておいた。呆れたような目線を周囲から浴びながら、王都から少し離れた位置の丘へ向かう。事務室の奥にいるお父さんだけが納得した顔で頷いてくれた。


昇級試験は、職員監督の中でのソロでの魔獣退治だ。対象はEランクに分類されるアーミードッグ一匹。ちょっと遠くで薬草集めをしていれば散々出会うやつだが、王都周辺ではあまり見掛けない魔獣で、はぐれた犬が迷い込むことがあるくらいだ。本来は群れで狩りをすることが多く、その場合は正面から対するのは難しい敵とされている。僕も彼らと正々堂々やり合うのは御免被りたかった。


一匹でも倒せれば合格らしいのでそうしたいが、群れに当たればそれでは済まないだろう。群れとは、統率する者がいるから群れになるのだ。頭を潰さないと群れはまた大きくなる。なら、見かけたからには頭を潰さねばならない。


「フィルさん、あんまり魔獣討伐の依頼をやったことないんですから、無理はしないでくださいね?危ないと思ったら逃げてください。」


王都に程近い丘を歩く中、監督職員のポールさんはすごく心配してくれていた…ようだが、同時に僕を少し見下してもいた。剣を何本も持っていく僕を素人だと侮っているのがわかる。ギルドでは薬草集めしかしてなかったし、それも無理はないと思う。妥当な評価なので、腹は立たなかった。


「はい。ポールさんも気を付けてください。彼らは姿を隠して回り込むのが得意ですから。」

「…お気遣いありがとうございます。ですが、私も元B級ですから、自分の身は守れますよ。」

ポールさんの目に剣呑な光が宿った。F級の薬草収集屋が馬鹿にするなと雄弁に語っている。でも、それは今僕に向けるべきではない。


「ええ、そうしてください。ポールさん、23匹です。」

「なんだって?」

「全周です。すでに囲まれています。」

「なっ!?」


自分の庭とあって油断していたのか、それとも内勤が長かったためか、ポールさんは気付くのが遅れた。すでにアーミードッグ達は僕らを標的として定めている。丘は僕らの腰より低い程度の草が生い茂っていて、やつらが息を殺して伏せているとなかなか気付けない。薬草集めをしていて、一番厄介な邪魔者がこいつらだった。


1本目の剣を抜き放ち、構えた。

紛れもない殺意を向けられて泣きそうなほど怖いが、もう涙は流さないというあの日の誓いが涙を押し留めてくれた。震えを強引に沈めて、背後の監督職員に声を掛けてみせる。


「迎撃します。」

「わかってます!それより一匹倒したら後は任せていいですからね!無理はしないで!」


いや、はぐれを潰すだけならともかく、全周を囲まれた状態ではいずれにせよ同時に襲われる。それなら僕も攻め手に回るほうが確実だ。

僕らが存在を認知したと気付いたやつらは、一斉に襲いかかってきた。ポールさんは自前の剣を使い、流石に危なげなく犬を斬り伏せていく。持っている剣は業物らしく、何匹か斬っても切れ味が落ちる気配がない。その様子を見た犬たちはポールさんをより驚異と見たのか、僕に狙いを集中させるつもりのようだ。


一斉にとはいえ、本当に同時に飛びかかれば味方同士ぶつかることをやつらは理解している。だから正面衝突を避け、ある程度連続してお行儀よく襲ってくるのがこの犬どもの特徴だ。賢いといえばそうだが、戦力を逐次投入してくれるというならありがたく各個撃破するまでだ。


僕は首筋に向かって牙を立てようと飛びかかる一匹の首へ逆に剣を突き立てて地面に叩き落とすと、すぐさま2本目の剣を抜いた。もがく犬の頭を鉄板を入れたブーツで踏み砕き、とどめを刺す。絶命を確認するまで油断してはいけない。かれらは足を失っても噛み付いてくる。


立て続けに向かって来た数匹の口腔めがけて斬撃を見舞い、脳と体を軽やかに分離させていった。何度か戦ってきたが、爪よりも牙を使うことを好んで大きな口を開くこいつらにはこれが一番いい。爪を見舞う際も大振りかつ直線的で、お父さんの剣と比べれば驚異にはならない。5匹目には口腔に突きを見舞って剣ごと地面に縫い付け、わずかな空隙を使って最初の犬に刺したままだった一本目の剣を引き抜いた。


次から次へと襲ってくる犬たちを3,4匹斬っては剣を地面に刺していく。血糊で汚れた剣はそう何匹も斬る前に切れ味を失うから、大群を一人で処理するならこうするしかない。時々ポールさんの後ろから襲うやつもいて、そいつらに向かって剣を投げつけたりもした。足を狙ってくるなかなか賢いやつもたまにいるが、それは鉄板を入れた靴で蹴り飛ばせば問題ない。この程度の浅知恵に翻弄されるようでは、ソロで薬草採集などできない。


5本目の剣を地面に刺し、6本目を抜剣した時、そいつは現れた。犬の中でも巨体で、草むらでは体を隠しきれていない、犬というより狼を思わせる風貌の怪物。初めてお父さんと一緒に戦った時の恐怖は筆舌に尽くしがたい。……やはり凄まじい殺気だ。恐怖に挫けそうな心が、あの日誓った約束のおかげでさらに鋼のように固くなる。日常生活では鉄面皮と嗤われるその習性が、今はありがたかった。


「ボスクラスだと…!?この辺りにもいたのか!?」

「ええ。群れの取り巻きを全部掃除すると、地域を問わず必ず出てきます。遠方で薬草を集めてるといつもこいつらが邪魔してくるから嫌になりますよ。」

「い、いつもだって…?君はFランクでしょう!?」

「はい。なのでいつも薬草を集めています。」


どこか噛み合わない会話を続ける時間を与えてはくれなかった。仲間を殺されて怒り狂っている巨大な狂犬は、愚かにもまっすぐ向かってくる。


「逃げましょう!あれはまだソロで挑む敵じゃない!」

「いえ、やつは頭に血が上っています。やるなら今です。」


猛然と襲い来るところ申し訳ないが、周辺には僕が予め刺しておいた剣の刃が草と血の匂いに隠れて待ち構えている。2本ほどが脚を傷付けたのか、やつの勢いが僅かに鈍った。切れ味が鈍くなっていても獣の牽制には使える。


「赤い煙を吸い込まないように気を付けてください。」


僅かに怯んだ犬の鼻頭に薬草の袋を叩きつけた。中から赤い煙状の粉が舞い上がる。

それは香辛料だった。胡椒の代用品として使われる刺激の強い薬草で、粉末にして料理に混ぜて使う。その大量の粉末を鼻頭にもろに食らった狂犬は悲鳴を上げた。体に似合わない甲高い悲鳴を上げて悶絶するそいつの頭に六本目の剣を突き刺し、脳を破壊する。悲鳴を上げろと指令を飛ばしていた器官を破壊された犬は、そのまま痙攣した後動かなくなった。


「よし、ちょうど23匹ですね。周囲に敵の気配なし。お疲れさまでした。」

「………。」


無事に香辛料の袋が当たってよかった。たまに鼻頭に上手く当たらず効果が薄いことがあるから。

昔なら安堵のあまりやはり泣いていたと思うが、今はほっと一息つくだけで気持ちを落ち着ける事ができた。泣く以外になかった恐怖体験の連続だった結果、終始無表情のまま試験を終わらせることとなってしまった。ポールさんがそんな僕にどんな印象を抱いたかなど気にする余裕もないほど、その時は生き延びた余韻を無表情のまま味わっていた。


余韻に浸り続けているのも間抜けなので、刺してあった剣を引き抜き、直ぐに血と脂を布で拭う。直ぐに拭わないと切れ味を取り戻すのが大変になるからだ。3本は帰り道でもまだ使えそうだった。残りは帰ってから研がなければならない。


ポールさんが僕の作業を凝視している。恐らくこの作業も査定に入っているに違いない。討伐の証として犬たちの牙を一本ずつ抜き、残りは地面に埋めていった。地面に穴を掘る作業はポールさんも手伝ってくれたが、それでも23匹分となると時間がかかり、終わる頃にはすでに日が傾いていた。


地味で大変な作業だが、これをやらないと死肉に釣られて新しい魔獣を呼び寄せたり、腐臭によってこの一帯に病気が発生する可能性がある。誰に教わるまでもなく、戦う上で必要なことだと信じていた。喰らうために殺すのではなく、身を守るために殺す者の義務だと思っている。




「少しここで待っていてください。」

夕暮れ時にギルドに戻ると開口一番、ポールさんはそう言って事務室に入っていった。カウンターで待つ中、奥からはどよめきやら大声やらが響き、周囲にいた冒険者たちもなんだなんだとこちらを注目し始めた。

流石にちょっと恥ずかしくて、意味もなく頬が赤くなった。


奥から出てきたのはお父さんと、なんと普段は姿を見せないギルドマスターだった。白髪だがガタイが良く、左目と頬を走る傷跡からは歴戦ぶりを伺わせる。だらしない格好でいることも多い冒険者たちの間に緊張が走った。


「これが君の息子か、ガエル・アグノエル。」

「はい、マスター。」


い、一体何が始まるんだ?まるで裁判のような緊迫感だ。


「F級冒険者フィル。いや、フェルディナン・アグノエル。本題に入る前に、まず君を叱責しなくてはならない。」

「は、はい…!?」

「依頼の範囲外での出来事とはいえ、薬草収集任務の最中に魔獣を討伐したなら全て報告しなくてはならない。いいか、()()だ。君は犬を払ったとか、猪に追われたとしか報告していないようだが、その相手がアーミードッグの群れやソルジャーボアであるならば正確に報告すべきだ。何故なら、それらは討伐依頼の対象であることもあり、君が黙って倒したことで他のメンバーが依頼不達成となる可能性があるからだ。」


ギルド内にざわめきが起こった。


「も、申し訳ありません…。次からは正しく報告いたします。」

「そうしたまえ。これまでに討伐した魔獣の数は数えているか?」

「数えていませんが…今日程度の群れであれば、5度は殲滅してます。」

「ボスもか?」

「はい。」


ざわめきが大きくなった。


「今、群れをボス犬含めて5度と言ったか…?」

「軽く100匹以上…?それを一人で、薬草を取りながら…?」

「ボスクラスとか嘘だろ…!?俺はまだ見たこともないぞ…!」


…どうやら、僕のやり方は普通ではなかったらしい。比較対象がいないからわからないが、確かにまともにやり合っても厳しい相手だ。僕も薬草と予備の剣を封じられたら、多分勝てない。他冒険者よりうまく戦えているという優越感よりも、邪道かもしれないという後ろめたさが勝った。


「ポール。間違いなく彼はソロでボスを倒したのだな?」

「はい。多少私も自衛のため戦いましたが、彼は群れの大半をほぼ単独で処理した後、ボス犬を倒しています。それも終始冷静に、無傷で、かつ一撃でです。その後すぐに剣の状態を確認し、討伐対象を埋葬する余裕も見せています。」

「なら、彼の実力は既にCランクを超えている可能性が高いな。フィル、明日ただちにCランク昇級試験を受け給え。その内容は…アーミードッグの群れの殲滅となっている。奇しくも今日君がやってみせたことだ。」

「えっ…!?は、はい!!」


その後が大変だった。普段僕のことを薬草収集屋ハーブコレクターと言って笑ってた冒険者たちまで集まりだして、どうやって成し遂げたのかとか、薬草収集中に遭遇した魔物にどんなものがいたか、どのように切り抜けてきたのかを根掘り葉掘り聞き出されてしまった。

だがボス犬の倒し方を誰にも教えなかった事については皆から酷く怒られた。もっと早くに周知できていれば、他冒険者が楽をできただけでなく、失われなくてもいい命があったはずだった。


「お前がもっと早くにそれを教えてくれていれば、あいつも怪我で引退することもなかったかもな。」


などと言われた時は流石にへこんだが、言った本人の語気は強くなく、すぐに僕が悪いわけじゃないとフォローしてくれた。彼らも僕の仕事ぶりを過小評価し、まともに話を聞こうとしなかったことを認めてくれたらしい。


だが薬草集めしかしていない僕を魔獣討伐に連れて行くことなど出来るはずもなく、その実力に気付くのが遅れたのは彼らの過失ではない。


周囲に馬鹿にされ、意固地になって薬草集めに専念し、まるで自分のおかげで怪我人を減らせているかのように過信してプライドを満たしていた僕の方にも大きな問題があった。もっと自分の仕事ぶりを周りに理解してもらう機会はいくらでもあったはずなのに。


例えば食事を共にした仲間にそれを話すだけでも良かった。でも薬草集めの仕事を自慢するみたいになるのが嫌で、仕事の話を避けていた。薬草集めでプライドを満たしているのに、薬草集めは初心者向けのクエストだと考えていた矛盾が、相互理解の機会を奪った。


それを認めた僕も頭を下げたことで、最後の方はギルド内での謝罪合戦になってしまった。その中には、僕の事を薬草収集屋と嗤っていた人もいて、むしろ彼らが一番それを悔いていたように見えた。後に彼らは、僕がBクラスに上がる際にバディとなる大事な仲間になる。




その翌日、今度は監督のポールさんだけでなく、そのやり方を実際に見たい人や、まだ実力を疑う人々が僕の昇級試験を見学しに来た。おかげで随分な大所帯になってしまったが、ポールさん以外はかなり遠目から見ていたので、試験の邪魔にはならなかった。そして敢えてまた囲まれて、今度はポールさんではなく木を背にして全く同じ戦い方をして見せると唖然としてそれを認め、墓穴作りを手伝ってくれた後、その日の酒の肴とされた。


その日を境に薬草収集を積極的に行い、その効能を学ぶ冒険者の数が激増した。香辛料は鼻を自慢とする魔獣に非常に有効。汁に催涙作用のある薬草は視力に頼る魔獣に有効。空を飛ぶ魔獣には麻痺作用のある薬草の汁を網や防具に塗りつけることで飛行能力を奪える。治療薬としか認知されていなかった薬草には可能性が秘められていた。


これまで自分だけが知っていたことが周りに認められ、評価され、そして共有されていった。それは孤独だった自分の世界が急に広がったような開放感と、この世界に受け入れられたような、言葉にもし難いほどの歓喜があった。悲しみでも恐怖でもなく、喜びでも体は震えることを初めて知った。


忘れていた笑顔も徐々に取り戻されていった。冒険者達の生存率は格段に改善され、初心者以外の冒険者も薬草を集めだしたことで納品される薬草も十分な量となった。そのおかげで僕も薬草集め以外の仕事にも安心して取り組めるようになり、早速Bランクも現実的だと周りが認め始めていた。

取り戻せていないのは涙だけだったことを、幸せの中で見出すことは難しかった。




恐らくこの頃が、僕の冒険者人生の中で最も幸せな時期だったと思う。




--------

もうすぐ15歳になろうという時。

薬草収集屋ハーブコレクターと呼ばれていた僕は、いつの間にか薬屋ドラッグストアーと呼ばれるようになっていた。いつもある程度何でも薬草がバックパックに入っていて、僕自身が多少調合の知識を持ち、頼まれれば即席で配合できるためだった。もはや蔑称ではなく僕を指し示す称号であり、勲章になっていた。


「フィルさん、今日はどうしますか?」

「今日は薬草収集でいいよ。ちょっと在庫が切れそうでついでに集めたいんだ。」

「ふふっ、自前で薬草を揃えるのはフィルさんくらいですよ。いっそお医者さんの方が向いてるのではないですか?」


それは今の僕の目標でもあった。冒険者業で稼いだお金で医師の資格を取って、故郷の村でクリニックを開くこと。そうすれば、タイスちゃんのことを魔獣からも病気からも守れると思ったから。

タイスちゃんと別れて約3年が経ってなお、僕の心の中にはあの勝ち気な少女の姿があった。別れの際に泣いてた、あの子の姿があった。


「引退したらそうしようと思ってるよ。それで、どこで穫ればいい?」

「えーっと…この周辺は他の人がもうやってますから…あ、この辺でお願いします!」




そこは何の皮肉か、故郷の村にある裏山だった。




「…こんなに小さかったっけ?」

裏山から故郷の村が見えた。毎日駆け回り、いじめられ、追い回されていた思い出の場所だったが、いざ裏山から見下ろすと思い出よりも小さく見えた。いや、村だけではない。今ここに立っている裏山さえもが、小さく思えた。お父さんと一緒に山菜採りに来ていた時は、世界で一番大きいかもしれないなんて思ってたのに。

…今日は別に村に遊びに来たわけではない。それに、まだ彼女に会う勇気も覚悟も無かった。薬草だけ取ってさっさと帰ろうと気持ちを切り替える。


「…さてやるか。確か、依頼の薬草はこの辺りに…。」

「きゃーーー!!」


若い女の人の悲鳴が響き渡った。全身に緊張が走る。薬草収集をしていればそれほど珍しくは無いが、今回も誰かが襲われている場面に出くわしたようだ。それも恐らく村人だろう。

いっそ魔獣ならいいのだが…山賊だとしたら厄介だ。未だ人を斬る感覚には慣れていない。殺した経験もまだ無かった。祈りを込めて悲鳴のする方へ疾走する。


「だ、誰か助けて!やめて!いやあああ!」


だが残念ながら相手は二人の暴漢だった。既に女性の服はかなり脱がされて肌が見えてしまっている。暴漢とはいえ殺したくはないが、いざとなればやむを得ないかと覚悟を決めた。


下卑た笑みで女性に組み敷こうとしていた男の顎部に高速の膝蹴りをぶちかまし、接触した部位の全てを粉砕する。折れた歯が数本宙を舞った。本来は防具に当たる鋼鉄製の膝当てを服の内側に入れてあるため、見た目以上の破壊力がある。もしかしたら二度とステーキを食べられなくなったかもしれないが、暴漢の将来を気にしている余裕も義務もこちらにはない。悶絶する男の側頭部に鋭い一撃を加え、その意識を刈り取った。


突然の襲撃に驚いたもう一人の痩せた男は隙だらけだ。瞬時にその痩せた懐に飛び込んで地面に勢いよく投げつけ、そのまま腕を決めようとする。が、どうやら投げ落とした衝撃で既に気を失っていたらしい。それを確認した僕は即座に連中の服を脱がせ、ロープ代わりにして拘束した。ステーキを食えなくなった方も出血は少ないので、死ぬことは無いだろう。あるいはその方が辛い人生になるかもしれないが。


「怪我はありませんか?もう大丈夫ですよ。」

「は、はい…!ありがとうございま………えっ!?」


はだけてしまった胸を隠すその女性は…いや、少女の髪は青く、僕と同じ色をしていた。僕と同じでもうすぐ成人になるはずの女の子だった。


「うそ…フィル…なの…?」

「……タイスちゃん?」


約3年ぶりの再会は、あまりにも運命的だった。




--------

タイスちゃんを襲っていた暴漢は、かつて僕をいじめていたやつらのうちの二人だった。どうやらタイスちゃんに昔から好意を持っていて、フラれた感情を爆発させての凶行だったらしいが…だからといって許される理由にはならない。冒険者ギルドの支部を通じて王都に連絡を入れたので、近く憲兵によって正式に拘束されることになるだろう。


僕はなんとなく気まずくて、タイスちゃんを家まで送ったら薬草採集に戻ろうとしたのだが…タイスちゃんの両親にまだ娘が不安がっているからと引き留められてしまった。確かに彼女のことが心配ではあったが…暴漢に襲われた後で男と二人きりにするのも、それはそれでどうなのだろうか。男として見られていないのかもしれないと思うと、悲しさからではなく虚無感から無表情になった。


最後にタイスちゃんの部屋に入ったのは、一体何年前になるのだろう。記憶が定かではないが、やはりもっと広かった気がする。


「あの…あ、ありがとう、フィル。」

「ううん。タイスちゃんを助けられて良かったよ。」


タイスちゃんは当初半裸に近かったので、今は別の服に着替えている。あれは本当に紙一重のタイミングだった。もしわずかでも到着がずれていたら、タイスちゃんには一生モノの傷が付けられていたはずだ。想像したら、組み敷いていた方の男性機能くらいは念の為破壊しておくべきだったかと少しだけ後悔した。


記憶の中のタイスちゃんは、すごく強い子だった。だけど今、目の前で伏し目がちの彼女はとても同じ女の子には見えない。それは両腕の中に収まるような大きさの、どこにでもいる普通の女の子だった。

そんな彼女が、あんなことがあって怖かったろうに、だいぶ無理して笑おうとしてくれていた。


「ものすごく強くなっててびっくりしたよ。あいつ、村で一番喧嘩が強いんだよ?まさかあんなにあっさり倒しちゃうなんて…。」

「不意打ちで顎を狙ったからね。真正面からやり合ってたらわからなかったよ。」

「そんなことないと思う。その…フィル、すごく逞しくなったし…。」


そう言って顔を逸らす彼女の顔は、赤く染まっていた。それが僕に対する好意的なものであることは、流石に僕にも理解できた。

今すぐにでも彼女を抱きしめたい。自分の物にしたいという欲望が腹の中を渦巻き…自己嫌悪した。僕も、あいつらと何も変わらないじゃないか。そう思うと笑顔も消え、得意になった無表情で覆われた。自己嫌悪で泣くくらいなら鉄の仮面をかぶる方が楽になっていた。


「…フィル?大丈夫?」

「え、あ、ああ。大丈夫だよ。」


心配してくれる彼女が愛おしい。今すぐここへ引っ越して、タイスちゃんと一緒に暮らしたい。実際、それでもよかった。成人を迎える前だというのに、僕は既にCランク冒険者なんだ。引っ越すだけの財力も、生活基盤も出来つつあった。お父さんには寂しい思いをさせるけども、少し早く自立する手はある。


だけど出来れば冒険者ではなく、医者としてここに帰ってきたかった。冒険者業は楽しくやりがいもあるが、危険な仕事だ。そして僕に合っているとも思えない。何年かやってみたが、人を斬るよりも治すことに喜びを感じる僕は、やはりこの仕事は向いていないと思う。


「ねえ…フィルは今、王都で何をしてるの?帰省ってわけでも無さそうだし…。」


………どうする、正直に話すべきだろうか?それでは心配させるだけか?…いや、隠し事はしない方がいい。タイスちゃんには何も隠したくない。


「………冒険者をやってる。もうすぐBランクになるんだ。」

「っ!?」


タイスちゃんの表情が驚愕に彩られ、そして青ざめていった。ブルブルと肩を震わせ…僕の手を取った。昔よりもお互いに成長したはずなのに、彼女の手はずっと小さかった。


「………も……もしかして…私の…せい…?」

「え…?」

「わ…私が、フィルに弱虫って言ったから…?あの時、強くないって怒ったからなの…っ?だから、そんな、危ない仕事を…!?つ、強くなる…ために…っ!?」

「タイスちゃん落ち着いて。違うよ。」

「何が違うのっ!?だってあのフィルが、優しかったフィルがそんな危ない仕事やるわけないじゃない!!叩いたらあいつらも痛いからって、誰にでも優しくできるフィルがっ!!」

「タイスちゃん!?」


いつか見た光景だった。彼女が泣いている。

あの勝ち気で、いつも泣いてる僕に怒っていた彼女が、泣いていた。他の誰でもない、僕のために。

僕はまた、タイスちゃんを泣かせてしまったのか。


「ごめん…っ!ごめんなさい…っ!ごめ…なさ…っ!わ、私のせいで…っ!私があんなこと言ったせいで…っ!フィルが…っ!」

「タイスちゃん、違うよ。君が悪いんじゃない。君のせいで冒険者になったなんて、そんな寂しいことを言わないで。」


彼女に握られてない方の手で、そっと肩を撫でた。だが剣を握り続けてきた手だ。彼女の小さくて柔らかい肩を傷つけないか、心配になる。


「違くないったら…っ!だって冒険者って、人を殺すことだってあるんでしょう!?フィルが人殺しするなんて、そんなの…嫌だよぉ…!!」

「……まだ、殺したことはないよ。」

「でもいつか殺しちゃうかもしれないんでしょっ!?」


確かに冒険者になる以上、それは避け難いことだった。衛兵でも対応しきれない凶悪犯罪者の緊急討伐任務等に当たれば、自然と冒険者の力を借りることにはなり得る。戦争ともなれば真っ先に投入される即戦力にもなる。人を殺す機会はいくらでもあるのが、冒険者業だ。


「ああ。それでも、僕はこの仕事を続けたいんだ。」

「そんな…どうしてよ…っ!どうしてそこまでして…っ!」

「医者に、なりたいんだ。」


やや伏せられていた顔が跳ね上がった。一体どれほどの量の涙を流してくれたんだろう。いつの間にか泣けなくなった僕の分まで君は泣いてくれたんだろうか。

自然と口の端が持ち上がり、笑みを浮かべる事ができた。


「冒険者業の中でもAランクになれば、特別手当がもらえるし、依頼をこなさなくても特別年給が支給されるようになる。それを使って医者になる勉強をしたいんだ。」

「フィルが…お医者さんになるの…?」

「うん。そしたらこの村に小さなクリニックを建てたいんだ。タイスちゃんが怪我したり、病気になっても治せるようにね。」

「わ…私の…ため…?ああっ…フィルっ…フィル…っ!!」


タイスちゃんはせっかく止まった涙をまた流して、僕に抱きついてきた。きっと、泣き顔をこれ以上見られたくなかったのだろう。肩をなでていた方の腕を頭に乗せて、髪を撫でた。


こんな日が来るなんて思いもしなかった。いつだって僕は泣き虫で、タイスちゃんに怒られてばかりだったのに。今はまるで逆じゃないか。困ったな。もらい泣きしそうなのに、涙が出ない。


「フィル…っ!ごめんなさい…っ!あの日、もっと強く叩けなんて言ってごめんなさいっ!強くなれなんて言って…っ!ごめんなさい…っ!私…勝手すぎたわ…っ!」

「タイスちゃん…。」

「もうあなたは叩かなくていいの…っ!誰かを傷つけてまで強くならなくていい…っ!自分が傷付いてまで誰かの為に戦わなくていいのよっ!泣いてももう怒ったりしないから…っ!だからお願い、あと一つだけ約束してっ!!」


せっかく隠れていた泣き顔が、目の前にあった。鼻と鼻が触れ合いそうな距離だ。


「生きて…っ!必ず生きてここに帰ってきて!!フィルが人殺しになったって、私は見捨てたりしないからっ!!どんなことでも受け入れるからっ!!だから…お願い…っ!」


「……わかった。約束するよ、タイスちゃん。」


涙で冷たくなった頬を両手で温めるようにそっと包み込んで、宣誓した。喧嘩別れしちゃったあの日をやり直すように、心を込めて。


「何があっても帰ってくるよ。必ず生きてここに帰ってくる。だから…タイスちゃんも待っててね?」

「うん…っ!待ってる…っ!ずっと…絶対…っ!」




泣き笑いを浮かべる彼女の顔は、これまでみた中で一番可愛くて、一番美しかった。




--------

翌日、例の暴漢二人を乗せた護送用の馬車を見送り、道中の薬草を拾いながら王都のギルドに戻ると、カウンターにいたのはいつものお姉さんじゃなくてお父さんだった。お父さんが受付に立つのは結構珍しい。

それにしても、お父さんは何者なのだろう。得意の薬草戦術を使わない模擬戦とはいえ、未だに僕は歯が立たない。ガエル・アグノエル…今度、過去の依頼達成履歴を見せてもらおうかな。


「そうか。タイスちゃんに会えたのか。」

「うん。すごくキレイになってたよ。」

「ふっ…今後もたまにはその村で薬草を採集してもらうぞ。」


それはどうなのだ…?あの小さな村であっても、一応冒険者ギルドの支部はあるし、専属ではないけど駐屯している冒険者はいる。彼らに任せたほうが効率的なはずだ。


「実は複数の村人から要請というか、希望があってな。なんなら村人相手に薬剤調合の練習をしてもいいそうだ。」

「どういうこと?」

「お前、タイスちゃんに村でクリニックを建てたいとか言ったんだってな。いつか病気になったタイスちゃんを治すためだって?なかなか言うじゃないか。」


げっ!?もうここまで話が届いてる!?

タイスちゃんが喋ったのか!?いや、口止めはしてないけど…!?

にやりと笑いながら、まるで心を読んでいるかのようにお父さんは話を進めた。


「村中の噂になってるらしい。たぶんタイスちゃんのお母さん辺りが盗み聞きしていたんだろう。すぐに支部経由で情報が届いた。あの人はいつも声が大きいからな。」


あー…そっちかー…。


「ああ…もう…どこまで聞かれてたんだろう…?」

「お前がもうすぐBランクになるって話と、タイスちゃんに生きて帰ると約束してたって話ならここにも届いている。」

「ほぼ全部じゃんそれッ!?」

「抱き合ってキスしたとも聞いた。」

「キスはしてない!!」

「冗談だ。なんだ、抱き合いはしたのか?お前もやるようになったな。」

「〜〜〜!!!」


ニヤニヤと笑うお父さんの顔を直視できなくて、ついに僕は顔を真っ赤にして俯くしかなかった。ニヤニヤしてるのは他の冒険者さんも同じだったが、それにも気付けないほど僕は恥ずかしくて、久しぶりにちょっとだけ泣きたくなった。




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「フィル…帰っちゃったな…。」

私には昔から好きだった男の子がいる。

フェルディナン・アグノエル。私と同じ髪色をしてて、私と同じ日に生まれた男の子。……私の、初恋相手。


「すごくかっこよくなってた…。」

ベッドに寝転がりながら、深く息を吸い込んだ。まだ、彼の匂いが残ってないか。そんなことを考えている自分が信じられなくて、吸い込んだ息は溜め息となって出てきた。

……私はきっと、フィルの人生を変えちゃってるんだと思う。


「…きっと、フィルは私との約束を全部守ろうとしてるんだ。」

強烈な罪悪感と共に、幼い頃のフィルを思い出された。




『ふっふーん♪フィルもちゃんとつよくなってね!やくそく!』

『う…うん…!』




「…強くなりすぎだよ。ばか。」


フィルが一撃で倒したやつは、揶揄抜きでめちゃくちゃ強いやつだった。気に入らないやつを暴力と威圧で片付けるタイプで、村では最強だと豪語してたほどだ。実際、私なんかじゃ絶対勝てない。それは服を破られたときにも痛感した。

一体どんな修羅場を潜ったら、あそこまでの強さを持てるのだろう。




『いいから受け取る!そしてちゃんと約束して!もうあんなやつら相手に泣いたりしないって!』

『…うん。わかった!ありがとうタイスちゃん!ぼく、もう泣かない!もっと強くなってみせるよ!』




それに泣き虫だったフィルは、転んだりしてわんわん泣く私に釣られてよく泣いてたはずだ。泣き疲れてお互いに笑い合って、また明日ってお別れする時間がとても好きで。いつも一緒に泣いて、笑ってくれるフィルのことが大好きだった。


でも…昨日も今日も、フィルは泣かなかった。私が無事だったことに安堵して微笑んだ。でも、泣いてる私を見たときの彼の顔には…何も無かった。虚無だけが張り付いていた。


「フィルは泣くことを…捨てちゃったの…?」


幼い日にフィルとずっと一緒にいたい一心で勝手に結んだ約束…あれはフィルが泣かなくていいくらい強くなれば、フィルをいじめてたやつらなんかに私達の時間を邪魔されずに済むと思ったから結んだものだ。私は女の子だから、どうしてもいずれ男の人には力で勝てなくなる。だから大人になったらフィルに守ってもらいたかった。それは幼い独占欲と、好きな男の子から守られたいという勝手なワガママに過ぎないもの。


確かにフィルは強くなった…私が思う以上に。

ただし、あんなによく流していた、優しくて綺麗な涙と引き換えに。




『何があっても帰ってくるよ。必ず生きてここに帰ってくる。だから…タイスちゃんも待っててね?』




「……でも、だからきっと、この約束も守ってくれるよね…?」


ずるい女だと思う。なんの対価も払わずに、一方的に約束ばかり重ねて、しかも必ず守ってくれると信じている。先に疎遠になる原因となる振る舞いをしたのは、私の方なのに。

だから、せめてこの約束を守ってくれたら、何でもしてあげようと思った。


「生きて帰ったら…あなたに私の全てを差し出すわ。泣けなくなったあなたの代わりに、私が泣いてあげるから…お願い…フィル…生きて帰ってきて…。」


夢の中にフィルが出てくれないかと淡い期待をしながら、彼が隣にいることを夢想して眠りについた。




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あれからさらに2年。僕とタイスちゃんは17歳になった。調合スキルに磨きをかけた僕は、ついに正式に薬剤師を名乗ることを許された。これは医者になるに当たって必ず必要な資格であり、調合した薬剤を商用に販売することが出来るようになる資格でもあった。


そしてお父さんが言った通り、村周辺への薬草採集は月に一度ほど行われ、僕の専用任務になっていた。任務と言っても半分帰省休暇のような物で、本当に最低限の薬草を数本採ったら村で一泊し、タイスちゃんと一緒に過ごしていた。


「なんか色んな道具があるのね…?これお皿?」

「ああ、すり鉢だよ。すりこぎっていう棒を使って色んな物をすり潰すのに使うんだ。」

「へー…!こっちは?なんか色んなのが組み合わさってるけど?」

「それは蒸留装置。かなり簡易的だけどね。液体を蒸発させて濃縮させる装置なんだ。蒸留水を作る時も使うんだよ。」


タイスちゃんは意外にも僕の調剤にすごく興味を持ってくれて、時々薬作りを手伝ってくれるようになった。おかげで雑用に割く時間が減って、いつもの何倍も調剤が捗った。彼女自身も調合の基礎知識を学び始めていて、傷薬程度なら補佐なしでも作れるようになっていた。


ひどく心地のいい幸せな時間。でもずっとこの関係が続けばいいとは…思えなかった。あの日以来、僕の気持ちは膨らむ一方で、タイスちゃんを求める気持ちは日に日に強くなっていた。

寝ても覚めても頭に浮かぶのは、綺麗になったタイスちゃんの姿だった。特に村に泊まるときが一番辛かった。初恋の女の子がものすごく綺麗になって、僕の事を信用して目の前にいるというのは、想像以上に精神を消耗させた。


そんな幸せな未来を予感させる夢を目の前に吊るされたまま、僕はA級昇格試験を間近に控えていた。


「遂に正式に薬屋ドラッグストアーになってしまったな、フィル。」

「茶化さないでよお父さん。僕なんてまだまだだよ。」

「ふっ…だが剣の腕の方もマシになってきた。いよいよ一人前になったな。」


我が父、ガエル・アグノエルの戦歴を教えてもらった時は、驚愕のあまり自分の正気と耳を疑った。お父さんは剣聖と呼ばれる程の腕前で、かつて若かりし頃魔王を倒した勇者たちと同じパーティーで戦っていたという。残念ながら他の仲間たちとはなかなか連絡が取れなくなってしまったが、ギルドの正職員になったおかげで極稀に彼らの活躍を知ることができ、それで満足らしい。


どうりでいつまでも勝てないはずだ。僕がランク不相応な剣筋を身に着けていた理由もそこにあったのだ。おかげでその剣聖から"マシになってきた"というのが一般的にどの程度の評価なのかはわかりにくくなってしまったが。


「だが気をつけろ。どうやら疫病が最近流行りだしたらしい。」

「うん、白死病だっけ。とっくに根絶されたと思ってたけど、まだ魔獣が保有してたんだね。」


白死病。それは感染すると急激に体毛が白くなっていき、呼吸困難の末に死に至る病だ。屋外での空気感染や皮膚接触による感染例はないものの、魔獣や感染者の血液や唾液等の体液に触れることで感染してしまう恐れがあり、万が一感染した場合は隔離処置が必要だった。幸い治療薬を服薬することで命を留めることは可能だが…完治に必要な材料の調達が面倒な場所にあり、量産には手間取っていた。

 

「治療薬はお前も作れるんだったか?」

「作れるよ。いくつかストックも用意してある。」


僕はバックパックからラベルの付いた数本の薬瓶を見せた。一応バックパックに入るギリギリの4本は作ってある。面倒な材料と言っても、雲より高い地にしか生えない清白と呼ばれる薬草で、特に毒もない植物に過ぎない。生息地へ到着するまでにこそ時間はかかるが、今や薬草収集のプロとなった僕にとってはさほど障害にはならないものだ。ただそれを栽培したり、常備するには生育環境の課題が解決できておらず、まだ難しい。薬を作るためには都度山まで取りに行く必要があった。


「まだ感染してないのに僕から薬を買おうとする人が多くて困るよ。仲間内だけならまだしも、最近貴族の召使いみたいな人からも目を付けられてるんだ。まずはすぐ使わなきゃいけない人に行き渡らせないといけないというのに。」

「仕方ないさ。皆疫病が怖いんだ。」


怖い…怖いか。それは怖かろう。

だが平民の年間死亡率が貴族のそれの何倍になると思っているのだ。その中でも冒険者の死亡率は。怖いのは皆同じだ。特に僕のような臆病者は。

泣きたいほど怖い思いを何度もして、ようやくもうすぐAランク昇級試験を受けられるという時期に疫病が流行りだすなんて、本当に運が無い。…いや、運が無いのも皆同じか。全くこれだから疫病というやつは。


「サブマスター!」


お父さんを呼ぶ声が背中から響いた。そう、実はギルドのサブマスターだったらしい。支部勤務だったのは長い出向だったとか。


「どうした、そんなに慌てて。」

「北の農村で感染者が現れました!ですが感染者は…!」

「勿体ぶるな。はっきり言え。」

「…山賊です!フィルの薬を出せと人質を取って立て籠もってます!!」

「なんだって!?」


北の農村。名前なきその村は、僕の故郷の村に間違いなかった。

反射的に体が動き出し、まっすぐ村へ向けて馬を駆りだしていた。


「フィル!!待て!!くそ、おいポール!緊急依頼をフィルと俺の連名で受理させておけ!」

「ガエルさんもですか!?」

「あいつは初恋相手のことになるとまるで駄目なんだよ!俺がケツ持ちしてくる!」


お父さんの声がどんどん小さくなっていくことだけ、僕に残っていた冷静な部分が受け止めていた。いや、もはやそれくらいしか残っていなかった。




「おい、フィルとかいう薬屋はどこにいやがる!ゴホッ…!は、早く俺に治療薬をよこしやがれ!!」

「だから言ってるじゃない!彼は王都の冒険者よ!こんなところにいるわけ無いでしょ!」

「なんだとこのアマ!!」

「タイス、興奮させるな!」


村では、タイスちゃんを盾にする白髪のクズが喚いていた。タイスちゃんの首には汚らしいナタが当てられている。髪の毛一本の傷でも付けたら許さないと、心の中に黒々とした炎が燃え上がった。

だが表情は見せない。この醜悪な顔をタイスちゃんに見せたくない一心で、無表情の仮面を被った。


「僕がフィルだ。貴様の要望に応じてきてやったぞ、クズ野郎。」

「フィル!全く、一人で突っ走るな!!」


クズがびくりとしてこちらを振り向き、これ見よがしにナタを彼女の首にあてがった。タイスちゃんは、僕とお父さんを見た瞬間に安堵したのか、涙目で震えだす。

だが、絞り出した声はあくまで僕を庇うものだった。


「治療薬はある。今すぐ人質を離せ。そうすれば法の裁きこそ受けてもらうが、白死病だけは治してやる。」

「だめ!来ちゃだめよフィル!こんなやつの為に危ないことしないで!」

「うるせえぞ女!!ゲフッ…!俺の道連れに今すぐ殺してやろうか!!」

「あぐっ!?」


彼女の青い髪の毛が、クズの汚らしい手で鷲掴みにされていた。動いた拍子にナタに触れてしまったのだろう、首からは一筋の血が流れ落ちた。


「タイス!!ああ…誰か…誰か俺の娘を助けてくれ!!」


駄目だ。こいつだけは絶対に許さない。

たっぷりと後悔させてやろう。だが、まずはタイスちゃんを助けないと。




僕は腰のバックパックから一本の薬瓶を取り出した。


「治療薬だ。今は()()()()持っていない。」

「ゲホッ!ゴホッ!よ、よーし…それをこっちに寄越せ!」

「人質を離せ。」

「聞いてなかったのか!それを――」


僕は目をクズに向けたまま、手を開いて薬瓶を地面に落とした。静寂の中、ガラスが割れる音と薬剤が地面に染み込む音が虚しく響き渡る。

村人も、クズも、そしてタイスちゃんですら、僕を信じられないと言った表情で愕然として見ていた。




僕はバックアップから一本の薬瓶を取り出した。


「治療薬だ。今は()()()()持っていない。」


周囲の人々が青ざめた。あのお父さんですら、今の僕を見て戦慄を覚えているようだ。クズに至ってはナタをガタガタと震わせるばかりで何の反応も見せていない。いや、何の反応も出来ないでいた。


クズからすれば喉から手が出るほど欲しい薬だが、受け取れば犯罪者として捕まるしかない。だが今受け取らなければ確実に僕は薬を全て廃棄するだろう。タイスちゃんを人質にとったはずのクズは、逆に治療薬を人質にされていた。

今や主導権は僕にある。クズは足りない頭をフル回転させ、迷いに迷って、今の優位性を確保することを選んだようだが、それも無駄な足掻きだ。


「人質を離せ。」

「こ、こっちの台詞だ…!人質を殺されたくなければそれ――」


僕は目をクズに向けたまま、手を開いて薬瓶を地面に落とした。もはや呼吸すらままならないだろう静寂の中、再びガラスが割れる音と薬剤が地面に染み込む音が虚しく響き渡る。


「て、てめえ何を考えてやがる!?」


僕は男の言葉を一切無視して、バックアップから一本の薬瓶を取り出した。


「治療薬だ。今は()()()()持っていない。」


村人の中には恐怖のあまり気を失って倒れるものが出てきた。タイスちゃんの両親は抱き合い、縋るように僕の方を見上げている。タイスちゃんは激痛に耐えるように、ナタを無視して僕の事だけを見つめていた。


「よ…よせ…やめろ!?何をやってんのかわかってんのか!?人質が見えねえのか!?」

「人質を離せ。」

「は…っ!?う…っ!」

「わかった。」

「なっ!?ちょっとま…!?」


僕は目をクズに向けたまま――親切にも薬瓶を放り投げるように、ただし少し離れた位置に投げ渡してやった。クズは右手を伸ばしても届かない位置に投げられた薬瓶を追いかけるため、無我夢中になってナタも人質も放り投げ、奇跡的にそれを掴んだ。


歓喜の表情はすぐに絶望へと変化した。

薬瓶ダミーには何も入っていなかったからだ。


すかさず無防備なクズの顔に拳をめり込ませた。唾液を被らないように気をつけながら背後に回り込み、その両腕を本来とは逆の方向に音を立てながら折り曲げて制圧する。クズの絶叫が村に響き渡った。


「安心しろ。ちゃんと治してやるさ。白死病はな。」


制圧に際し折れ曲がった腕を治療する義理は俺にはない。

そして、タイスちゃんの前で人殺しをするつもりもなかった。




「全く…!無茶をするなと言っているだろう!!」

「…すみません。短時間で確実に制圧するにはああするしかないと思ったんです。」

お父さんに山賊の拘束を引き継いだ僕は、バックパックから薬瓶を取り出した。薬は初めから四人分用意してあった。敢えて一人分少なめにカウントしたのはこの男に使う分の薬と、万が一タイスちゃんや僕が感染した時のことを想定して予備を残す為だったが、この分だと不要だったかもしれない。


いや、その方がいいんだ。感染者は少ないほうが良い。

僕はお父さんによって後ろ手に拘束された男の口に薬を流し込み、それが嚥下されたのを確認した。薬効が出るまでには3日ほど掛かるが、気管拡張に作用する成分には即効性がある。安静にしてれば白死病で死ぬことは――


「うわっ!?」


突然、男の口から血液が吐き出され、僕の顔に付着した。いや、血液だけじゃない。これは…歯か!?まさか、僕に病原菌を付着させるために、殴られてグラついてた自分の歯を血液ごと吐き出したのか!?


そして愕然としたその隙を突かれた僕は、腰のバックパックに蹴りを食らってしまった。連行するために足を拘束していなかったのが仇になった。入っていた最後の薬瓶が地面に落下し、薬が地面に染み渡って消えていく。


「は、はははは!!ざまあみやがれ!病人をいたぶった罰だ!!精々あの世で後悔しやがれ!!あっはははは!!俺を治してくれてありがとうよ薬屋ぁ!!」


薬を飲んだことで強気になった山賊は、狂ったように笑い続けていた。だがお父さんが無言で男の折れた腕を捻り上げると、激痛のためか絶叫を上げ、すぐに意識を失った。


「フィル!?」

「来ちゃだめだ!!伝染する!!」


心配して近寄ろうとするタイスちゃんを制して、僕は村の物置へと駆け込み、扉を閉めた。

すかさずバックパック内に残っている薬草を確認するが…やはり特効薬の材料は入っていない。傷薬の材料が精々だった。もちろんそんなものじゃ助からない。心臓が生き急ぐように跳ね続けるのを感じた。


「くそ…くそっ!このままじゃ…!」

「ねえ、フィル!フィル!!大丈夫なの!?」

外からタイスちゃんの声が聞こえた。

…そうか、彼女ならもしかしたら。


「…ああ、まだ大丈夫だよ。でも中に入ったら危ないからそのまま扉の前で聞いて。頼みがあるんだ。」

「なに!?なんでも言って!フィルのためならなんでもするから!」

「タイスちゃんに僕の薬を作ってほしい。道具は、タイスちゃんの家に置いてあるやつでいいから。」

「っ!?」

「大丈夫だ。作ってもらうのは特効薬じゃない。もっと簡単で、この周辺で取れる材料でも作れる、呼吸器系疾患に効く薬だ。気道を拡げるやつだよ。」


これは賭けだ。まだタイスちゃんは傷薬と、喉の痛みを取れる飴の作り方しか教えていない。実績も薄い。だが今から王都に行って医者か薬剤師を探し、調合し、配達してもらう時間は恐らく無い。


この疫病は感染から発症までの時間が短い。個人差はあるが恐らく数時間後には髪が白くなり、明日の朝には呼吸困難の症状が出始める。そして徐々に重症化していき、たいていの場合2,3日後、早ければ呼吸困難を発症して数時間で死に至るのだ。ただ、死に至る原因の殆どは窒息なので、呼吸困難さえクリア出来れば延命は難しくない。時間との勝負ではあるが、窒息を回避することができれば、あとは何とかなる。


僕は扉にぴったりと背中を預け、わずかでもタイスちゃんの存在を感じられるよう意識を集中させた。光源が小さな窓しか無い物置はまるで僕のために作られた棺桶のようで、生の終わりを予感させる。


「わ…私にできるの…?」

「ああ、この村ではタイスちゃんにしか出来ない。お父さんにも出来ないんだ。」

「そんな…!万が一失敗したら、私がフィル君を殺しちゃうことになるよ!?」


それは僕が初めて薬を他人のために作った時に感じた恐怖だった。僕が初めて作った薬は喉薬だった。調合の手順も配合も間違えていない、間違いなくのどの痛みに効果があるはずの薬なのに、自分以外の誰かに飲んでもらうことが怖かった。僕の薬のせいでもっと苦しい思いをしたり、後遺症が残ったらどうしようかと、しばらくは夜まともに眠れなかったものだ。


「違うよタイスちゃん。失敗しても、それは君の責任じゃない。指示に失敗した僕の責任なんだ。君は僕の指示に従って調合してくれればいい。」

「…他にもっと確実な方法は無いの?」

「…無い。残念だけど、王都に行って薬を探して買って戻ってくる間に、どれくらい病気が進行するか予測が付かない。それに…これは僕の本当に勝手な思いなんだけどさ――」


もし、失敗するとしても。


「タイスちゃんの薬なら、効かなくてもいい。」

「…!!」

「君が僕のために作ってくれた薬を飲んで死ねるなら…きっと僕は迷わず逝ける。」


そんなのは嘘だ。嘘っぱちだった。恰好つけていた。死ぬのは怖い。すごく怖い。本当は今すぐ叫びたいほど怖かった。

今こうして元気に話せているのに、明日には死んでいるかもしれないなんて、正直信じられない。あの程度の血液でなら、感染なんてしていないんじゃないかと楽観的になりたかった。

でも、それは薬と病気のことを勉強してきた自分にはとても出来ない夢語りだった。吐かれた血液の唾液の量と、吐かれた部位が顔面だったことを考えれば、まず感染している。感染せざるを得ない。


それでも、僕はあの日の約束を守ろうとしていた。泣き顔の表面に笑顔の仮面を張り付けることで。もうあんなやつらなんかに泣かされたりしない。例えそれが死を招く病であったとしても。

そう自分に言い聞かせて、失敗した時に彼女が傷つかないように精一杯恰好つけることで、彼女を護ろうとした。


それなのに。


「…やめて。」

「え…?」

「こんな時にやせ我慢しないで…!はっきり言いなさいよ!助かりたいんでしょう!?私が作った薬なら死んでもいいなんて、そんな臭い嘘付かないで!」


彼女は全部お見通しだった。


「生きたいならちゃんと私にお願いして作り方を教えなさいよ!私はあなたが思うほど弱い女じゃないッ!!あなたのためなら何でもできるのッ!!薬だってなんだって作ってみせるわ!!絶対助けるって約束してあげるからっ!!だから…だから私には嘘を付かないでよ、フィルッ!!」




彼女は僕の事を誰よりも分かっていた。

きっと僕が未だに泣き虫で、いつも泣くのを我慢してることも、本当は再会した時からわかっていたのかもしれない。


昔のままの泣き虫な自分がさらに泣き出した。仮面の下に隠していたはずの幼い自分が。何かあればすぐに泣いて、タイスちゃんに怒られていた頃のままの自分が。

明確な死を目前にして、そこから必ず救い出すと言ってもらえたことで隠すことが出来なくなった。




もう、偽れない。もう彼女の前では、自分を騙すことは出来ない。10年以上ぶりに頭と喉に襲いかかる激痛が、苦しくて懐かしかった。




「…けて…。」

「フィル…?」

「助…けて…っ!お願いしますっ…!お願いしますッ!助けてくださいッ!死にたくない…っ!まだ死にたくない…っ!!まだやりたいことが…夢があるんだッ!!僕はこんなことでまだ死ねないんだっ!!お願いだタイスっ!!僕を、僕を助けてくださいッ!!僕の命を救ってくださいッ!!」




10年以上流されなかった涙は、とどまることを知らなかった。止めることも、ごまかすこともできず、嗚咽と共に物置の中でただ流れ続けた。まるで今まで流さなかった分を取り戻そうとするかのように。




「ええ、わかったわフィル。私に任せなさい。」

「タイス…っ。」

「言ったわよね?私はあなたのためなら何でもできるわ。だから…薬の作り方を教えて。」

「い…いいの…?」

「もちろん。一発で仕上げて見せるわよ。それに忘れたの?昔あなたが私に言ってくれたのよ?」


扉越しに、彼女の暖かな手が背中に触れたような気がした。


「しょーらいは私とけっこんしてくれるんでしょ?」

「…ああ!そうだ…!生き延びれたら…僕と結婚してほしい…!」

「…はい、喜んで。でも、プロポーズはまたちゃんとやり直してね?物置の扉越しなんて嫌よ。」

「ははっ…それもそうだね。」


そうか…彼女も覚えててくれていたんだ。

ずっと、僕との小さな約束を。

精一杯の思いを込めて作った、花のかんむりの思い出を。

大人になった今になっても、まだ。




--------

久しぶりに思い切り泣いてスッキリした。今なら迷うことなく、彼女にレクチャー出来るだろう。

生きのびてみせる。生きて、タイスにちゃんとプロポーズするんだ。


「よし…タイス。今メモを取ることは出来るかい?」

「出来るわ。」

「なら記録してくれ。この薬に複雑な手順は存在しないけど、配合比率だけはなるべく精確に測る必要がある。まず、必要な薬草は3種類だ。トリコロソウの実、パラキアの葉、そしてドメアの根。」

「それ…全部毒薬の材料よね?」


流石に勉強してくれている。

もしかしたらタイスは、将来僕の補佐役をやってくれようとしていたのかもしれない。


「うん。これらはお互いの毒性を打ち消しあう性質がある。最適な配合で調合できれば、喘息にも使える気道拡張作用のある薬を精製できるんだ。もちろん、用法用量を守ればね。」

「最適な配合でなければ…?」

「この薬は筋弛緩薬に近い作用をするんだけど、配合比率や分量を間違えると気道が思ったように拡がらなかったり、逆に効きすぎて肺や心臓の働きまで緩めてしまったりする。薬も結局は、毒の一種なんだよ。」

「…責任重大じゃない。何が私の責任じゃないよ。」

「はははっ!こうでも言わないとやってくれないかと思ってたんだよ。」


こんなに感情が動くのは久しぶりだ。タイスとの誓いを言い訳にして泣くことを封印していた僕だけど、きっとそれは間違いだったんだな。誰かと触れ合って、笑って、泣いて、怒ることが悪いことな訳が無いじゃないか。今のこの溢れる暖かな気持ちが間違いであるはずがないんだ。


「まぁ、いいわ。あとでその辺はみっちり怒るとして、配合比率を教えて。」

「重量でいえば、トリコロソウの実3、パラキアの葉1、ドメアの根4だ。秤はあったっけ?」

「うーん、調理に使う物ならあるわ。」

「なら取り急ぎそれでいい。じゃあまずは秤と材料を用意してくれ。お父さんにも声を掛けて協力してもらってくれないかな?なんだかあまり時間もなさそうなんだ。」


ぱらりと落ちてきた髪の毛を見つめながら状態を伝える。


「ど、どうしたの?息苦しいの?」

「髪色が白くなり始めたようだ。まだ息苦しくはないよ。」

「ッッ!?わかったわ、すぐに行ってくる!!」


タイスが走り去っていく音を聞いて、ふぅとため息をついた。

これはタイスに頼んで正解だった。たぶんこの調子だと、明日の朝までは保ちそうにない。あの男よりも進行が早い条件が何なのかは後日調べてみよう。

でも、不思議と冷静だった。きっとタイスなら何とかしてくれる。僕より小さくなっちゃったタイスだけど、やっぱり強い女の子だと思う。

そんな子とお互いに好きになれたなんて僕は幸せ者だ。




僕の残り時間は、後どれくらいだろう。

暗い物置の中で手足が勝手に震えだす。

一人は怖い…すごく怖いよ、タイス。




--------

フィルのお父さんにフィルの意思を伝えると、すぐに動いてくれた。

冒険者ギルド支部の職員さんや、非常駐の冒険者さん達、そして村人の皆が総出になって材料を集めに行ってくれた。


フィルはあまり時間が無いと言っていた。でもフィルにも正確な時間はきっとわからないに違いない。

なら急いだ方が良い。フィルの呼吸が安定している内に、作り方も全部教えてもらった方が良さそうだ。


材料集めを皆に任せ、私は秤を手に物置へ走った。


「フィル!みんなが材料を採ってきてくれるって!」


「げほっ!ごほっ!」




…咳だ。

咳が聞こえてきた。

あの男と同じ、喉を傷つける音だ。




「んんっ…ごめん、大丈夫だ。たぶんこれが初期症状だな。やはり進行が早い。タイス、念のため今のうちに作り方を全て教えておく。大丈夫だ、そんなに難しくはない。」


フィルは自分が死ぬかもしれないのに、それをなるべく感じさせないように冷静に振舞ってくれている。きっと私を不安にさせないため…でもそれに甘えちゃ駄目だ。私は私に出来ることを尽くさないと。

絶対にフィルを助けるのよ、タイス!!


「ええ、お願い。材料が集まったらすぐに取り掛かるわ。」


難しくはないという手順だけど、私にはやったことのない工程が結構多かった。特に蒸留装置の使い方と組み方がよく理解できなくて、何度も何度も聞きなおしてしまった。自分の頭が良くないことがすごく恨めしかったけど、ここで諦めたらフィルを助けられない。苦しいフィルには申し訳なかったけど、同じ質問を何度もした。フィルの教えをメモしていたノートはインクで真っ黒になっていた。


材料以外のすべての準備が整う頃には、だいぶ日が傾いていた。


「…よし、たぶん大丈夫よ。あとは材料を待――」

「げほっ!ごぼっ!う、うぅ…!」

「フィル!?」

「はぁー…はぁー…ご、めん…結構…苦しくなって…きたかな…。」


こ、こんなに進行が早いなんて…!?

あの白髪の男は全然ピンピンしてたって言うのに、どうして!!


「薬、は…経口摂取、できる…。もし、僕の意識が、なかったら、鼻でもつま…げほっ!ぐふっ!」

「フィル、しっかりして!楽な姿勢があるならそうして!」

「そ…そうだね…。…ああ、横になると、少し楽だな…はぁーー…。ねえ、何か、聞きたいことがあれば、今のうちに、答えるよ…。」

「いいえ、大丈夫。喋ると辛いでしょうから、後は私に任せて休んでて。」

「そっか…ありがとう…。…タイス。」

「…何?」

「ずっと…君のことが、好きだった…小さい…ころから…ずっと…。」


そんなこと、今言うことじゃないと思うけど…。

でも、それはあなただけじゃないわ、フィル。


「…私も。女の子だからってバカにしないで一緒に遊んでくれて…私のハンカチを大事に使ってくれてたあなたのことが大好きだった。あなたは私の初恋の男の子なのよ。」


あーあ…言っちゃった…。


「…そっかぁ…ははっ…ごふっ!う、嬉しいな…僕、明るくて、可愛くて、強い君のことが、ずっと、好きで。」

「これからも好きよ?」

「ああ…これ…からも………。」

「フィル…?フィル!!」


扉の奥からヒューヒューという呼吸音だけが聞こえてくる。まだ死んではいないみたいだけど、さすがにもう喋る余裕はないらしい。


「タイスちゃん!集めてきたよ!」

「ありがとうございます!すぐに取り掛かりますので、フィルのお父さんも手伝ってください!」

「わかった!雑用でもなんでも言ってくれ!俺の息子を…頼む…!!」


フィルのお父さんの目は、息子を喪うかもしれない恐怖に震えていた。

あんなにいつも自信たっぷりで、どんな魔獣が相手でも怖がらない人なのに。


「任せてください。必ず助けます。」

何の根拠も無いけれど、言葉にすることで力を持つような気がした。

気休めだろうと何でも言ってやろうという心境だった。

フィルのお父さんと同じで彼を喪うのを恐れる、私自身のためにも。




すっかり陽は傾いて、夕焼けが村を赤く染めつつあった。

夕陽の中で作業を進める私は、自分の工程が間違っていないことと、フィルが生きててくれていることを祈ることで頭がいっぱいになっていた。


「これで…いいはずだけど…。」

フィルの残してくれたメモを頼りに配合し、それらをすり鉢で潰し合わせた後で水と混ぜ合わせ、撹拌してから蒸留装置にかけた。しばらくすると、片方のガラス瓶には蒸留水が貯まり、もう片方のガラスの内側に薄っすらと白い結晶のようなものが表れた。これが…フィルの言っていた薬?


「…確かにやってみれば簡単な作業だった。でも、これで合っているの…?もしどこか間違っていたら、きっと呼吸困難に陥っているフィルは助からない…。」

もちろん、このまま飲ませなくても助からない。作り直す時間もない。


飲ませるしかないんだ。そんなことはわかっているのに、手足が震えた。


「タイスちゃん、俺が飲ませようか?」

フィルのお父さんが、震える私を気遣って声を掛けてくれた。ありがたい申し出だけど…これはきっと、私がやらないといけないことだ。私が背負わないといけないことだ。


「…いえ。私が飲ませます。感染しないよう、口の前を布で覆っておいてください。…フィル?開けるよ?」


私は震える手で物置の扉を開いた。そこには…血を吐いて倒れるフィルの姿があった。

青空よりも濃い青色だった髪は全て真っ白になってしまっていた。


「フィル!?大丈夫!?」


血液に触れないように気を付けながら口元に耳を立てる。

…まだ息はある。けど、かなり浅い呼吸だった。意識もほとんど失われているみたいだ。

物置には殆ど明かりが入ってきていなかった。

フィルは、いつ開くかもわからない扉が開くのを、こんな暗い中で待っていたというの…!?


「待ってて…今飲ませてあげるから!」


小皿に薬を乗せて、水で溶いた物をフィルの口元に注いだ。だけど、口元を汚す赤い血痕を洗い流すばかりで、フィルは全然飲んでくれなかった。もう、口を開けるだけの力も残っていないように見えた。


「おい、フィル!タイスちゃんが薬を作ってくれたんだぞ!飲めよ!飲んで元気になってくれよ!俺を置いていくんじゃねぇ!!」


フィルのお父さんがフィルを揺さぶるけど、やっぱり目は開けなくて。

きっとこのままじゃフィルは死んじゃう。

そしてフィルが死んじゃったら、私もちゃんと生きていけない気がした。




彼は約束を守ってくれた。強くて、泣かなくて、私を守ってくれるかっこいい男の人になってくれた。だったら、私も約束を守らないと。




「…大丈夫だよ、フィル。私に任せてって、言ったじゃない。」




だから私は迷わなかった。

余っていた蒸留水で口の中をゆすいでから、治療薬を口に含み。


「なっ!?タイスちゃん、よせッ!!!」


彼の血塗られた口に唇を重ね、薬を流し込んだ。











--------

首が締まる。息を吐くことも吸うこともできなくて、体を動かすことができない。これが白死病…なんて苦しくて、寂しい病気なんだ。

外はもう夜なのだろうか。目を開けているはずなのに何も見えなくて、何も聞こえなかった。


「…~~!!」


誰かが叫んでいるのが聞こえた。

僕の頭を柔らかい何かに乗せてくれたけど…それが何かもわからない。

口元に液体がかかったことはわかったけど、口が上手いように動かなかった。


そうか…タイスは薬を作れたんだ…よかった…。


でも、ごめん…僕はもう…飲む力も残っていない…。




彼女に対する申し訳なさと、悔しさと、二度と会えなくなる悲しさを、呼吸を塞ぐことでぐちゃぐちゃに混ぜ合わせようとする白死病が憎かった。




どうにもならない終わりの瞬間が目の前に来たのを感じた時。




僕の唇に柔らかい何かが当たって、水が口腔に流れ込んできた。


温かくて優しいその水が、ゆっくりと僕の喉を通っていくのを感じ――


僕は静かな眠りについた。


それはまるですべての苦痛を置き去りにするかのような、安らかな眠りに思えた。




--------

「……うっ…?」


目を覚ました…ということを理解するのに、かなりの時間を要した。死後の世界かと思い胸に手を当ててみると、心臓の確かな脈動が返ってくる。


「僕は…助かったのか…?」


起き上がって周りを見渡すと、そこは最近よく見る小さな部屋だった。タイスの部屋だ。どうやら少し遅い朝のようで、白いカーテンが窓から入る風で揺れている。

体を起こそうと端座位を取ってみるが…かなり体力が落ちているのを実感させられた。まさか、数年間寝てましたなんてことは無いだろうな。自分の両手を見つめ、その両手で自分の顔を包み、むにむにと動かす。少し…痩せただろうか?


カタンという音が前方から響き、足元に木製のコップが転がってきた。簡素な平民服を来たタイスが、瞳と唇を震えながらそこに立っている。強い安堵を感じたものの、直後その髪色を見て絶句した。


彼女の青色の髪から、色が失われていた。


「タ…タイス…その髪は…!?」

「…おはよう、フィル…っ!おはよう!!起きるのが遅いのよぉ!!」


タイスは僕の質問は答えず、ただ抱き着いてきた。せっかく起き上がったのに、タイスと一緒にベッド上に寝転がる形になってしまった。


「あ、ああ…おはよう、タイス。…僕はどれくらい寝てた?」

「まる3日よ!もう起きないかと思ったんだからっ!!よかった…!よかったよぉ…!!」


また彼女を泣かせてしまった。大人になってから僕はタイスを泣かせっぱなしだ。全く、本当に情けない。情けなくて涙が出てくる。涙が…。


「フィル…泣いてるね…?」


ああ、泣いている。でもこれは悲しみの涙じゃない。


「ああ…ああ!嬉しくて仕方ないんだ…!また君に会えた、タイス…!君に…会いたかった…っ!!ありがとうっ!僕を助けてくれて、僕の命を救ってくれてありがとうっ!!」


僕はタイスを力の限り抱きしめて、泣き続けた。今まで封じてきたありとあらゆる感情が一気に溢れて止められない。彼女も僕に腕を回して泣き続けた。僕が泣ききれなかった分を、彼女が一緒に泣いてくれていたように思えた。




先に笑顔を取り戻したのは、タイスだった。

「もう…フィルはいつまでも泣き虫なんだから…!……でも、そんな優しいフィルだから、私はフィルのことが大好きになったの。あの時、もっと強くなれなんて言って本当にごめんなさい。例え強くなくても、フィルのことが一番好きなのは変わらないのに。」


鼻と鼻がくっつくような距離で、タイスは頬を染めた。

でも…僕は本当にタイスに相応しいのだろうか。


「タイス…僕は弱虫だ。何かあればすぐに泣くし、ついには君に命乞いをした。僕にとってタイスは憧れだったんだ。…僕はタイスみたいになりたかったんだ。」


「あなたは弱虫なんかじゃないわ。」

タイスの笑顔はどこまでも深く、僕のすべてを飲み込むようだった。


「フィルは誰よりも強いものを持ってるわ。優しさっていう、あなたに相応しい強さが。私はそんなあなたと一緒にいたいの。だから…お願い。ここでもう一度プロポーズをやり直して。」


涙の残滓で潤む瞳を見据えて、仮面ではなく、自分の意志で笑顔を選んだ僕は、心のままに告げた。


「君を誰よりもずっと愛している。僕に戦う勇気をくれて、僕の分も涙を流してくれる君以外に、僕が愛する女性なんて考えられない。…僕と結婚してくれ、タイス。」

「はい…喜んで…!私も、あなたと共に生きていきたい…!これからもあなたと一緒に歩いて、あなたと共に涙を流したい…!愛しています…心から…!」


その日、意識を取り戻した僕はその日にタイスと結婚を約束し、口移しとは違う心を込めた誓いのキスを交わした。




--------

「では、本当に冒険者ギルドを辞めたいと?」

「はい。恐らく、僕はこの仕事に向いていません。」


タイスへプロポーズを済ませ、お父さんが持ってきた清白で二人分の治療薬を作った僕は、療養期間を経て伝染の可能性が無くなったのを見計らってから、王都の冒険者ギルド本部に訪れていた。ギルドからの脱退願を出したつもりだったが、奥から出てきたのはまたギルドマスターだった。サブマスター…お父さんは、事務所の奥からただ見守ってくれている。


「残念だよ。君のことだからAランクを目指してくれると思っていた。君にはその実力もあったはずだったのにな。」

「買いかぶり過ぎです、マスター。僕はただ、薬草を集めて薬を作るのが得意なだけの未熟者です。」

「周りはそうは思っていないようだがな。」


実際、冒険者さん達からはかなり引き止められた。特に、僕に薬草収集屋ハーブコレクターと名付けた人達の惜しむ声はとても大きく、Aランクになったら固定パーティーメンバーに誘おうと思っていてくれていたらしい。Fランクだった頃との対応の差に苦笑すると同時に、そこまで思ってくれていたことに感謝した。


「退職後のアテはあるのかね?」

「薬屋として村で地道にやっていこうと思っています。」

「それは君の夢ではあるまい。君は医者になって、クリニックを開きたかったのだろう?薬屋とは違うはずだ。」

「それは…。」


マスターの指摘は正しい。薬屋と医者では似ているようで全く異なる職種だ。薬を買いたい人に売る薬師と、その人が治るまでの道筋を示す医者という仕事は、どちらが劣っているというものでもなかったが…僕が本当になりたかったのは医者だった。

だが、タイスと今すぐにでも結婚するには、やはり薬屋として生計を立てるのが一番現実的だった。安全と収入を天秤に掛ければそれしか残っていなかったわけだが、同時にそれ以上を望むのは贅沢というものだった。


「もし、君にその気があるのならだが。」

ギルドマスターは、一枚の書類を差し出してきた。これは…配置転換同意書?


「北の名もなき農村に、このギルドの支部がある。そこの治療院を担当している元冒険者がもう高齢でな。そろそろ引退したいらしいが、後継者がいないらしい。」


北の農村…治療院!?そ、それって!?


「治療院と言ってもあそこは支部内に設置した病院のような物でな。外部からの患者も受け入れるからはっきり言って激務だが、年給はAランクに匹敵する。引退前の彼から教えを乞うても良いと言うなら、君にその支部の治療院を任せたい。どうだ、フェルディナン。」


それは、ギルドマスターからの手向けだったに違いない。

治療院所属の冒険者は、名称こそ違うが医者と同等かそれ以上の仕事を要求される代わりに、職務上安全かつ高給取りだ。しかも…故郷の村で働ける。これ以上の条件は無かった。


「ありがとうございます…!!是非受けさせてください!!」

「礼を言うなら我々の方だ。君のおかげでギルドメンバーの生存率は劇的に改善されたのだ。転属先でも活躍してくれることを心から期待している。」

「はいっ!!」


こうして薬草集めから始まった僕の冒険者業は、治療院への転属という形で幕を下ろすこととなった。

事務所の奥のお父さんは、ただ無言の笑みで僕に頷いてくれた。













--------

「フィルさん、急患です!どうやらビッグブルベアーの爪に胸を裂かれたようです!かなりの出血量で、このままでは危険です!」

「分かった。すぐに傷の手当をしよう。縫合器具の消毒は済んでいるな?直ちに使えるようにしておくように。タイス、君も手伝ってくれ。増血剤の手配を頼む。それと熊の雑菌に対抗するための消毒液と抗生物質もだ。」

「ええ、わかったわ。」


治療院に所属して5年が経った。薬の知識を僕に負けず劣らず十分に蓄えたタイスには、非常勤で僕の補佐を務めてもらっている。

マスターの言うように、治療院はまさに激務の連続だった。ただでさえ怪我することの多い冒険者業だが、相変わらずヒーラーの数が足りておらず、出撃先で軽い怪我を負っただけで駆け込んでくる人間も多かった。まったくクマに襲われたならともかく、かすり傷くらい舐めて治せばいいものを。


しかも僕は調剤が得意なのであって、外科的手術の心得は殆ど無かったにも関わらず、人手不足から当たり前のように縫合や出産の手伝いをさせられていた。それらをこなすのに共通して必要なのは、絶対に辛そうな顔をしないこと。皮肉にも治療院ではかつての感情の仮面が大いに役立っていた。


溜め息を深呼吸に変えていると、後ろの方でひそひそと何やら話しているのが聞こえてきた。


「タイスさん、よくフィルさんと結婚しましたね。あの人いつもクールで、何があっても淡々としてるじゃないですか。日常生活を想像できないというか…。」

「あら、そんなことないわよ?この前だって、苦さで子供が泣かなくて済む薬ができたーとか言って大はしゃぎしてたわ、以前入院してた人が亡くなられた時なんか、家でどん底まで落ち込んで寝るまで泣いてて大変だったんだから。」

「は!?あの人が泣く!?冗談でしょ!?」


…全く余計なことを言わないでほしい。

イメージが崩れるじゃないか。全部事実だけど。


「タイス、馬鹿なことを言ってないで早く終わらせよう。今日は娘の誕生日だ。ママを遅刻させたとなれば、あの子に嫌われてしまうよ。」

「なら早く済ませましょ?お腹の子にも、お姉ちゃんのハッピーバースデーソング聞かせてあげたいんだからね。」

「もちろんだ。この程度の傷の縫合に手間取る僕らじゃない。」


無表情の仮面を貼り付けたまま、呻く患者を見下ろした。傷跡が生々しすぎて、いつ見ても泣きそうなほど怖い。でもあの日と違って、もうこの仮面をつけても辛くなんかない。




家に帰れば、僕はいつでもこの仮面を外せるのだから。


今日あったことでいっぱい笑って、いっぱい泣こう。


だから今、この瞬間だけは泣き虫を返上して戦うんだ。


泣きたい思いと流れる涙を力に変えて。


愛する白銀の髪を持つ妻と、僕らの子供を守るためだったら


僕はいくらでも強くなってみせるんだ。


幼い頃の約束に誓って、誰よりも強く。






「では、治療を開始します。」




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ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 薬瓶を割るシーン。 好きです!(笑)
[気になる点] す、すみません、他の方の感想返しを見てしまい…… “わぴこ”は金魚注意報ですぅううううう(*´Д`*)
[一言] 薬を飲んでも抜けた髪の色は戻らないんですね。 いい話をありがとうございました。
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