ひまわり
「お帰りなさい」
「ああ。ただいま。早かったな」
「うん。わたし、今日のバイト、急にシフトが変更になったの。お父さん、お腹すいたでしょう?冷蔵庫の残り物で野菜炒めと肉じゃが作っておいたからね」
「そうか、悪いな」
「野菜炒めは軽く塩コショウしてあるけど、物足りなかったら、オイスターソースかけてね。まだ温かいから、冷めないうちに食べて。それと、さっき、お父さん宛に宅急便届いたから、部屋の前に置いといたよ」
「ああ、ありがとう」
最近、直子の顔や声、そしてちょっとした仕草までも、母親によく似てきたなあと幸一郎は思う。そして、そんな時はいつも、懐かしさと寂しさが胸にこみ上げ、幸一郎ははるか遠い昔の記憶を思い起こし、しばらくのあいだ、物思いにふけるのだ。
・ ・ ・
幸一郎には、小学五年以来ずっと気にかかっている女の子がいた。名前を山口千鶴と言った。幸一郎が引っ越して別の小学校に転校した後でも、そして、高校を卒業し大学に入ってからも、時折その子のことをふと思い出し、今頃あいつはどうしているのだろうと思うのだった。それは、恋愛感情から来るのではなく、その子と幸一郎の間に起こったある出来事に起因していた。
当時、幸一郎は大阪府茨木市の中心部からやや離れた田園地帯にある小学校に通っていた。幸一郎と山口千鶴は同じ教室だった。
山口千鶴はクラスで皆から嫌われていた。それは彼女の性格によるのではなく、彼女の身なりによるものだった。千鶴の着てくる服はいつも同じで、薄汚れ、臭かった。髪の毛は絡みあったまま固まり、顔全体がまだら模様の茶色だった。クラスの生徒たちはそんな千鶴を露骨に避け、席替えで席が隣になると大声で騒ぎ、近づくのを嫌がった。
幸一郎は千鶴に対して、そのような感情を抱いたことはなかった。それどころか、むしろ親近感さえ感じていた。なぜなら、幸一郎もクラスでは決して好かれていない存在だったからだ。
それは幸一郎の性格に原因があった。根は優しい人間だし、正義感も人並み以上に持っているのだが、話すのが苦手なこともあって、気に入らないことがあると口よりも先に手が出るタイプで、些細な事で誰かれとなく、すぐに喧嘩を始める少年だったのだ。おまけに、背も高く腕力も強いほうだったから、他の生徒からは、山口千鶴ほど露骨にではないが、明らかに敬遠されていて、幸一郎に自分から話しかけてくる生徒はほとんどいなかった。
もちろん、女子は幸一郎の喧嘩の対象ではなかった。だから、幸一郎にとっては、山口千鶴はその他大勢のひとりに過ぎなかった。あの日までは。
それは、幸一郎が小学五年生だった夏休みのある夕方のことだった。幸一郎はいつものように、母親が入れてくれた一番風呂に浸かっていた。そのころ、幸一郎の家は古い木造住宅の一部を間借りしていたのだが、小さいながらも風呂が付いていて、夕方になると母親が浴槽に水を張って、湯を沸かした。会社勤めの父親が仕事から帰るのはいつも晩の7時ぐらいだったから、長男の幸一郎が一番風呂をつかわせてもらっていたのだった。
その浴室は路地に面していて、路地側に小さな窓が付いており、幸一郎はいつものように、その日も窓を開けて入っていた。そして、体を洗い、湯船に浸かり、ふと窓のほうを向いた時だった。その窓から、あの山口千鶴が中を覗き込んでいたのだ。
小学生の男子が素っ裸を同級生の女子に見られたときのショックは、男なら誰でも分かるだろう。幸一郎は飛び上がって大声を発した。恥ずかしさと怒りで顔から火が出そうだった。
山口千鶴は幸一郎が大声を出すのと同時に、一目散にどこかへ駆けていった。
幸一郎はこのことを誰にも話さなかった。山口千鶴をかばったわけではない。ただ、裸を女子に見られたことを誰かに話すのが恥ずかしかったからだ。だが、山口千鶴にはいつか仕返しをしてやりたいと思った。俺の裸なんか見て何がうれしいのか、この変態女。幸一郎はそう思った。
それから数日して、仕返しの機会はやってきた。幸一郎が家の近所の空き地でビー玉の練習をしていると、三叉路になってやや広くなっている交差点の向こう側を山口千鶴が通りかかったのだ。千鶴も幸一郎に気付いていた。千鶴は悲しそうな目をして足早に通り過ぎようとしたが、幸一郎はとっさにポケットに入っていたビー玉をひとつ取り出すと、千鶴に向かって思いっきり投げつけた。
幸一郎と千鶴の間には20メートルほどの距離があったので、幸一郎はまさか当たると思わなかったのだが、ビー玉は見事に千鶴の側頭部に命中した。「コン」という軽快な音がして、すぐに千鶴の泣き声が幸一郎の耳に聞こえてきた。千鶴は泣きながら、自分の家のほうに走っていった。
「ざまあみろ。お前が悪いんやで」幸一郎は心の中でそういいながらも、何となく罪悪感めいたものを感じていた。なぜだか分からないのだが、山口千鶴が入浴中の男子を覗き見していたという事実が、自分の頭の中で、なんとなくしっくりこなかったのだ。
その後、幸一郎はその件はすぐに忘れ、やがて、幸一郎は小学六年生になり、両親が念願のマイホームを新築して吹田に引っ越したので、幸一郎は転校することになった。当然、幸一郎が山口千鶴と会う機会も無くなったわけだが、転校した幸一郎は、他の同級生の事はほとんど思い出さないのに、どういうわけか、千鶴のことを時々、ふと思い出した。そして、中学、高校を卒業し、大学に上がってからでも、次第に頻度は少なくなったが、時折、わけもなく千鶴のことを思い出すのだった。あいつは今頃どうしているんだろう。なぜ、あの時、俺の家の風呂を覗いていたんだろうと。そして、黒く汚れて人相や表情もよく分からない千鶴の面影が脳裏に浮かび、あの時の千鶴の泣き声が幸一郎の心の中で悲しく響くのだった。
大学を卒業して、大阪のある建材商社で働き始めた幸一郎は、忙しさもあって、山口千鶴のことはほとんど思い出さなくなっていた。そして、朝から晩まで働きずくめで、新聞に目を通す時間すらないほどの忙しさの中、幸一郎はサラリーマンという仕事に見切りをつけ始めていた。人に頭を下げられない自分には向かない仕事だと。
そんな、もやもやした精神状態の時だった。営業で外回りをしていた幸一郎は、ある小学校のそばを通った。ちょうど下校時間で、数十人の生徒たちが学校の門から三々五々出て来ていた。そして、幸一郎がたまたまその生徒たちの方を向いた時、幸一郎は思わず息を呑んだ。赤・黒・ピンク・紫など色とりどりのランドセルを背負い、楽しそうに下校してくるその生徒たちの中に混じって、あの山口千鶴そっくりの子がいたのだ。背格好や顔つきは違っていたが、一人だけ薄汚れた服を着て、髪の毛がくしゃくしゃで、煤けたような茶色い顔をして、暗い目をした少女。それは、あの時の山口千鶴そのものだった。
幸一郎はそのとき初めて理解できた。なぜ、11歳の少女が同級生の男子の入浴を覗き見する必要があったのか。それは決して、男子の裸を見たかったからではない。自分もお風呂に入って体を洗いたい。ただ、それだけだったのだ。そう考えると、すべてが腑に落ちる。
幸一郎は千鶴の家のことを思い出した。千鶴の家は小さな池の近くにあった。その池には大きなウシガエルがたくさんいて、幸一郎も友達とよくカエル釣りに行ったものだ。その池のそばに建っていた古い木造の平屋が千鶴の家だった。その家は窓ガラスがところどころ割れ、割れた箇所にはベニヤ板が内側から貼り付けてあり、人が住んでいないかのように荒れていた。親はいたのだろうか?少なくとも幸一郎はその姿を見たことはなかった。
あのあばら家から、山口千鶴は毎日学校に通っていたんだなあ。幸一郎は当時に思いを馳せた。学校の担任が多少はサポートしていたのだろうが、おそらく、3度の食事も満足にしていなかったのではないだろうか。ましてや、洗濯や風呂などの機会がどれほどあっただろう。自分の家も貧乏だったが、それとは次元の全く違う生活だったはずだ。日々の世話をしてくれる大人は誰もいない恐ろしく心細い人生を、あいつはたった一人で生きていたのだ。そんなことを夢想だにせず、あの時、風呂に入っている俺がただうらやましかっただけの山口千鶴に、俺はビー玉なんか投げつけてしまった。いくら小学五年生でも、そのくらいのことが分からなかったのか。俺はなんて馬鹿な子供だったのだ。しかも、この年になるまで、あの時の山口千鶴のそんな思いに気付かなかったとは。幸一郎は我ながら情けなかった。
幸一郎は自責の念でいたたまれなくなり、急いでその場を離れて会社に戻り、その日は早々に仕事を切り上げた。そして、山口千鶴のことや自分のこれからの人生のことなどをあれこれ考えながら、梅田の居酒屋で、ひとりで終電まで飲んだのだった。
それから数ヶ月して、幸一郎は会社を辞めた。実質的には、クビになったのだった。幸一郎が所属する部署の営業成績に関することが原因で、朝のミーティング時に部員全員の前で上司の胸ぐらを掴み、「いい加減にしろ、このやろう」とやってしまったのだ。その後すぐに、人事部から呼び出しが掛かり、その場で退職願を書いた。幸一郎は失業者になった。だが、むしろ、幸一郎は清々しい気分だった。もともと気に入らない上司だったし、どうせいつかは辞めるつもりでいたから、ちょうどよい機会だったのだ。
幸一郎は、もう会社員をやるつもりはなかったから、吹田の自宅の近くに小さな店舗を借り、自営業をはじめた。それはリサイクル業だった。官庁から古物商の許可をもらって、廃品や不用品買取などで個人から仕入れた商品を店頭で販売した。家電、古着、家具、カー用品、電動工具などが主な取り扱い品目だ。収入はサラリーマン時代に比べて安定せず、何とか食べていけるというレベルだし、店舗はほぼ年中無休で午前9時から午後8時まで営業していたため、休む時間もほとんどなかった。それでも、幸一郎に不満はなかった。サラリーマンにはない自由さと、成功も失敗もすべて自己責任という点が気に入っていた。
幸一郎がそんな自営業の生活を始めて3年ほどたった年の瀬のことだった。仕事が忙しかったため長いあいだ放っておいた虫歯が進行し、幸一郎はいよいよ我慢できなくなっていた。子供のころに治療した奥歯の詰め物が2年ほど前に外れたのを放置していたら、またそこに新たな虫歯ができてしまったのだ。年末で多忙だったが、幸一郎はこのまま新年を迎えるのは気が引けた。そして、最寄りの江坂駅前の歯科医に行くことにした。
歯科医も年末のためか混んでいたが、30分ほど待って診てもらうことができた。その日は痛む部分に神経を殺す薬を入れ、仮の詰め物をしてもらい、とりあえず痛みは治まった。翌週も同じ曜日に行き、治療の続きをしてもらった。そして、4週目、最後の治療が終わり、名前を呼ばれ、治療費を支払おうと受付の前に立ったときだった。受付の女性が突然話しかけてきた。
「木村君だよね?」
「えっ?」
「私のこと覚えてない?」
そういわれて、幸一郎は女性の顔をじっくり見直した。整った顔立ちの感じのいい女性だが、見覚えはなかった。
「いや、覚えてないけど。どこで会いました?」
「私。山口千鶴です。お久しぶりね」
幸一郎はそういわれて、びっくりした。そういえば、目元があの山口千鶴のもののような気がするが、あの当時は、千鶴の顔はいつも煤けていて、はっきりした人相はあまり覚えていないのだ。
「おお。山口やったんか。全然分からんかった。それにしても奇遇やなあ。元気にしてたんか?」
幸一郎は待合室で座っているほかの患者のことを忘れて、つい大きな声を出してしまった。
「うん。木村君は?」
千鶴はくすっと笑いながら小声で応えた。
「あ、大きな声出してごめん。俺も何とか生きてるよ。そうか、ここで働いているのか」
「うん、アルバイトだけどね」
「ほんまに奇遇やなあ」
幸一郎はこの機会を絶対に逃してはいけないと直観的に思った。小学五年時の自分の愚かな行為を埋め合わせる、最初にして最後のチャンスだろうと。
「そうか、こんなに近くで働いてたんやなあ。あれから15年か、久しぶりやなあ・・・」
このあとどう切り出したものかと悩んだ幸一郎は、うつむき加減で頭を掻きながら千鶴に言った。
「あのう、突然だけどさ・・・せっかく会えたんやから、もしよかったら、今度お茶でもどうや」
「そうだね。15年ぶりの再会だもんね」
千鶴はやや顔を赤らめて、うれしそうに言った。
幸一郎は、江坂駅近くの二人が知っている喫茶店で次の日の夕方に千鶴と落ち合う約束をして、歯科医を出た。
翌日、幸一郎がその喫茶店に約束の時間に行くと、千鶴は先に来て、窓側の席に座っていた。清楚な水色のワンピースが千鶴の感じの良い顔とよく似合って、あの時の薄汚れた少女のイメージは全くなかった。ただ、その目元にはあの時と同じ影が、わずかだがまだ残っていた。
夕刻だったので、二人はソフトドリンクと合わせてサンドウィッチも注文した。
「お久しぶり」
千鶴が幸一郎を見ながら恥ずかしそうに言った。
「ほんまに久しぶりやなあ」
幸一郎はまじまじと千鶴を見て、本当にその通りだと思った。
「木村君。わたし、何か変?」
「えっ?」
「だって、ずっと見てるから」
千鶴が可笑しそうに言った。
「いや、本当に久しぶりやなあと思うてなあ・・・。お前、変わったなあ・・・。とにかく、元気そうで何よりや」
千鶴がこうして普通の仕事をして、普通に暮らしているのを見て、幸一郎は本当にうれしかった。
「木村君も元気そうね。あの頃と全然変わってない。木村君が最初に歯の治療に来た時に、すぐに、あの木村君だとわかったよ・・・。声を掛けようかどうか、ずいぶん迷ったんだけどね・・・」
「そうか・・・。ところで、あの時は悪かったなあ。・・・ビー玉がまさか当たると思わなくてなあ。頭にコツンと。痛かったやろう。ほんまに、ごめんやで」
「ううん、私のほうこそ。お風呂覗いたりして・・・、ごめんね。いやらしい子供だと思ったんじゃない?」
「いや全然そんなことはないよ。こっちのほうこそ謝らなあかん・・・。あの時はすまんかったな・・・。俺ってほんまに鈍い子供やったから・・・。勘弁してくれ」
幸一郎は深々と頭を下げて千鶴にそう言うと、長いあいだ背負っていた重荷をやっとひとつ肩から降ろせたような気がした。
「ううん・・・。木村君、ありがとう・・・」
千鶴は短い沈黙のあと、目を赤くして、うつむきながら小さな声で言った。
その後、幸一郎たちはこれまでのことや今の仕事、生活について、差し障りのない範囲でお互いに質問し答えた。幸一郎はもっぱら自分のリサイクル業のほうに話題を持って行くようにし、千鶴の過去や現在のことについては、あまり詳しく聞かないようにした。そうして、1時間ほど話すと会話の種も尽きてきたので、幸一郎たちは店を出た。千鶴は桃山台駅近くの豊中の公団に住んでいたから、幸一郎は江坂駅まで千鶴を送っていくことにした。
「山口さあ。よかったら電話番号を教えてくれへんか」
駅のほうに歩きながら、幸一郎は千鶴に言った。
幸一郎は不純な気持ちからそう言ったのではなかった。確かに、15年ぶりに会った山口千鶴は別人のようにきれいになっていたが、それよりも、幸一郎はこの娘の人生を少しでも幸せなものにするために、何か自分にできることが無いだろうかと真剣に思っていたのだ。幸一郎がビー玉を投げつけたあの小学5年生の少女の悲しそうな顔が、目の前にいる、大人になった山口千鶴の顔と重なっていたのだった。
「うん、いいよ。木村君の番号も教えて」
幸一郎たちはお互いの携帯電話の番号を交換した。
その後、幸一郎と山口千鶴は定期的に連絡を取り合い、月に2~3度くらいの頻度で会った。時には幸一郎から食事に誘い、また、時には千鶴が幸一郎を映画に誘うといった具合だった。その間、幸一郎たちは他愛のない会話の合間に、自分のことについても、お互いに少しずつ話をした。
千鶴はいろいろな困難にぶつかりながらも、中学校までは何とか卒業し、その後すぐに大阪に出てきて一人暮らしをはじめ、いろいろな仕事をしながら生計を立ててきたのだった。
初めのころは、中卒の15歳の少女を雇ってくれるところはなかなか見つからず、千鶴は年齢をごまかして、新聞販売店などの住み込みの職に就いて何とか糊口をしのいだ。18歳を過ぎてからは仕事も見つけやすくなり、千鶴はさまざまな仕事を経験して今に至っている。その間、千鶴は通信教育で高卒の資格も取っていた。
大阪に出てきた当初はずいぶん苦労したが、それでも、実家にいる時に較べたら天国みたいなものだったと、千鶴は悲しそうに笑って話した。
現在、千鶴は、午前は自宅近くの小さなパン屋でパン職人として働き、午後はアルバイトで歯科の受付の仕事をやっている。そうやって資金を貯めて、将来は自分のパン屋を持つのが千鶴のささやかな夢だった。
幸一郎は千鶴の話を黙って聞いた。その間、何度も目頭が熱くなり、幸一郎はそれを隠すのに苦労した。そして、今のまま頑張っていればいつか必ず店が持てるし、お前は美人だから絶対繁盛すると思うと幸一郎が言うと、千鶴はうれしそうな顔をした。
しかし、幸一郎はそれをお世辞で言っているのではなかった。千鶴はただ顔がきれいなだけの女ではなかった。努力家で、細かいことにも気配りができる、頭の回転の速い娘だった。こいつがちゃんと勉強できる環境に生まれていれば、今とは全く別の世界で生きていただろう。そうしたら、俺なんかとこんなふうに人生が交差することもなかっただろう。幸一郎はそう思った。
幸一郎も自分の夢について話した。夢といっても、今やっているリサイクル業を続けて、そんなに儲けなくていいから、一生、人に頼らずに生きていきたい。ただそれだけのことなのだが、千鶴は幸一郎のシンプルな生き方に共感した。
幸一郎と千鶴は数回会ううちに、お互いを深く想うようになっていった。そして、まだ肌寒い4月初めのある夜、いつものように梅田のレストランで食事をした後、幸一郎は思い切って、千鶴に自宅に来ないかと誘ってみた。千鶴は快諾してくれた。
幸一郎の自宅は、江坂駅から15分ほど歩いたところにある7階建て賃貸マンションの5階部分にあった。ふたりはタクシーでそのマンションまで行き、エレベーターで5階に上がると部屋に入った。
幸一郎は千鶴のために熱いコーヒーを入れた。幸一郎たちはコーヒーを飲みながらソファに座って、アメリカのコメディー映画のビデオを見始めたが、幸一郎はすぐにビデオを消して、千鶴の腰を自分の方に引き寄せた。ほっそりした腰だった。そして、幸一郎が千鶴の唇に接吻すると、千鶴も幸一郎を抱き返した。そのまま幸一郎は千鶴のブラウスを脱がそうとした。しかし、千鶴が手でそれを遮ろうとしたため、幸一郎はどうしてもブラウスのボタンをはずすことができなかった。苛立った幸一郎は千鶴に言った。
「どうしたんや?嫌なんか?」
「ううん、そうじゃないの・・・。」
「じゃあ、何で邪魔するんや。」
「木村君、私のこと本当に好き?」
「決まっているやないか。そやから、家に誘うたんや。俺は誰でも誘うわけやないで。」
「分かった。」
千鶴はそう言って、自分でブラウスのボタンをはずし始めた。ボタンがひとつずつはずれて、千鶴の肌が少しずつあらわになるにつれ、幸一郎は千鶴が嫌がった理由が分かってきた。千鶴の胸から腹、肩から背中にかけて、無数の火傷の跡が残っていたのだ。誰かがタバコの火を押し付けたのだ。幸一郎はそう思った。
「誰がこんなことを・・・。お前の親父か?」
幸一郎の声は怒りに震えていた。
千鶴はうなずいた。
「こんな体でも、木村君、本当にいいの?」
「何を言うてんねん。」
幸一郎は千鶴の体を引き寄せ、その火傷の跡ひとつひとつに口づけをした。そして、全裸になった千鶴の体を抱えてベッドまで運び、幸一郎たちはそのまま交わった。
翌朝目覚めた幸一郎は、まだ隣で寝ている千鶴の体をじっくりと観察した。色白で細身の美しい体に、タバコの火が無残な傷跡を残している。幼い自分の娘にこんなことができる奴がこの世にいることが、幸一郎には想像できなかった。同時に千鶴の父親に対する凶暴な怒りが沸々と湧いてくるのがわかった。(この償いは必ずさせてやる)幸一郎は千鶴にではなく、自分の心に誓った。
幸一郎は千鶴のために米を炊き、タマネギや薄揚げの入った味噌汁を作った。といっても、毎朝、自分の分を作っているので、量をいつもの倍にするだけの話だった。千鶴が目覚めて、朝食を食べ終えると、幸一郎は早速千鶴に宣言した。
「お前の親父に会いに行こう」
「えっ・・・。どうして?」
「お前の体の傷跡のことについて、話し合うんや」
「もういいの・・・。済んだことだから・・・」
「あかん。こういうことはきちんとけじめをつけなあかん。中途半端にしたままでは絶対あかんで。そうせんと、お前はいつまでたっても幸せになられへん。・・・それに、お前がよくても俺の気がすまんのや」
千鶴は無言のまま、幸一郎の目をじっと見つめた。
「・・・うん、わかった・・・。木村君・・・。ありがとう」
千鶴の目が濡れていた。
幸一郎は千鶴を強く抱きしめながら、またもや、千鶴の父親に対する怒りが心の底から沸き立ってくるのを感じていた。
それから数日が過ぎて、幸一郎たちは、千鶴の父親の家に行くことにした。千鶴は中学校を卒業して家を出たきり、父親には会っていなかった。
二人があの池のそばの家に着いたのは夕方近くだった。家の近くまで来ると千鶴はそれ以上進むのを嫌がったが、幸一郎は千鶴をむりやり家の前まで引っ張って行った。千鶴の今後の人生のために、それはどうしても必要なことのように思われたのだ。
幸一郎は家の前に立ち、家全体を見回した。家は昔以上に荒れ果てていたが、人が住んでいる気配があった。幸一郎が「こんにちは」と言いながら、すりガラスがはめ込んである古い木製の玄関を開けると、千鶴の父親は家の中にいて泥酔しており、その足元には日本酒の大きな紙パックが転がっていた。幸一郎は父親を玄関先に呼び出すと、千鶴の火傷の跡のことについて詰問した。父親は、あれは事故だったの何だのと、のらりくらりと返答した。業を煮やした幸一郎は父親の胸ぐらを掴んで家から引きずり出し、池の中に叩き込もうとした。しかし、それはできなかった。千鶴が止めたのだ。気持ちの収まらない幸一郎は、さらに千鶴の火傷の跡を父親に見せ、なぜ自分の娘の体にこんな酷いことをしたのかしつこく訊いたが、父親は黙ってうつむいたままだった。幸一郎はなおもその理由を言わせようとしたのだが、千鶴はそれも望まなかった。実の父親を苦しめるのは千鶴にとってもつらいことだったのだ。おそらく、父親は初めからこんな風ではなかったのだろう。きっと、優しいお父さんの時期もあったのだと幸一郎は思った。
幸一郎は千鶴の気持ちを考え、千鶴の父親に語らせるのをあきらめた。幸一郎は父親に具体的な何かを期待してここに来たわけではなかったが、結果的に自分がそれほど千鶴の力になれなかったことが悔しかった。そして、薄暗くなって今にも雨が降り出しそうな空模様の中、肩を落とした幸一郎が、もと来た道を千鶴と一緒に帰ろうとした時だった。
「千鶴。すまなかった」
後ろから、蚊の鳴くような声が聞こえてきた。
「お前の母さんが男を作って、この家を出て行ってから、わしは酒なしでは生きられんようになってしもうたんや。酒を飲むと、あいつのことが憎うなってなあ・・・。お前を見るとあいつのことを思い出して、それで、お前に当たってしもうたんや。お前には本当に酷いことをしてしもうたと思うてる。お前には何の罪も無かったのに、ほんまにすまんかった。やったらあかんとわかっていても、酒を飲むとどうしようもないんや・・・。ほんまにすまんかった。勘弁してくれ・・・」
父親の声が終わる前に、千鶴の嗚咽が幸一郎の耳に聞こえてきた。幸一郎は無言で千鶴の肩を抱きながら、その家を後にした。
幸一郎と千鶴は江坂の幸一郎の家に着くまで、一言も言葉を交わさなかった。ただ、幸一郎はその間ずっと千鶴の手を握っていた。そうすることで、千鶴の悲しみが自分の体の中に多少なりとも吸収されるような気がしたのだった。
千鶴の父親の件のあと、幸一郎と千鶴はますます親密になった。千鶴は週の半分は幸一郎の家に泊まるようになった。二人が歯科医で出会って1年ほど経っていた。
幸一郎は迷っていた。自分たちの結婚についてだ。二人とも28歳になり、年齢的にもそういう時期だし、お互いに固い信頼で結ばれている。しかし、幸一郎は踏ん切りが付かなかった。自信がなかったのだ。
幸一郎は自分の性格を知っていた。悪人ではないし、優しい気持ちも人並み以上に持っているつもりだが、決して温厚な人柄ではない。だから、千鶴を幸せにできる自信がなかった。これまでも、何度も短気を起こして、損な人生を送ってきたのだ。そんな男と少女時代のトラウマを抱えた女が所帯を持って、本当にうまくやっていけるのだろうか。もし、結婚生活に失敗したら、かえって千鶴を苦しませることになるのではないか。それに、経済的にもリサイクル業という商売は不安定だ。時には偽物を掴まされ、大損することもあるのだ。気立ても頭もよい千鶴には、自分みたいな心許ない人生を送っている男ではなくて、人柄が円満で、安定した仕事に就いて、家族に不安のない生活をさせてやれる男のほうがふさわしいのではないか。
そんなことを思うと、幸一郎は千鶴にプロポーズすることがなかなかできなかった。そして、そんな幸一郎の心がわかっているかのように、結婚のことについては、千鶴も自分から話すことは一切なかった。
そんな、ある日の夕方のことだった。幸一郎たちはいつものように、二人で近所のスーパーに夕飯の食材を買いに出かけた。そして、牛肉や野菜などの必要な食材を買って店を出て、二人が家に戻る途中のことだった。幸一郎たちが夕食のメニューのことについて話しながら歩道を歩いていると、そこに、右折しようとした対向車と衝突したトラックが突っ込んできたのだ。そのとき、幸一郎は車道側を斜め後ろの千鶴のほうを見ながら歩いていたので、トラックに先に気付いたのは千鶴のほうだった。
「危ない!」
千鶴はそう叫ぶと、幸一郎をガードレールのある安全な方向に突き飛ばした。そして、自分は突っ込んできたトラックにはねられてしまったのだ。
それはほんの一瞬のことだった。幸一郎が気付いた時には、千鶴は頭から血を流して倒れていた。通行人の誰かがすぐに救急車を呼んだ。幸一郎は千鶴を抱き、何度も名前を呼んだ。「動かしたらあかん!」と誰かが言っているのが聞こえた。
やがて、救急車が到着し、幸一郎も同乗して、千鶴は近くの救急病院に搬送された。手術は8時間に及んだ。幸一郎はその間、ひたすら神に祈り続けた。普段、神について考えることも無い幸一郎だが、そうするしかなかったのだ。
浩一郎にとっては無限とも思える時間が過ぎていったが、ようやく手術室のドアが開き、執刀医が中から出てきた。医師の説明では、肋骨と腕の骨が数箇所折れ、脳震盪を起こしているが、命には別状は無いだろうとの事だった。幸一郎は生まれてはじめて、心の底から神に感謝した。
千鶴はストレッチャーに乗せられ、幸一郎に付き添われて手術室から一般病棟に移された。千鶴は麻酔から覚めた直後で、眠っているように見えた。腕にギブスをはめられ、酸素マスクをかぶり、白い顔をしていた。
こいつは俺の身代わりになってくれたのだ。幸一郎がベッドのそばに座り、そう思いながら千鶴の青白い顔を見ていると、幸一郎の目から涙が次々と溢れて止まらなくなった。そして、幸一郎は決心した。俺はこの女と一緒になる。どんなことがあっても最後まで添い遂げる。もはや、自分の性格や千鶴のトラウマなど関係なかった。
「千鶴、俺と結婚してくれるか?」
幸一郎は千鶴の耳元でささやいた。すると、千鶴の閉じたまぶたから一筋の涙が流れた。
それから、ひと月ほどして千鶴は退院し、幸一郎たちはすぐに婚姻届を役所に提出した。結婚式は挙げなかったが、その代わり、二人でハワイに旅行に行くことにした。二人とも海外に行くのは初めてだった。
二人は都合をあわせて大阪府庁にパスポートの申請に行き、それから、梅田の旅行代理店に回ってハワイ旅行のパンフレットなどを見て、チケットやホテルの手配をした。帰りに梅田のレストラン街で食事をしながら、ハワイでの滞在期間の過ごし方について、二人であれこれ楽しく相談した。
千鶴が退院してまもなく3ヶ月という、5月下旬のある日曜日の深夜、二人は大阪発ホノルル行きのジェット機に乗った。関西空港からホノルル空港までは約8時間ほどかかった。機中、二人とも興奮のためか、なかなか寝付けなかった。
そして、いつの間にか眠っていた二人が目を覚ますと、飛行機はカウアイ島を過ぎ、ホノルル空港に着陸しようとしていた。二人は雑誌でしか見たことがないオアフ島のビーチや街並みを自分の目で見ようと、お互いの頬をくっつけて、飛行機の窓から見える景色を着陸直前まで眺め続けた。
空港の到着ロビーでは、旅行代理店の現地ガイドが二人を待っていた。ガイドは二人の首に地元のいろいろな花で作ったハワイアンレイ(首飾り)をかけて、温かく出迎えてくれた。空港やホテルは花とココナッツを混ぜたような甘い香りが漂い、二人は「地上の楽園」に来たことを実感した。
ハワイには自然・歴史・文化面におけるさまざまな観光名所があるが、二人は3泊4日の滞在期間のほとんどを、オアフ島のビーチで過ごした。オアフ島には数多くのビーチがあり、そのどれもが美しかった。
高く、青く、澄み切った空、エメラルド色の透明な海、どこまでも続く遠浅の白い砂浜に囲まれて、止むことなく吹いてくる爽やかな潮風の中、二人は何もかも忘れ、子供のように戯れた。
時折打ち寄せるワイキキの大波と無邪気に格闘し、泳ぎ疲れるとビーチチェアで横になる千鶴の白い水着姿が、幸一郎の目にまぶしく映った。
夕暮れに、水平線が黄色からオレンジ色、そして濃い紅色に変わり、やがて闇に包まれるのを、ビーチに座って飽きることなく見ている千鶴の横顔の無垢な美しさに、幸一郎は心を奪われた。
この女を幸せにしてやりたい。幸一郎はただそれだけを思った。千鶴の目元に長いあいだ付き纏っていたあの忌まわしい影は、もう完全に姿を消していた。
しかし、あとから振り返ると、その時が千鶴の人生で最も輝いていた瞬間だった。旅行から帰った千鶴はすぐに身篭り、やがて女児を出産したが、千鶴は不運にも出産時に亡くなってしまったのだ。胎盤剥離だった。帝王切開で赤ん坊はかろうじて命を取り留めたが、千鶴は出血がひどくて助からなかった。幸一郎は出産前に千鶴と相談して決めていた通り、子供の名前を「直子」とした。
千鶴が死んで、生きる目的を見失った幸一郎は、悲しさと虚しさから逃れるために、直子の世話とリサイクルの仕事に没頭した。
商品の仕入れ時も直子を連れて行き、ミルクを作って飲ませ、オムツを交換し、天気のいい日はベビーカーに載せて近くの公園に散歩に連れて行き、夜はたらいに張ったぬるま湯で体をやさしく洗ってやった。直子がインフルエンザに罹って高熱を発した時は、幸一郎は一睡もしないで看病した。
将来、直子を志望の学校に行かせてあげられるよう、リサイクルの仕事についても一切妥協せず、毎年、取り扱い品目を着実に拡大していった。年々多忙になる業務をこなしながらの育児は大変な重労働だったが、それはやがて、幸一郎の生きがいとなっていった。
直子が小学校に上がってからは、勉強を見てやり、ドッジボールやキックベースボールなどの練習の相手をし、料理やお菓子を一緒に作り、親子で百貨店に買い物に行き、日本各地に旅行に連れて行った。中学以降は毎朝5時半に起きて、友達に見られても恥ずかしくないようなお弁当も作ってやり、参観日、運動会、文化祭などの学校行事は、どんなに忙しくても必ず見に行った。
千鶴を幸せにしてやりたかったという幸一郎の思いは、そのまま直子の幸せへの願いとなった。幸一郎にとっては、直子の成長を見るのが何よりの楽しみとなった。そして、唯一、その楽しみを千鶴と共有できないのが残念でならなかった。
・ ・ ・
月日が経つのは早く、千鶴が死んでからまもなく20年が過ぎようとしている。幸一郎には、歯科医で千鶴に再会した日のことが昨日のことのようにも感じられる。
最近、直子の顔や声は本当に千鶴によく似てきたと幸一郎は思う。笑い方やくしゃみの仕方まで千鶴そっくりだ。しかし、明らかに違う点がひとつだけある。それは、直子の澄んだ瞳には千鶴の目に長い間宿っていた影や暗さが微塵もないことだ。母親の肌のぬくもりも知らず、無骨な男手ひとつで育てられたとは思えない、溢れるほどの明るさと優しさを持っている。
「お父さん、お風呂沸いたから、先に入ってね」
「うん。ありがとう」
「直子ね、先週の西洋史のテスト、100点満点だったんだよ。すごくない?」
「それはおめでとう。でも、教授は学生が満点取れるようなテスト作ったらあかんわなあ」
「もう、素直じゃないなあ」
直子はひまわりのような女性に育ったよ。幸一郎は毎日、仏壇に線香をあげながら、直子の成長振りについて千鶴に報告している。そして、お前がもう少しまともな親の元に生まれていれば、お前もきっと、この世で大輪の花を咲かせたに違いないと、幸一郎は心の中でいつも千鶴に語りかけている。