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さよならは秋の風に消えてゆく

作者: 啞雅

 どうしてかな?

 君とはこうなる気がしてた。

 さよならのないさよならは、さよならのあるさよならよりずっとずっとつらい。

 それを今こうして噛み締めてる。


 今、君は元気かい?

 なんてね。

 そんなの聞いても、虚しいだけで、だけど、君が作ってくれた心はまだ息をしている。

 そうして、君のことを考えてしまう癖。

 一生、治らないだろうな……。







 秋。僕はこの季節が四季の中で一番好きだ。

 寂しい感じがするとか、陽が短くなって悲しいとか、もう冬になるなんて嫌だとか……。

 人はそんな風に言うけど、この季節の匂いは何にも代えがたい。

 ひらひらと舞う落ち葉。湿り気の無くなった風。赤紫に染まる空。


 君と出会ったのもこの季節だった。


 そして、君とはぐれたのも……。

 指切りする間もなく、とても好きなのに、スッと通り過ぎてしまう秋のように、君はいなくなった。





 ざわつく東京。。僕はこの街が嫌いだ。風情も何もあったもんじゃない。

 まぁ、生まれも育ちも東京だから、風情なんて味わったことはないのだけれど。

 ただ、せわしなく人は足早にこの街を行き交う。

 肩のぶつかり合いも、その度生まれる舌打ちも、ありがとうも、ごめんなさいも、忘れてしまったこの街では、君には住みにくかったに違いない。


 僕は阿呆だから、君と出会って、このまま一生一緒にいられると信じていたんだ。

 と言っても、君は僕を裏切った訳では、決してないんだけど。

 ただ、後悔を……数えきれないほどある後悔を、あえて一つに絞るなら、寒そうに服の袖を伸ばして、半分だけ見えてた指先を、一度も握れなかったこと。

 あの日、君が何をどう選択し、行動したのか、僕にはわからないけれど、きっと僕が思ってる以上に、君は、大人だった……と言うことだろうか。

 もう二度と会うことのない、君を、僕はまだ、思い出に出来ずにいるんだ。


 笑う?

 うん。君はきっと笑う。

 だって僕はこうして笑っているから。

 君は僕の鏡だ。

 僕が笑うと、君は笑って、僕が寂しそうにすると、君は寂しそうに空を見上げた。



 だけど、あの夜、君がどんな顔をしていなくなったのか、それだけがわからないんだ。





「初めまして。桜ヶさくらがおか 沙由美さゆみです。よろしくお願いします」

 高二の秋。沙由美は僕の前に突然現れた。

 って、単に転校してきただけなのだけれど。

 だけど、沙由美は、何処か覚束ない表情で、視線を左右に揺らして、自己紹介も名前だけで終わってしまった。

 普通より、少し美人の類に入るだろうか?

 僕はと言えば、クラスでも一人浮いた感じの根暗だったし、髪もぼさぼさで、学生服のボタンも取れかかって、シャツもアイロンすらかけていなかった。


 僕は、母親がいなかった。

 僕が生まれて、二年後、交通事故で亡くなったと父親から聞かされていた。

 父は、銀行で支店長をしている。

 中間管理職で、神経を病み、先日、胃潰瘍から復帰したばかりだった。

 僕は、母のぬくもりを知らない。

 幼稚園の時、迎えに来てくれてた父に申し訳なくて、言えなかったが、『僕のお母さんは?』と、何度も言いかけて指をくわえた。

 父は良い父だと思う。

 僕に、今でこそ、家事はほとんど僕がしているが、僕が小学校五年生になるまでずっと朝ごはんも、お弁当も、夕食も、掃除も、洗濯も、家事のほとんどをこなしてくれていた。

 そして、

「お前の母さんはね、とても美人だったんだ。お前はお母さん似だな。父さんはこんなだから。良かったな。健哉けんや

 そう言って、寝かしつけてくれるようになったのは、僕が小学校に上がってからだった。

 幼稚園の時、気付かれないように……気付かれるように、布団の中で泣いていた僕には、母の話は一切してくれなかったのに。

 普通は逆だと思う。小さな頃だから、母が恋しい。だから、話をいっぱい聞きたい。

 そう思うと、小学生の僕は思った。

 けれど、銀行の支店長くらいで胃潰瘍になってしまう父には、小さな僕に、そこまで気遣いが行かなかったのだろう。

 男手一つで子供を養わなければならない。

 養うと言っても、資金面だけではない。

 先に説明した通りの、子育てをしなけれはならないのだ。

 四十歳を過ぎてから、出来た子供……この場合僕だが、いくら可愛いと言っても、仕事をしながら男一人で子育てをするのは本当に大変だったに違いない。

 僕は、そんな父を尊敬している。

 だから、今は出来るだけ、父の役に立ちたいと、心底思っている。



「じゃあ、桜ヶ丘、渡井わたらいの隣へ座ってくれ」

 朝、教室に入って、僕の隣に昨日まではなかった机が用意されていたから、何かあるのだろうとは思っていた。

 それが、恐らく転校生が来るであろうことも、予想出来た。

 それでも、普通なら、転校生が来るとわかったら、少しはドキドキしたり、ワクワクしたりするものなのだろうけれど、僕はどうでも良かった。それが、例え女子だろうと。

 しかし、いくら、幼稚園の先生くらいしか女の人と接したことがないと言っても、僕はあまりにも女性に積極的ではなかった。

 それなのに、どうして先生は沙由美を僕の隣になんてしたんだろう?

 怒り……とまでは達しなくとも、多少、担任を恨んだ。

 僕は、友達がいない。いつだって一人で……一人ぼっちで過ごしてきた。

 もちろん、僕が望んで、したくて、そうしていたくて、そうしていたのだが。

 そして、担任はとんでもないことを言ってきた。

「じゃあ、渡井、隣の席の好だ。学校内の案内とか、頼んだぞ」

「え……?」

 断る暇もなく、予鈴が鳴った。

「よろしくお願いします」

 隣では、その気になった沙由美が少し微笑んでペコリと頭を下げた。

「あ……はぁ……はい……」

 きっと、僕は今、今までにないくらい、機嫌の悪い顔をしている。

 沙由美にはなんの非もないのに。

 一時間目の授業が終わると、早速、沙由美から質問が来た。

「あの……おトイレって何処ですか?」

(そりゃ、重要だ……)

 と、解釈した僕は、

「こっちです」

 と言って、一番近いトイレに連れて行った。その途中、

「本当はこういうの、女子に聞きたいよね?僕じゃなくて他の人に案内係変えてもらいましょうか?」

「良いんです。渡井君で、良いんです」

 と、思いのほか強い口調で沙由美は答え、何故か笑顔まで携えてトイレに入って行ってしまった。

「変わった子だな……」

 ボソッと呟くと、僕は教室に戻ろう……として、足を止めた。

 校内と言うのは、意外と入り組んでいるもので、一番近いトイレとは言っても、教室に戻れなかったら大変だ。

 ここは待つべきだろうか……。しかし、女子がトイレを待たれる……と言うのはそれはそれで、不快感を与えてしまうかも知れない。

 迷った末、僕は、男子トイレの壁際に立ち、手を少し湿らし、ハンカチを握って、そっと女子トイレの方を気にしながら、沙由美が出てくるのを待った。

 言わずもがな、自分も偶然トイレが終わったように見せかけることにしたのだ。

 安易で、何のひねりもないし、バレバレになってしまうかも知れないが、僕にはこれ以外自然に沙由美を教室へいざなう方法が思いつかなかった。

 そして、なんだかばつの悪い感じを抱きつつ待っていたところに、沙由美が女子トイレから出て来た。そこで、

「あ、桜ヶ丘さん。……も今?」

「あ、うん」

 聞き方は、百点満点中五点くらいだろうか?

 作戦も何もあったもんじゃない。自分のなけなしのアイデアを台無しにする聞き方をしてしまった。

「あ……ごめん……」

 つい、謝った。しかし、沙由美は、

「何が?ちょうど良く渡井君が出て来てくれて良かった。教室、まだ良くわからなかったから。ありがとう」

 この作戦がうまくいったのは、沙由美の優しさのおかげだろう。

「渡井君て、ハンカチちゃんと持つ人なんだね。そう言うの良いね」

 ハンカチを持ってて、これ程ハンカチの使う用途を、手を拭く以外にあるのだと言うことを、僕はこの時初めて知った。なんだか、嬉しくさえあった。

 この喜びがなんの喜びなのか、その時は深く考えなかったが……。


 教室に戻ると、僕たちは自然と同じリズムで席に着いた。

「あ……の、なんか困ったら言って」

「うん。ありがとう」

 沙由美は、最初の少し挙動不審な感じはもうしなかった。

 物腰柔らかく、ニコニコして、沙由美は僕に向かって話しかける。

 にわかに、僕の方が挙動不審だ。

 これは、大袈裟でも嘘でもない。

 僕は女子とまともに話すのは幼稚園の先生以来だ。

 と言っても、男子ともほとんど話すことはなかったが。

 母のいない人ほど、本来ならば、女性に積極的になるものなのだろうか?

 僕にはそれがわからなかった。僕にとって女子とは、未知の存在で、こんな高校生風情で決めることではないかも知れないが、結婚もしないんだろうな……と思っている。

 だけど、沙由美は、不思議と話しやすい。

 それは、何処か気を遣っているのに、こっちにはまるでそれを悟らせない……と言うか、悟らせてもそれを無しにする空気が沙由美にはあった。


 その僕に、クラスメイトが驚いた。

 今まで、僕は、『おはよう』すら碌に言ったことがなかった。

 小学校も、中学校も、そして今も……。僕はずっとそうして生きて来た。

『心を閉ざす』

 ……そんな言葉が相当だろうか?


 父には感謝している。

 今日まで、こうして生きてこられたのは、間違いなく父のおかげだ。

 だけど、甘え方がわからない。

 幼少期は、母のことを口に出さないように、ただ、それだけを気を付けて来た。

 それが、小学生になって、母の話を父がするようになった途端、聞きたかったはずの母の話をしてくれる、父に罪悪感を抱いた。

 寂しく見えたのかな?可哀そうに見えたのかな?やっぱり母親が恋しいと気付かれたのかな?

 って僕が思っていると思われたのかな?と。

 父はきっと自分を必要として欲しかったのだと僕は今、解釈している。


 小さいから、幼いから、それでも、自分一人で育てることを必死に実行している自分を、母親のいない代わりに、自分が何倍も努力しようと、思ったに違いない自分を。

 しかし、僕は父の愛情を真っすぐに受け止めることが出来なかった。


 何度も言うが、感謝はしている。

 それでも、父の僕を見る目が、どうしようもなく愛に満ちているとは、どうしても思えなかった。

 物心ついた時には、もう僕とは別の布団だった。

 父に抱かれて眠った覚えは一切ない。

 仕事で疲れているとか、家事と子育てで切羽詰まっていたとか、そう言い訳も出来なくはないが、僕は、一度でも良い。父に抱き締めてもらいたかった。

 そんな、普通の子供なら、難なく言いこなしてしまうであろう、『パパ、抱っこ』がどうしても言えなかった。


 そんな家庭環境だったから、学校でも、みんな父のように、自分からは『好いて欲しい』と、どうしても言えなかったし、そう思うことすら諦めていた。

 そんな時間を積み重ねたら、今の僕になってしまった。

 もしかして、そんな奴たくさんいるかも知れない。クラスで浮いてしまう奴。友達が出来ない奴。言いたいことを言えない奴。

 だけど、その多くが、父親も、母親も、兄弟だっている。そんな楽しそうな家庭を想像すると、どうしようもなく悲しくなった。



 だから、僕は秋が好きだ。

 僕の心の寂しさを映し出すような空気が、虚しい僕を、『おんなじだね』って言ってくれてる気がして。




 沙由美が転校して来て初日、僕は放課後、沙由美に聞いた。

「桜ヶ丘さん、何処か、校内で行っておきたい場所とか、知っておきたいところとかある?」

 教室がざわつかないように、ほんのささやかな声で。

 まぁ、今更僕が誰かと喋っていたって、今までの僕の印象が、みんなの中で一変するとも思えないが。

「え……と……」

(ん?)

 と思わせる間があった。顔は笑顔なのに、口が付いてこない……とでも言えば良いのか……。

「ちょっと、待ってね。今……考える」

「あ……考えてまで探さなくて良いよ」

「あ!違うの!」

 そう言うと、沙由美は最初の挙動不審が顔を出したように焦り出した。

『しまった』と、僕は思った。

 碌に人と接してこなかった自分が、人にペースを合わせることが出来るはずがなかったんだ。

「ごめん。ゆっくり考えて」

 沙由美はその言葉に安心したように、瞳を閉じて、口元だけ笑みを浮かべ、考え始めた。

「あ、保健室と、体育館と、図書室。全部が無理なら、今日はどれか一つで良いから」

「じゃあ、具合悪くなったら一番困るから、保健室、案内するよ」

 今日は父が定時で帰ると言っていた。

 晩御飯を作らなければならない。

 そういう訳で、沙由美の『どれか一つ』に甘えて、保健室だけ案内することにした。

 二階の、西と東にある階段で、僕らのクラスは九組だったから、東が一番近い階段だ。

 さっき案内したトイレも、東の反対側の連絡通路を右に曲がったところにあった。

「覚えてる?この連絡通路を右に曲がったらトイレ。で、この階段を一階まで下りて、こっち」

 と、口を挟みながら、保健室まで沙由美を連れて行った。

「ありがとう。渡井君。……出来れば、ここから玄関まで連れて行ってもらえると助かるんだけど、良いかな?」

「うん」

 そう言うと、僕はゆっくり歩きだした。

 沙由美は、そのテンポに少し速足でついて来ようとしたから、僕はもう少し、歩くテンポを遅くした。

「ありがと……」

 ボソっと呟く沙由美。


 僕は人に優しく出来る人間だったのか……と、初めて思った。だけど、どれもこれも、きっと、沙由美が作ってくれた優しさだったんだ。

 玄関に着くと、沙由美が、また、微かに笑って見せた。

 僕の心を見透かすみたいに、

「渡井君て、きっと、自分が思ってるより、優しい人なんだと思う」

「え?」

「だって、私の案内係、せんせに頼まれた時、嫌そうな顔してた。でも、こうして優しくしてくれる。だから、ありがとう」

 心の隅を読まれた気分だった。だけど、全然嫌じゃなくて、それどころか、不思議と、そっと乾いた心に沁み込む水のように、僕は女の人の優しさを初めて感じた気がした。



 柔らかい、暖かい、それでいて強い芯の通った沙由美の性格に、この時惹かれたことを、どうしてすぐ口に出して言わなかったのだろう?


 人は、永遠の命を持たない。永遠の青春を抱かない。一瞬の心の色を保てない。

 この時、沙由美に何か言えてたら……イヤ、言う勇気があっても、僕がこんなにひねくれていなくても、この瞬間に言えた言葉など存在しなかったのかも知れない。



 それでも、この時、未来を予知できる能力があったら、僕は、言葉では伝えきれない想いの代わりに、沙由美を抱き締めていたに違いない。





 沙由美が転校してきて一週間、僕はすっかり沙由美になつかれていた。

 と言っても、もともと授業中はもとより、休み時間も、いつも一人で過ごしていた僕にとって、初めて出来た友達だった。どっちがなつかれていたのか……。

 けれど、クラスメイトのみんなとは、今まで通り、何も話さなかった。

 沙由美もそれに近かった。

 転校生が物珍しいのは言うまでもない。

 だから、沙由美に話しかけてくるクラスメイトはたくさんいた。

 沙由美は笑顔でいる代わり、『うん』とか『ううん』とかの端的な返事しかしなかった。

 僕の独断と偏見だけれど、沙由美も、あまり人に深く心に土足でずかずか入ってこられるのが苦手なのかも知れない……と僕はそう思って、沙由美がこっちに話しかけてくる時以外は、話しかけることはなかった。


 ”冷たい”


 そう言われても仕方ない。

 けれど、沙由美はそれで良さそうだった。

 なんでって、沙由美は自分から、僕に色々話しかけてきたからだ。

 あんなに他のクラスメイトには短い会話しかしない沙由美が、僕にだけは、積極的に話しかけてくる。

「渡井君、何の教科が好き?」

「渡井君、食べ物は何が嫌い?」

「渡井君、好きな本はある?」

 等々……。

 僕は、普段、人にあれこれ聞かれるのは気分が良くないし、どちらかと言わなくても、そっとしておいて欲しい人間だ。

 けれど、何故だろう?沙由美に、ニコニコされながらされる質問攻めは、なんだか心地よくすらあった。


「渡井君」


 その名前が呼ばれるたび、僕は僕で良かった、と思った。




 しかし、一ヶ月が過ぎる頃、とうとうクラスメイトが僕を……僕らを放っておいてくれなくなった。

 沙由美と話しているところを見て、僕の人間嫌いが治ったろ思われたらしかった。

「なぁ、渡井!桜ヶ丘、お前にはよく話すのに、なんで俺らの時は『うん』とか『ううん』しか言わないんだよ?なんで?」

(知るかよ……。本人に聞け)

 僕は心の中で毒づいた。

「渡井も、桜ヶ丘が来るまで俺らとほとんど話さなかったのに、なんで桜ヶ丘とは話すの?」

 僕は今、きっと誰もがわかる、沙由美が言う”機嫌の悪い顔”をしながら、答えた。

「僕は桜ヶ丘の案内役だから。それだけ」

 視線を、質問をしてきた男子生徒から外して、そう答えた。

「じゃあ、俺、案内役代わって良い?お前、人と接するの嫌なんだろ?」

 僕は、生まれてこんなに焦ったことはない。

 ”人と接するのが嫌”、当たっている。沙由美と話をするのだって、案内役だから。それになんの反論も出来ない。でも‥‥‥、

(案内役を代わる?じゃあ、僕はまた一人じゃないか)

 不穏に湧き上がってくる孤独感。

 一人になるのが怖い訳では決してなかった。

 今までずっと一人だったんだ。

 沙由美のいなかった普通の生活に戻るだけのこと。

『たかが一ヶ月の関係だ。訳ないさ』

 そう言う左脳に反して、右脳だか、もしかして、”心”だかが、『無理』とたった二文字、ビームのように両目から放たれるように、脳全体を走った。

 沙由美を失くすのが怖かった。

『渡井君』

 そう呼ぶ沙由美の声が、十七年間ともに過ごしてきた父の声より、しっくり来ていた。

「やだよ」

 僕は耳を疑った。

 自分がそう言ってしまったのか、と。

「私、渡井君が良い」

≪え?≫

 僕と、僕に絡んできた男子生徒の声が重なった。

「私、渡井君が良い」

 声の正体は、沙由美だった。

「なんで?桜ヶ丘。こんな無愛想で、優しくもなくて、人馬鹿にしてるような態度取るような奴の何処が良いの?」

 そう言った男子生徒の、質問の仕方には、正直嫌な気分だったが、そいつが言う通り、確かに、沙由美が僕に固執する気持ちはわからなかった。

「渡井君は無愛想でも、冷たくも、人を馬鹿にするような人でもないから」

「え?でも、今、俺に対してもそう言う態度だったろ?」

「そんなことない。私、渡井君が良い」


 ムキになって、そいつに反論する沙由美に、僕は”ありがとう”と言いたかった。だから、冷静になれた。

「ごめん。僕が今までみんなに挨拶も碌にしなかったのに、無愛想とか、嫌な奴だとか、思わないでくれって方が無理あるよな。ごめん。でも、桜ヶ丘は僕がサポートするから。……させて欲しいから。頼む」

 僕の思わぬ謝罪に、そいつもそれ以上何も言えないと言った感じで、

「……わかった。なんか悪かった」

 そう言うと、僕らの席から離れて行った。

「ありがとう。桜ヶ丘。僕なんかをかばってくれて」

「ううん。かばってない。本当のこと言っただけ。私をこの一ヶ月間、支えてくれてありがとう」

 そう言って沙由美はにっこり笑った。

「……!」

 硬直した。動けなかった。その笑顔に返すお礼の言葉も思い浮かばなかった。その代わり、目の前がみるみる歪んでゆくのがわかった。

「ちょ……っごめん。トイレ……」

 僕はトイレにダッシュした。授業開始三分前。トイレにはもう誰もいない。

 ガタンっ!!

 個室のドアをこれでもか!と乱暴に閉めると、僕は自分でも信じられないくらい涙が出た。

 ただ、ひたすら声を殺して泣いた。

 自分でも理由のわからない涙だった。

 その時、耳元にうずくように聴こえたのは、沙由美の声だった。

 もしも、沙由美が僕をかばってくれた時、僕の下の名前で呼んでいたら、僕は、その場で涙を堪え切れずにいただろう。


 母を想った。


 僕は、沙由美に母の温もりを重ねていたのかも知れない。

 父の部屋に、そっと置かれた仏壇に飾られている、僕を抱きかかえた母の笑顔の写真。

 沙由美が初めて見せた笑顔に何処か似ていた。



 ずっと、誰とも深く接しないように生きてきた。


 本当は怖かったんだ。

 自分の弱い部分を見つけられるのが。

 幼稚園の時、父が僕にしたように、甘えることを覚えなければ、何でも耐えられる。

 そう思った。


『母さんが恋しい』


 なんて、幼稚園のうちに言っておかなければ、年を重ねれば重ねるほど言えなくなることを、父はわかっていて小学校に上がるまで、僕に母のことを話さなかったのだろうか?

 僕は、弱くいることを許されないと思っていた。

 母などいなくても、父が僕を必死で育ててくれたのだから。

 それなのに、聞きたかった。


『母さんはどんな人?』

『ごはんづくりは上手だった?』

『父さんとはどんな出会い方をしたの?』

 押し込めて、押し込めて、押し込めて……、僕は今日まで生きてきた。

 押し込めるたび、泣きそうになる僕を殺して。


 僕は、母を想うように、沙由美を想っていた。

 形は少し違うけれど。


 そうか……これが、”恋”なのかも知れない。

 そう思った。


 沙由美は、あの笑顔は特別だった。

 最近では、滅多に見られなくなった、下品でも、大袈裟でも、苦笑いでも、それでいて品があるとも違う、沙由美の笑顔は独別だったんだ。

 ホッとするような、心を読まれてしまいそうな……。


 どうして……どうして……。


 こうならないように、今までほとんど誰とも接することなく過ごしてきたんじゃないか。

 今更……沙由美に母の面影を見つけて、しかも、恋をしてしまうなんて……。



 もう授業は始まっている。教室に戻らなければ……。

 そう思うのに、涙は止まってくれる気配を見せなかった。


 それでも、何とか、誰もいなくなったトイレの個室で、トイレットペーパーで思いっきり鼻をかみ、トイレを出た。

 そして、廊下に進むと、僕は、富士急のお化け屋敷より驚いた。


 沙由美が立っていたのだ。


「渡井君、大丈夫?」

 また、心を読まれた。

「桜ヶ丘……」

「沙由美で良いよ。他の誰にも呼ばせないけど、渡井君……健哉君になら、沙由美って呼んで欲しいな」

『健哉君』


 もう、ダメだった。


 頬は震え、涙が……必死で押し込めた涙が……次から次へと零れ落ちた。

 僕は無意識に、それを止めようと思った。なんの見栄か、なんのプライドか、良くわからないけれど、泣いてはいけない、そう言い聞かせた。なのに……、


「泣いて良いんだよ。私のお母さんが言ってた。苦しい時や、悲しい時は泣いて良いんだよって」


 また、心のツボを押すように、沙由美が”泣け”と促す。

 僕は、自分より二十数センチも背の低い沙由美の肩に目を押し当てた。


「ごめん。すぐ……おさまる。だから……ちょっと……」

「うん……」


 数分……イヤ、数十秒かも知れない。沙由美の肩を借りるのをようやくやめ、僕は服の袖で涙を拭おうとした。こんな時に限ってハンカチを持っていない。すると、

「はい」

 そう言って、沙由美がハンカチを手渡してくれた。

「ありがとう……。……沙由美」

「うん。健哉君。行こう」


 髪の毛がボサボサで良かった。長い前髪で目元が見えない。本令から、四、五分遅れて教室に入った僕ら二人の”僕”を気に留める奴はいなかった。

『あぁ、桜ヶ丘に何かあったんだろう』

 くらいにしか先生もクラスメイトも思わなかったみたいだ。沙由美には救われてばかりだ。


 その直後の授業は、机に突っ伏して、赤くなった目を普通に戻す努力だけに集中した。



 思い返せば、こんな風に人前で泣いたことなどなかった。

 父に気付かせようと、布団の中で泣いて以来だ。


 そして、この時、聞きたくて仕方なくなった。

 僕の”母親”のことを。

 父が繰り返し、『お前は母さん似だ』と頭を撫でてくれたけれど、それ以外、父は母のことを話すことはなかった。

 そして、僕はどうしても自分が母に似ているとは思えなかったんだ。

 あの仏壇に飾られている、僕を抱きかかえた写真の中の母と。

 もちろん、『俺に似なくて良かったな』と言う父の言葉通り、僕は父にも似ていなかった。



 僕は、十七年間、押し殺していた疑問を、この日、父にぶつけることにした。





 その父の告白に、僕がどれだけ痛手を負うか、考えもせず。





 ガチャリ……。

 僕の家のドアが開く音がした。

「ただいま」

 いつも通りの穏やかな表情がそこにあった。

「お帰り。父さん」

 僕はどうだろう?ちゃんといつも通り『お帰り』を言えただろうか?

 少し通路を行き、ダイニングテーブルに到着すると、

「おぉ、今日もおいしそうな雑炊だな」

 と、喜ばしそうな顔で父は僕の頭をポンとした。

「……うん。まだ、胃に優しいものの方が良いと思って」

「ありがとうな。健哉。着替えてくる」

「うん……」


 ズズズと二人で雑炊を食べながら、僕は重い口を開いた。


「父さん……」

「ん?なんだ?」

「ん……イヤ……」

「なんだ。はは。お小遣いか?」

 冗談めいた父の言葉に、一瞬、聞くのをやめようかとも思った。

 ”実はそうなんだ。欲しいゲームが……”

 イヤ、僕はゲームをしない。

 ”実はそうなんだ。スマホを新しくしたくて……”

 イヤ、新しく買い替えるほど必要な友達もいない。


「どうした?健哉」

「あ……」

 言葉通り”どうした?”と言った顔で、父が僕の顔を覗き込んでいた。

 自分の中で数えていたのよりずいぶん間が出来てしまった。

「ん……ちょっと……聞きたいことが……あって……」

 僕の思わぬ緊張した面持ちに、父も何かを察したように、雑炊のレンゲを鍋のふちにそっと置いた。

「なんだ?」

 その顔は笑顔にも、苦痛にも見えた。

「僕の……僕の母さんて、どんな人だったの?」

「……」

 父は無言だった。

 僕も、すぐに返事をもらえるとは思っていなかった。

 きっと、僕に隠してきた何があったんだとは、幼心にもわかっていたつもりだから。

 けれど、その後に父の口から飛び出した言葉は僕が予想していた規模よりずっと大きな秘密だった。


「健哉、お前の母さんは、とても素敵な人だったよ。優しくて、明るくて、元気で、人の為に泣ける、そんな人だった」

 穏やかな父の口調。それに反比例するように、その奥のメガネに隠れて潤んでゆく瞳。さっきまで平気で雑炊をすすっていたとは思えないほど震える頬……。


「……だけどな、父さんと母さんは……」


 思わず息を呑んだ。その緊張は、心地の良いものではなかった。

 例えば、クリスマスプレゼントを開ける時とも、高校受験の発表を見る瞬間の時とも、父が職場で倒れたと連絡が入り、病院へ向かっている時とも違う、ワクワクでも、ドキドキでも、ハラハラでもない、言い知れぬものだった。


「父さんと、母さんは……、子供が出来ない夫婦だったんだ」

(子供が出来ないって……僕がいるじゃないか)

 僕は心の中で祈った。次に父の口から出てくる言葉が、僕の予想に反していることを。

「……健哉……、お前は、父さんと母さんの本当の子供じゃない。一歳の時、施設から授かった子供だったんだ」


 カシャン……。


 小さな音を立てて、僕の手からレンゲが雑炊の器のふちに当たって倒れた。

「今まで、隠していて悪かった。いつか言わなければ、と思ってはいたんだが……」

「……」

 無言の僕を置き去りにして、父は勝手に話を続けた。

「母さんが事故に遭ったのは、お前をもらってから二年が経った頃だった。母さんは、それは、それはお前を可愛がっていたんだ。それこそ本当の息子同然に……」


 僕は、そこまで聞いた後、もう、母のことはどうでも良くなっていた。

 じゃあ、父は、僕のことをどうして……。

「……父さん……じゃあ、どうして僕と離縁……しなかったの?」

 父は涙目になっていた。

 中間管理職で胃潰瘍になってしまうほど神経の細い父に、僕は重荷以外の何物でもなかったのに違いない。じゃあ……何故……。

「……迷ったんだ。本当はな……。だけど……、健哉、覚えてるか?母さんの葬式の時、お前、『お父さん……、お母さん死んじゃったの?』って、聞いたんだ。俺は何も言えなかったよ。お前にとって、もう母親は京子きょうこで、父親は俺なんだって。その時決意したんだ。この子は俺が育てていこうって……」

 メガネの奥で父は泣いていた。

 右手の親指と人差し指で目頭を押さえながら。

 そんなに、泣きながら話さなければならないほど、苦しい話をするくらいなら、何故、僕を捨てなかったんだ……。

 辛かったんだろ?苦しかったんだろ?


 ……要らなかったんだろ?


「幼稚園の時、母さんの話をしなかったのは、お前が覚えてるのが本当の母親なのか、それとも京子だったのか、わからなかったからなんだ。だから……」


 ガタンッ!!


 椅子と食べかけの雑炊の器がひっくり返った。


「……もう良いよ。僕は……望まれて生まれてきた訳でも、望まれて育てられた訳でもなかったんだね」

「健哉……」

『それは違う』

 そんな言葉は聞きたくない。父を、父さんを、胃潰瘍にしたのは中間管理職なんかじゃない。

 僕だったんだ。

 僕の存在が、父さんの邪魔だったんだ。


 僕は、自分の部屋に逃げ込むように、リビングを去った。



 僕の心の中は、ぐしゃぐしゃだった。

 自分が捨てられた子供だったこと……。

 母が生きていれば、もしかして父も幸せだったかも知れないこと……。


 そもそも、こんな話、聞かなければ良かったんだ……、と自分を責めた。


 沙由美の優しい笑顔が母さんと……写真の中の母親だと思ってた人に似てたから、つい、想い出を引き出したくなって、無我夢中で漁った結果がこれだ。


 僕は、初めて生まれてきたことを後悔した。




 コンコン……。

「健哉……」

 部屋に鍵などない。入ってこようとすれば、すぐに立ち入れる。なのに、父はご丁寧にもノックをして、僕に話しかける。

「健哉……、母さんは……お前が可愛くて仕方なかった。それは俺も同じだ。何故お前があの施設に預けられたのかはわからない。けれど、父さんは、”あれ”以来、一度でもお前を引き取らなければ良かった……。なんて思ったことはない」


 そう言った父を、僕は信じることが出来なかった。『何故あの施設に預けられたのかはわからない』それも、捨てられた訳ではない、と言う父なりの慰めのつもりなのだろうか?


 その日の夜、僕と父がそれ以上、会話を交わすことはなかった。




 次の日の朝、トーストとサラダとハムエッグを用意して、僕は家を出た。

 父と顔を合わせないように、いつもより二時間も早く起きて。

 授業が始まる二時間前から学校に来てる奴なんて、朝練のある部活連中だけだった。

 教室にいても落ち着かないので、僕は屋上へ来てみた。

 僕の身長で、後少し踵を振り上げれば、落ちてしまいそうに低い手すりにクスリと苦笑いした。

 今、僕が死んだら、神様は一体どちらの母親に僕を会わせるのだろう?

 生んだ方?もらった方?


 昨日、あれから、僕はそんなことばかり考えていた。

 十七……イヤ、十六年間、育ててくれた父に、感謝しかなかった昨日までの僕とは明らかに何処か違う。けれど、そんなこと、見抜く奴など、どうせいないのだろう。


 秋の風が少し冷たくなってきて、冬が近いことを何となく感じた。冷たい風が髪を揺らし、頬を赤くした。

「くしゅんっ!」

 小さなくしゃみを一つした。そろそろ誰か教室にくる頃合いだ。

 僕は喉の真ん中に何か詰まったまんま、教室に戻った。


 教室に入ると、部活が終わった連中の中に、沙由美がいた。

 沙由美にはなんの罪もない。なのに、僕は沙由美に会わせる顔がない気がして、後ずさりしてトイレへ向かった。

 出てくると、二度目の富士急級のお化けに驚かされた。



「おはよう。健哉君」



 沙由美だった。

「あ、おはよう。沙由美」

「今日から期末テストだね。嫌だなぁ」

「あ、そうか……」

 僕は、ここのところの沙由美のこととか、母のこととか、父の重い告白に、テストのことなどすっかり忘れていた。

「?健也君、テスト、忘れてたの?」

「あ、イヤ、そんなことないよ。教室行こう」

「え?行くの?」

 その言葉に、僕の頭がカランと鳴った。

 だって、トイレから出て来て、今日からテストと言う話になれば、教室に戻って少しでもテキストや教科書を読みたいと言うのが自然な流れだ。

 そこに何故沙由美は疑問を抱いたのだろうか?

「え?行かないの?」

 僕は思わず聞き返した。

「だって、さっき、教室入りたくない……みたいな雰囲気だったから」

 沙由美の観察眼をなめていた。

 クラスメイトの誰にも、沙由美にも気付かれず、教室を出たつもりだったから。

 そして、誰より沙由美に一番気付かれたくなかったのに……。


「何かあった?健哉君」


 ほら。やっぱり……。沙由美は何も考えていなかったとしても、何かを感じるんだ。

『沙由美の笑顔を見て、母のことを聞きたくなって、聞いたら、本当の親子じゃなかった』

 なんて言えるはずもなく、


「何でもないよ。テスト始まる。行こう」

 その言葉に、まだ疑問を解決出来ていない……と言った表情で、僕の言葉に無言で沙由美は付いてきた。


 入ってすぐ、席は出席番号順にされ、テストが始まった。

 僕は難しくも簡単でもない問題を、空白を交えペンを進めた。

 ふと、沙由美の席に目をやると、沙由美はペンを動かしてはいたが、なんだか様子がおかしい。

 沙由美が書いているのは、テストの裏側だ。隣の席のクラスメイトは、テストにいっぱいいっぱいで、気が付いていない様子だったが、これは何かある。僕はそう思った。


 今日の分、三科目全部、自分のテストがある程度埋まると、沙由美に視線を移した。

 沙由美は、どのテストも一生懸命何か書いてはいるが、全部裏側だ。どういうことか、僕にはさっぱりわからなかった。



 人には聞かれたくないことがある。僕にとって母のことのように。

 だから、沙由美に何をどう聞けば良いか、良くわからず、、ホームルーム、席が元通りになってから、そっと沙由美に小声で言った。

「沙由美、後で聞きたいことがあるんだけど、聞いて良いかな?」

「……うん。良いよ」

 と、沙由美はにこっと微笑んだが、何かを察したようだった。


 ホームルームが終わり、毎度のごとく、今まで人にあまり……全く接してこなかった僕は、なかなか『一緒に帰ろう』と言い出せずにいた。そんな僕の様子を見ていのか、沙由美の方から、誘ってくれた。

「健哉君、帰ろう」

「あ……うん」

 慌てて教科書やノートを鞄に詰めた。

 帰り道、テスト勉強も兼ねると言えば、自然かな?と思い、学校近くのスタバに沙由美と入った。



「ごめん、健也君、私、スタバって初めて来たの。どうやって注文するの?」

「あ、僕、おごるから」

「え……ごめんね」

 少し転校初日に見た挙動不審な瞳に、僕は何処か不安を覚えた。

 しばらく、コーヒーを飲みながら、何からとっかかって良いかわからず、ひたすらコーヒーを口に運ぶ僕。そんな僕に、

「何から話そっか?」

 沙由美はそう言って、僕に沙由美の秘密を聞くチャンスをくれた。

 僕は、そっと口からコーヒーカップを遠ざけ、

「……今日、テスト……何書いてたの?」

「え?」

「僕、一番後ろの席だから、みんなの背中が見えるんだ。で、沙由美……ずっとテストの裏側に何か書いてたろ?何書いてたの?」

「私、頭良いから、すぐ全問解けちゃって、裏に落書きしてたの」

「へ?」

「何?なんか変?」

「あ……イヤ。そっか……そうだったんだ……」

 僕は何処か安心した。

 何の安心なのか、自分でも良くわからなかったが……。


 しかし、沙由美にはやはり、秘密があったのだ。




「……なーんて……」

 その言葉を、僕は何処かで恐れていた。

「……」

 数秒の沈黙の後、沙由美の口から飛び出した言葉は、父からの告白にも劣るにも勝らない驚くべきものだった。

「……私ね、知的障害があるの」

「え?」

 本当に、本当に、思いもよらぬ告白だった。

「え……でも、うちの高校……」

「うん。そう。私が無茶言って、特別に転校させてもらったの」

「どういうこと?」

「私は……私がバカってわかるバカ。自分がバカだってわかるバカほど悲しいバカはいないと思わない?」

 沙由美は笑って言う。

 ”そんな悲しいこと言わないで”

 すぐに、それが言えなかった。

「私ね、ずっと養護学校に通ってた。みんな、私よりバカで、自分が知的障害ってわかってなかった。みんな同情やきょうみほんい?って言う目で見られて……それすら気付かなくて……」

(これ以上聞きたくない……)

 僕はそう思った。それが沙由美の嫌がった同情なのだろう。だから、言えなかった。

「私は普通よ!ってずっと思ってた。でもね。やっぱり違うの。一人で外出できない。ちゃんと地図を描いてもらってもどうしても迷うの」

「沙由美‥…」

 僕はその話を止めようとした。

「おんなじ駅員さんに何度も聞いて、ため息つかれて、しまいには怒られて……字もうまくないし、絵も碌に描けない。それどころか、私の周りには、いつもよだれ垂らしたままの友達もいたよ」

「沙由美!」

「……」

 僕が声を荒げると、沙由美はとても悲しい顔をした。

「やっぱり、どうじょうする?私、普通じゃない?」

 そのあまりの悲し気な顔に、僕は沙由美を制止したことを一瞬で後悔した。



「……僕だって、普通じゃない。僕だって……普通じゃないんだ」

「え?」

 僕は思わず昨日父に聞いたことを話そうとした。

「……やっぱり」

「え?」

 今度、クエスチョンマークを付けたのは僕の方だった。

「健哉君、私がどうしてあの高校に転校したいと思ったと思う?」

「え?」

 また。『え?』だけが繰り返された。

「転校する一年前、この近くの図書館で私の……知的障害の友達が本ばらまいちゃってね。そしたら、健也君が真顔で拾い集めてくれたの。同情でも、きょうみほんいでもなかった。それはバカだってわかってるバカな私でもわかったの」

 僕には記憶がなかった。その図書館何処なのか、それは想像がついたけれど。

「恋をしちゃったの。私。渡井 謙哉君、あなたに」

「!」

 僕はあまりの突然の告白に、驚きをまた隠せなかった。

「健哉君は、何処か、傷がある。心に大きな傷が。違う?あの時の健哉君は同場もきょうみほんいもなかったけど、感情もなかった。どっかに置いてきちゃったんだ、って思った」

 あまりに的確な表現に、言い訳のしようがなかった。

「すごく私の方が興味持っちゃって、『一年だけで良い。健哉君の高校に通わせて』って色んな人に頼んで、許してもらえたの。お父さんやお母さん、先生たちにいっぱい迷惑かけちゃったけど」

 次々と放たれる告白に、僕は言葉を出す口の存在を忘れた。その次に放たれた言葉は、僕の耳に誘い込まれた言葉の中で、一番悲しかった。

「でも、ダメだね。私、……バカなんだって、思い知らされた。この高校に来るまでは、私は少しはましなバカだって思ってたのに、うまく笑えなくて、みんなの質問も良くわからなくて、喋れなくて、嘘つくのも下手くそで……、受けてみたかった授業はチンプンカンプン……。私、やっぱりバカなんだね……」

「……沙由美……」

 僕は、なんて言って沙由美を慰めてあげれば良いのか、全くわからなかった。沙由美は、僕が普通に教室にいる間中、ずっと僕の隣でそんなことを想いながらいたのだろうか?

 ”バカ”と言う言葉を、何度も何度も繰り返す沙由美に、綺麗ごとはきっと通用しない。それは、沙由美が、きっと、一番聞きたくない慰めなのだろうから。



 けれど、そんな我儘を許してくれるご両親と先生方は、沙由美を愛しているに違いない。だから、沙由美はこんなにも、真っ直ぐに自分をさらけ出せるのだろう。


「沙由美……沙由美はきっと、愛されてる……と思う」

 僕の口が勝手に動き出した。

「僕の母は、僕が三歳の時交通事故で死んだ。それから、十三年間、父が僕を男手一つでそだえってくれた。……でも、僕は生まれてきちゃいけなかったんだ」

 自分でも、自分の声が震えているのがわかった。

 沙由美は何も言わず、暖かいコーヒーのカップに手を当てていた。下を向いた僕の視界にはその光景しか目に入ってこなかった。沙由美はどんな顔をして聞いているのだろう?

「僕は望まれて生まれて来たんじゃない。生まれてすぐ施設に預ける……って言えば綺麗だけど、捨てられたんだ。そして、今の父さんたちに引き取られた。でも、母さんは、僕を引き取って二年で死んだ。それで、父さんは僕と離縁……施設に返そうかどうしようか迷ったんだ。でも、僕を引き取る決心をした。……でも、それは間違いだった」

 そこまで、口を挟まず聞いていた沙由美が、

「どうして?」

 そう聞いてきた。

「昨日……父さんに、その話初めて聞いたんだ。そしたら、父さんは泣きながら僕を引き取ったことを話したよ。泣きながらじゃないと話せないほど、僕を引き取ったことを後悔してるのに……僕は、父さんの邪魔以外の何物でもなかったのに……」

 気付くと僕は、トイレを出た時のように、沙由美の前で涙を見せていた。



 ”自分はバカだ”と言う沙由美と、”自分は邪魔だ”と言う僕ら二人は、どうして出会ったのか……。

 どうして二人はこんな風に惹かれあったのか……。



「私はバカだから、難しいことはわからない。でも、お父さんやお母さんの重荷ってものになってるんじゃないかってずっと思ってた。普通の子なら、それだけで恩返し出来るのにって。お嫁さんになったり、お仕事したり……。でも、健也君に会いに行くことくらいしか、自分の意志を表せなかった。ずっと、自分のことをバカだって思って……わかってたから」



 僕は悲しくなった。沙由美は自分をバカだと言うことで、すべてを諦めて来たのではないかと。沙由美が頭の知的障害なら、僕は心が知的障害だ。人のことがわからない。自分の気持ちがわからない。人の痛みがわからない。

 沙由美が言った。

『感情がなかった。どっかに置いてきちゃったんだ』

 その通りだ。父の告白がなくても、僕は何処かで父に甘えることを出来なかった。自分の感情は二の次。母のいない僕の人生を必死で埋めようとしてくれている父をがっかりさせないように、寂しいも、悲しいも、苦しいも、辛いも、怖いも、……『愛して』も言えなかった。

 幼稚園時代、もっと甘えることを知っていたら、甘え方を覚えてはいれば、何か変わったかも知れない。



 昨日の僕の態度で、父は僕を嫌ったに違いない。部屋の外で、

『お前を引き取ったことを、後悔したことは一度もない』

 その言葉に、僕は何を言えば良かったんだろう?僕を嫌いな父に、一体何を……。

 僕の感情は、もうこのまんま、死んだままかも知れない。


 そんなことを考えていると、


「私ね、秋が好きなの」

 と、突然なんの脈絡もなしに、沙由美が話し始めた。

「私、誕生日が十月二十八日でね、単純だけど、生まれたこの季節が一番好き」

「……僕も秋が一番好きだよ。この赤紫の空が、僕の心を映し出してるみたいで」

「?」

『ん?』

 と言う表情で沙由美が僕を見た。

「今にも……消えてなくなりそうじゃん?僕も消えたい……そんなこと、何度も思った。沙由美の言う通り、僕は感情をどっかに置いてきちゃったんだね」

「頭の足りない私と、心の足りない健哉君……一緒にいたら、何か埋まるかな?」

 意味深な沙由美の言葉に、僕は、きっと、頓珍漢な顔をしている。その後に沙由美の口から零れる言葉……。




「健哉君、”かけおち”しない?」



 僕は、その言葉を何処かで期待していたのかも知れなかった。






 次の日、テスト二日目。

 後ろから見ていると、沙由美はまた、テストの裏側に落書きをしている。クスクス笑いを堪えながら、その後ろ姿を、僕は見ていた。



『かけおちしない?』

 その言葉に、僕は二つ返事で、

「うん!沙由美なら僕は心を作ってもらえる気がする。一生消えない心を」

 そんなクサイ台詞を言うつもりはなかったけれど、自然と、それを願っていた。

「僕が沙由美の地図になるよ。辞書になるよ。迷わないように、ずっと手を繋ぐよ。駅員さんに怒られないように、東京駅も案内するよ。言葉に詰まったら、沙由美の心の中を言葉にする手伝いをするよ。だから、一緒に行こう」

 まるで、プロポーズだ。


 高校二年生が何言ってんだ、そう多くの人は思うだろう。でも、僕は本気だった。

 僕は、沙由美に父のことを話して、冷静になれた。

 父を後悔から解放してあげたかった。これからの未来を自由にしてあげたかった。もう、嘘をつかないで良いようにしてあげたかった。

 沙由美と一緒に行くと言うことは、父の為でもあったのだ。



 高校に入って、僕はバイトをしていた。服も髪も鞄も靴も、ファッションと呼ばれるものに、僕は全然頓着がなかった。だから、お金は溜まり放題だった。もちろんある程度家に入れてはいたが、父はそれをあまり喜ばなかった。今となれば、ありがたい話だ。

 しばらくビジネスホテルに泊まって、職を探して、そしてアパートを借りて、沙由美を二人で生きていく。僕の頭の中は今までにないほどバラ色だった。バラは秋に咲かないことを忘れて……。


 だからか、あの時、沙由美の笑顔が、にっこり微笑んだ笑顔が、今までと違う……。それだけが気がかりで、そして、少し、怖かった。



 かけおちは、三年生のニ学期の終わり。秋の終わり。それまで、後、約一年。


 僕はその間、勉強なんてほとんどそっちのけで、、バイトにいそしんだ。かけおちの為の資金調達だ。


 父とは、あれ以来、顔を合わせることはほとんどなかった。僕が一方的に避けていただけだが。

 父は悲しいだろうか?それとも、目の上のたん瘤が取れて、少し自由を楽しんでいるのだろうか?僕は、父の食事と掃除と洗濯の役目は果たしていた。それと、僕の分の生活費は別に取っておき、かけおちした後、父の銀行に振り込むつもりだった。


 そんな夢に向かって、僕は一年を走り続けた。沙由美はもろもろの事情がある為、席替えをしても、ずっと僕の隣だった。それも、僕の力になった。

 そんなこんなしていると、何故か、クラスメイトが話しかけてくることが多くなった。三年生になって、クラス替えがあったのと、バイトで接客業も始めたせいか、少し愛想良くなったせいもあるかも知れない。沙由美は相変わらずクラスメイトにはドギマギしていたが、僕にはずっと笑顔でいてくれた。お昼は二人で屋上で大きな笑い声をあげて食べた。お弁当は僕が作って持ってきた。沙由美は、毎日「おいしい」「おいしい」と言って、食べてくれた。


 バイトと学校で、日々はせわしなく、足早に過ぎて行った。あんなに嫌がっていたこの東京の生き方に、何故だか僕ははまってしまっていた。


 それに、気付くこともなく。


 そんなある日、沙由美が予想もしていなかったことを言ってきた。

「ねぇ、健也君、私、健也君のお母さんに挨拶したい」

「へ?挨拶……って?」

「かけおちする前に、ちゃんと挨拶したい。ダメ?」

 沙由美の突然の発言に、少し僕が戸惑った。でも、沙由美の言うことも何となくわかるような気がした。だから、その日の学校帰りに、僕は自宅に沙由美を招待した。


 扉を開けると、僕は沙由美を招き入れた。

「入って」

「ありがとう。すごい……綺麗にしてるんだね」

 男二人暮らしだから、散らかっているイメージがあったのだろうか、沙由美は整然とした部屋に驚いたようだった。

「うん。まぁ」

「お母さんに会わせて。健哉君」

「うん。こっち。父さんの部屋だから、あんまり長くはいてもらえないけど、それで良ければ……」

「大丈夫。お顔が見たいだけ」

 父さんの部屋に入ると、きちんと片付けられた部屋に、沙由美は二度、驚いたらしい。そして、母さんの写真を見ると、

「健哉君……笑ってる。お母さんも……」

「どんな気持ちで笑ってたんだろうな……。母さん……」

 何の気なしにボソッと呟いた。

「健哉君が可愛かったんだよ」

「……」

 沙由美はいつもこうだ。どうして僕の泣くツボをなんで知っているんだ。

 十分くらい沙由美は母さんの写真を眺めていた。静かに、何処か優しい瞳をして、微笑むように。

 すると、


 ガチャリ……。


 玄関の扉が開く音がした。

(やばい……)

 僕は咄嗟にそう思った。

「おぉ。健哉」

「あ、お帰り」

 父さんが帰ってきてしまった。いつももっと遅いから、油断していた。

「お友達か?」

「お邪魔してます。桜ヶ丘 沙由美です」

「そうですか。健哉がお友達を連れて来たのは初めてなんですよ。お嬢さん、仲良くしてくれてるんですね。ありがとう。ゆっくりしていってください」

「沙由美、父さん、着替えられないから、リビングに行こう。ごめん、父さん」

 そう言い、出て行こうとして父さんとすれ違う時、父さんは……気のせいかも知れないけれど、涙目になっている気がした。


「健哉君、私、帰るね」

「あ、じゃあ、駅まで送る」

「うん。ありがとう。ごめんね、健也君。お邪魔したうえ、送ってもらわなくちゃいけなくて……」

「なんてことないよ。行こう」

 玄関で靴を履いていると、父さんがやって来た。

「桜ヶ丘さんと言ったかな?また、来てくださいね」

「ありがとうございます」

 そう沙由美が言うと同時に、僕は父さんから視線を逸らした。そして、沙由美より先に玄関を出た。

 三十秒くらい遅れて沙由美が出て来た。靴を履くには長かったが、特に気にしていなかった。

「沙由美、ごめん。父さんがこんなに早く帰って来るとは思って無くて……」

「なんで謝るの?一緒に暮らしてるんだもん。当たり前じゃない」

「……ん……まぁ」

 駅に着くまでの間、沙由美は冷たくなった秋の風に、服の袖を伸ばして、手をさすった。ここで沙由美の手を握てれいたら良かったのに……。恋人のように……。

 駅に着くと、僕は名残惜しかった。だけど、かけおちすれば、毎日一緒だ。もう少し。後少し。早く、時間が過ぎれば良いのに……。そんな想いで僕はいっぱいだった。



 沙由美は何故突然僕の母さんに会いたい、などと思ったのだろうか?

 そして、玄関でのあの三十秒、何をしていたのだろうか?



 それは、あの日、わかる日が来る。




 高三の一学期の期末テストで、沙由美はまたテストの裏側に落書きをしている。僕しか知らない沙由美の秘密。それを共有しているだけで、かけおちのムードが盛り上がった。でも、なんだか、今回のテストは、繊細な動きをしているように思えた。

 シャーぺンを、スッ、スッ、と何度も同じ線を描くように、繊細に。僕は、それを見て何故か胸騒ぎがした。





 そして、十月二十八日。

 かけおち、決行の日だ。

 沙由美が転校して来て、ちょうど一年。バイトは、一週間前に全部辞めた。父さんに気付かれないように、荷物もまとめた。僕が父さんを避けているせいで、父さんは手紙を書くことが習慣になっていた。決行の日の手紙には、『今夜は遅くなるから、先に寝てて良いからな』と書かれていた。なんて手紙なくても、いつも先に寝ていたが……。

 でも、かけおちにはぴったりの夜だ。


 待ち合わせ場所は、沙由美が迷わないように、学校の校門の前にした。沙由美もそれを喜んだ。

 待ち合わせは、夜九時。今は八時四十分。少し早く来過ぎたか。

 ヒュー……と秋と冬が混ざったような冷たい風が吹いた。僕は、唯、はやる気持ちを抑えるのにいっぱいいっぱいだった。


 ……安物の腕時計の針が、夜九時を回った。

 しかし、沙由美が来る様子はない。

 九時五分……、九時半……、十時……、十一時……、十二時……。




 冷え切った秋の最後の風が、僕の全身を冷やした。

 指先。鼻の頭。額。頬。唇……。

 スンスンと秋の風の匂いを嗅ぎながら、僕は思った。

(やっぱり……沙由美は来ないんだな……)

 何故か、そう思ったんんだ。思ってしまったんだ。


 気が付くと、僕はまた泣いていた。

 こんなに自分が泣き虫だったなんて思いもしなかった。沙由美に出会って、僕はすっかり人間なった。

 感情が生まれたんだ。

 沙由美が作ってくれた『心』だ。

 結局。深夜三時まで待っても沙由美は現れなかった。僕は気付いた。沙由美はかけおちなどするつもりはなかったのだと。



 けれど、信じられた。

 高二の時、他の男子が『沙由美の案内役をしたい』と言い出した時、『渡井君が良い』と怖い顔でその男子に歯向かったことも、トイレで『苦しい時や悲しい時は泣いて良いんだよ』と肩を貸してくれたことも、僕に恋をした……と言うことも。


 全部。


 それでも、一緒に行きたかった。




 沙由美は来ない、そう確信した僕は、やるせない想いで、家に帰った。すると、

「健哉!良かった!今、警察に行こうとしてたんだ!」

 と、家に着くなり父さんが大声で出迎えて来た。

「え……なんで……」

 父さんは僕のことを邪魔に思ってる。それに、今日は遅くなると言っていたし、寝室を覗かない限り、

 僕が部屋にいないことを知るすべはない。

「お前が父さんを不快に思っても、父さんにとってお前は大事な、大事な息子なんだ。毎晩、お前が作ってくれた飯を食べた後、こっそり部屋を覗いてたんだ。見つかったらもっと疎ましく思われるのを覚悟でな。その姿が今夜は見えないし、コンビニしては遅すぎるし、すごく心配したんだぞ!」

 猛烈に言葉を捲し立てると同時に、父さんは僕を抱き締めた。


 急に、自分がこの一年近く、父さんに取ってきた態度が、とても酷いことに思えてならなくなった。

「ごめん。父さん」

 それだけ言うと、僕は部屋に飛び込んで、ベッドで泣いて泣いて泣いた。

 誰よりも好きだと言う感情を教えてくれた沙由美を想って。

 そして、初めて感じた、父の腕の温もりに包まれて。その温もりは、一度も触れることの出来なかった沙由美の温もりをも埋める程、温かいものだった。


 きっと明日、学校に行っても、もう沙由美はいないだろう。もう二度と会えないのだろう。

 そう思うと、悲しくて、苦しくて、切なくて仕方なかった。




 初めての恋は、さよならもなしに、そっと秋の風に消えて行った。




 次の日、学校に行く気力を何とか絞り出して、下駄箱を開けた。

 すると、バサバサと何枚もの紙がなだれ落ちて来た。それを拾い上げると、僕は目を疑った。そこには、繊細なシャーペンで母と今の僕が並んで微笑む絵が描かれていた。もう一枚拾い上げると、今度は、父と僕が顔を寄せ合い少し照れくさそうに笑っていた。

 残りは、僕を様々な角度から描いた絵だった。


「なんだよ……沙由美……、君はとても嘘つきだな……」

 その絵は、とてもうまかった。『絵もうまくない』っぽいことを沙由美は言っていたが、その絵は見ているだけで、描き手の想いが伝わってきそうなほど、素晴らしいものだった。

 本当は、母も父も僕を愛していてくれていた。心から、愛してくれていた。その愛で出来上がった僕がいる、と物語っていた。

 そして、すっかり泣き虫になった僕は、泣きながら、紙の束を集めてると、ポトリ……と封筒が落ちた。



『けんやくんへ

 けんやくん、かけおちできなくてごめんなさい。けんやくんとのやくそくをうそにしてごめんなさい。でも、わたしはほんとうにとしょかんでけんやくんにこいをして、このがっこうにてんこうさせてもらいました。』

 ”恋をした”その言葉に、嘘はない。それは僕にもわかった。じゃなきゃ、こんな無茶苦茶な転校、許されるはずもない。そして、その手紙を読んでいくほど、僕は沙由美にもう一度会いたい……、そう思った。


『けんやくん、けんやくんはおかあさんにもおとうさんにもあいされてるよ。わたしにはわかる。あのひ、けんやくんのいえにいったあのひ、すこしだけけんやくんのおとうさんとおはなしをしました。”けんやはいいこだから、なかよくしてやってください”けんやくんのおとうさんはそういいました。けんやくんがぶきようみたいに、けんやくんのおとうさんも、ぶきようなんだとおもう。

 けんやくんにこいをして、さいしょにおもったのは、こころをあげたい。でした。けんやくんのからっぽのこころに、なにか。それがたとえ”かなしい”だとしても。わたし、こころをあげられたかな?』


「くれたよ……。沙由美。僕は本当に空っぽだったんだ。毎日、つまらなかった。ただただ、過ぎていくだけの日々に、嫌気が差してた。でも、沙由美が現れて、本当に心が出来たんだ」


『わたしはバカだけど、ほんとうに、ほんとうにけんやくんがすきでした。わたしがすきになったけんやくんなら、きっとおかあさんおこともおとうさんのこともすきになれるひとだとおもいます。そして、ともだちもちゃんとできるよ。

 つよく、やさしく、けんやくんらしくいきてください。

 だいすきだよ。またね。

 さくらがおか さゆみ』


「”またね”……なんて……ないくせに……」

 ズズッと鼻をすすって、まだ誰もいない下駄箱で、崩れるように体を丸くして、僕は泣いた。




 かけおちごっこの為、アルバイトばかりして、勉強を全くしていなかった僕は、もちろん、大学受験は見事に惨敗だった。

 かけおち資金で、僕は予備校に通った。そして、一年後、希望の大学に進学した。

 父さんとは、あれ以来、良く笑って、一緒に朝ごはんと、出来るだけ、晩御飯も食べた。嘘のような僕の代わり映えに、最初、父さんは驚いていた。

 でも、僕が沙由美のことを話すと、父さんは泣いて沙由美に感謝している、と言った。それは僕も一緒だ。


 大学に進学すると、僕はたくさん友達が出来た。『友達もたくさん出来るよ』と言う沙由美の言った通り。

 笑い方も、甘え方も、愛し方も、僕は覚えることが出来るようになった。





 でも、沙由美、君はどんな想いでかけおちを嘘にしたのだろう?


 少しは悲しかった?ほんの少しでも泣いた?


 もう二度と会えないと、知っていて……。


 その顔を想像すると、涙が込み上げてくる。



 秋の冷たい風が吹くたびに……。

読んでいただき、ありがとうございます。

何か思われた事や、感じた事がありましたら、コメントいただけると嬉しいです。

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