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涙が流れた理由は俺でもわからない。
すごく懐かしくて、嬉しさと寂しさが混じった感情が胸をしめた。
「これは間違いなく母さんが書いたものだ」
これを読んである程度はラビリスたちが俺のところへ来た理由はわかったが、それ以上に謎が増えた。
母さんがこの手紙を書いたのは俺が生まれる前なのだ。
そうであることが冒頭に書いてあった。
「そんなに難しい顔しなくても、天太君が姫様とキスをしてくれたら私たちはすぐに帰るよ。勝手に押しかけてきて申し訳ないけど、お願いできないかな?」
紗矢さんはほんの一瞬の粘膜接触で事は済むんだと言う。
…………ん?
「粘膜接触っていうならさ、間接キスでもいいの? 俺が使ったコップをラビリスが使うとか」
「そんな簡単な方法でいいならそうしておるわ」
なるほどダメなのか。
「お互いの気持ちが昂った状態でなければ検査魔法に反応しない」
セリカさんの説明にラビリスが赤くなる。
いやちょっと待ってくれ!
「それってつまり、ラビリスに興奮しながらキスしなきゃならんってことかよ!?」
「そういうことになるな」
「こんな子供相手に興奮するわけねーだろ!」
「なんじゃとコラー!」
飛び掛かろうとしたラビリスの後ろ襟を紗矢さんがヒョイッと掴んで止めた。
それでもラビリスは腕をブンブン回している。
「おぬし! わらわに魅力がないともうすのか!?」
「……可愛いとは思うけど……すまん」
むしろ十歳の子供がなんでそんなに自身満々なんだよ。
「泣いてしまうから謝るな! セリカ! こやつわらわに魅力がないと言うたぞ!」
「ご安心ください姫様。天太はおそらく男としての機能が働いてないのです。姫様は困るほど魅力に溢れておいでです」
「ただ単に天太君のタイプじゃないんじゃないですか?」
「紗矢は黙ってろ!」
とは言うものの、セリカさんもあまり乗り気じゃない様子。きっと彼女もこんな方法はとりたくないのだろう。
ラビリスはまだ息を荒げながら睨んでるよ。
「あの!」
羽沙が突然声を上げた。
「悪いんだけど……他の人、あたってくれない?」
「理由は」
セリカさんが羽沙を見据える。
「天太を巻き込んでほしくないから。大変なのかもしれないけど、でもそれって天太に関係ないことでしょ?」
「どういう関係にあるか知らないが、それをお前が言う資格はあるのか?」
……怖ぇ。
セリカさんの声色が低くなり、断ろうとしてる羽沙を威嚇してる。
「資格ってなにそれ!? あたしは変に巻き込んでほしくなくて天太を心配してるのに、資格とか関係ないでしょ!?」
「ある。我らは今後の人生を懸けてこの場にいる。それを天太とどういう関係かも知らぬ者に拒まれては、こちらとしても納得はできない。お前は天太とはどういう関係だ? 返答次第ではこの場から立ち去ってもらおう」
「あたしは……あたしはっ!」
セリカさんに続いて、なぜか俺を睨む羽沙。
「あたしはっ! ちょっと前までここでこいつと一緒に暮らしてたのよ!」
セリカさんの言い方が気に入らなかったようで、もはや喧嘩口調で羽沙は立ち上がった。
■ ■ ■ ■ ■
「あー! ムカツク!」
ボコッ!
「ああァー! ム・カ・ツ・クぅううう!」
ボコッ! ボコッ! ボコッ!
羽沙のストレス解消の為に潰されていく段ボール。
段ボール潰しは俺の仕事なのだが、代わりにこいつにやってもらうことにしよう。
俺たちは羽沙の自宅兼親父さんが経営している『酒屋・神城店』でバイトをしていた。
「そんなにイライラすんなよ!」
「だってあの言い方よ!?」
「向こうも引くに引けないんだろ?」
「そうかもしれないけどさ! あんたも帰るまで家に居ていいとか言うし信じらんない!」
あの三人を置いて俺たちはバイトに来ていた。
「行く当てがないってんだからしょうがないだろ。それに、母さんが昔ラビリスの母親に世話になったみたいだし」
「……おばさんの手紙、なんて書いてあったの?」
「読むか?」
「読んでいいなら」
持ってきた手紙を羽沙に手渡す。
母さんの手紙にはこう書いてあった。
―私の大切な赤ちゃんへ
元気にしていますか?
あなたがこの手紙を読む頃には大きくなってるだろうけど、これを書いてる今は、まだお母さんのお腹の中なんだよ?
お母さんね、とっても不思議な体験をしちゃって、危ないところをある人に助けてもらいました。
何があったのかは書けないんだけど、もしその人がいなかったら、お母さんもあなたも死んじゃってた。だから命の恩人ね。
その人とお母さんは約束をしました。
その人の子供が(女の人なんだけど)もしあなたのところへ来たら、面倒を見てあげてほしいってこと。
私が生きてればこの手紙は渡されないはずだから、この手紙を読んでるということはお母さんはもういないと思います。
もちろんお父さんと一緒におもてなしをしてほしいけど、あなたよりも年下の子が来るから仲良く遊んでほしいな。
面倒を見てというのは、街を案内したり、色んなところに連れて行ってあげてほしいってことね。
外国と言うにはちょっと違うんだけど、どこから来たのか聞けばビックリすると思う。
男の子か女の子かはわからないけど、これを渡されてる頃には会ってるよね?
私の大切な赤ちゃん。
あなたが成人するまでお母さんは生きられないけど、ずっと見守っています。
寂しい思いをさせてしまうけど、強く生きてほしい。
あと、お父さんのことよろしくね。―
「……天太、これって」
「母さんが言ってる命の恩人ってのは、たぶんラビリスの母親だ」
「おばさんからそんな話されたことある?」
「ないな。手紙に書かれてることは何一つ聞いたことがない」
父さんもそんな話はしなかった。
この手紙はラビリスの話の信憑性を高めるものだ。いや、母さんがラビリスたちの存在を信じさせるために書いたものだろう。
現実の様な夢で会った女性がローズさんだったとするなら、母さんとローズさんは知り合いで、俺たちの命の恩人ということだ。
何があったのか気になるところだが、この手紙だけじゃ探りようがない。
正直、バイトの時間が迫ってなかったらラビリスたちに詳しく話を聞いてたところだ。
「どうするつもり?」
「どうするって?」
「あの三人のことよ」
「もう少し話を聞いてみようと思う」
「ええ! ウソでしょ!?」
「だってこの手紙――」
「本物かどうかわかんないじゃない!」
俺にはわかる。これは確かに母さんの字だ。
「なに叫んでんのー? 売り場まで響いてんだけど」
羽沙の声で何事かと紅ネェが売り場から顔を出した。
神城紅音。ブラウンの髪を後ろで束ね、シャツとジーパンの上に店の名前が入ったエプロンを掛けている。大学二年生で羽沙の姉。
二年前まで羽沙と一緒に俺の家で暮らしてた人だ。
「お姉ちゃんには関係ない」
「関わって欲しくないなら静かにしな」
「……むぅ」
こっちを睨むな。
「ここの片づけ終わったら休憩していいわ。天太、早めに羽沙の機嫌直しておいてね」
「俺が原因じゃないんだけど」
「あんたが原因でしょ!?」
俺たちのやり取りに苦笑しながら、紅ネェは売り場に戻っていった。
「警察に通報したほうがいいって」
ダンッ! と麦茶の入ったコップを置くあたり、まだ少し機嫌は斜めのようだ。
「別の世界から来た人間がいるんですとでも言うのかよ?」
「そんなのあるわけないじゃん。わけわかんないことやって、あたしもちょっと信じそうになってたけど、目が覚めた時にはあの人たちいたんでしょ? 天太を騙そうとして予め細工してたんじゃない?」
「俺を騙す理由は?」
そうすることのメリットがわからない。
そもそも騙そうとするなら、魔法なんて怪しまれるようなことを言うはずがない。
「……まあ、格好からして変な奴らだとは思うけど、俺を騙そうとして演技をしてる風には見えねーんだよなぁ」
ラビリスの流していた涙はとても演技で出したモノとは思えなかった。
■ ■ ■ ■ ■
「本当に申し訳ありませんでした」
セリカは正座をしていた。
「まったくですよ。こっちはお願いしなきゃならない立場なのに、羽沙ちゃんを怒らせてどうするんですか?」
それを仁王立ちで責める紗矢。
ちなみに、ラビリスの親衛隊としての立場はセリカのほうが上だ。
「いや、怒らせるつもりはなかったんだ。ただこちらの要求を却下されてはいかんと思ってだな」
「そうした結果、羽沙ちゃんにガン無視された挙句、話半分で出て行かれたと?」
「……うぅ」
「美味いなこれ」
二人の従者をよそに、ラビリスは天太がおやつにと出していったクッキーを頬張っていた。
「姫様、本当に申し訳ございません」
「そんなに気にするな。頭ごなしに否定されたわけじゃなし、天太も良い奴でわらわは気に入ったぞ。紗矢もそんなに怒るでない」
「いえ、私は面白くてセリカさんをイジってるだけで、ちっとも怒っていません」
「おい」
「話半分で出て行ったのはバイトとかいう用事があったからで、聞く耳を持たなかったわけでもなかろう。バァバから預かった手紙を読んでた時も思うところがあったようじゃし、天太が帰ってきたらまた話をすればよい」
「……はい」
「でも初対面の私たちを家に残して出ていくなんて、不用心というかお人好しというか」
紗矢は何かを見つけたようで、壁際の物の物色を始めた。
「信用してくれているのだ、悪く言うものではない。だからあまり勝手に部屋の物をいじるな」
セリカはラビリスの隣に腰を下ろした。
「いえ、写真を見てるんですよ」
棚におかれた五枚の写真。
どれも木製の写真立てに入れられ、大切にされているのがわかる。
「ご両親と天太君の子供の頃の写真ですね」
「後で両親にも挨拶をせねばならぬな……ん?」
並べられている写真を見てラビリスは首をかしげた。
「それは天太じゃろ?」
「そうとしか思えませんけど」
「なぜに子供の頃しかないのじゃ?」
「さあ?」
両親と一緒に写っている天太はどれも幼かった。
一番成長しているものでも、中学校に入学した時のもの。
天太が両親を亡くしていることを話していないので、三人にはなぜこの写真が飾られているのか知る由もない。
「それよりも姫様」
セリカは写真からすぐに目をそらす。
「先ほど天太が帰宅してからと仰いましたが、我々にはあまり時間が無いこともご自覚ください」
「……むぅ」
「問題は王様がどこまで我慢してくれるかですよね。傭兵を使ってこられたらいよいよ面倒ですよ」
紗矢が腕を組んで唸る。
身内の騒動であることから、しばらくはバルモンドのような王宮兵を使ってくるだろうが、ラビリスを護っているセリカと紗矢はアルカディア王国屈指の精鋭兵だ。
だからこそラビリスの親衛隊を任されているわけだが、今回はそれが裏目に出た。単独で二人の守りを破ってラビリスを連れ帰れる人物が王宮にはいない。
そこで凄腕の傭兵の出番となるわけだ。
難敵の魔物が王国近くに出没した際には、王宮兵ではなく傭兵の力を借りることもある。
もちろんラビリスの元へは国と付き合いが長く、信頼の厚い者が使わされるだろうが、当然相応の報酬が用意されることから、相手は任務を成功させるために全力でくる。
場合によってはラビリスが手荒に扱われることもあるだろうし、バルモンドのように正面から姿を現すなんてことはまずないだろう。
ベルハイム王も娘を傭兵に連れ帰させるなんてことは避けたいところだろうが、あまりにも手こずった時にはその判断を下すという予測はしておいたほうがいい。
そうなる前に、ラビリスと天太に粘膜接触をさせなければならなかった。
「傭兵が来れば天太たちにも迷惑を掛けてしまうかもしれんのう」
ラビリスも傭兵には何度も会ったことがあるし、父親が声を掛ける様な者は皆、礼儀をわきまえ尊敬できる者たちばかりだ。
けれどやはり王宮の兵とは違う。
ラビリスの言い分は聞いてくれないだろう。
「もし……わらわの目的が達せられなかったとしても、それは仕方あるまい。そういう運命だったというわけじゃ」
「姫様!? なにを――」
突然の弱音にセリカの腰が浮く。
「まあ待て。そうは言うても諦めるつもりはない。こっちの世界にまで来て目的を果たさず帰っては、お前たちやバァバに申し訳ない。それに婚約などしたら外に出れんからのう。そんなのはごめんじゃ」
「まったくその通りですよ。やりたい事や叶えたい夢があるのに、したくもない婚約なんてクソくらえです」
「まあ……王の決められた事に我々が異を唱えるわけにはいきませんが、正直なところ私も紗矢と同じ意見です」
「うむ。しかし今は何もすることがないのう」
「天太君のバイトが終わるまで待機ですね」
「そのバイトとは何なのじゃ?」
「「!!」」
従者二人は瞬時に判断する。
下手に興味を持たせるようなことを言えば必ず「見に行きたい!」と言うだろう。
極力外出は控えたい。ここはできるだけ簡素に返答しておくのが賢明だ。
「バイトとはですね」
紗矢が口を開くと、
「ヒマじゃし見に行きたいぞ!」
説明の余地もなかった。
子供に言い聞かせるようにセリカが笑みを浮かべる。
「姫様、バイトとは仕事のことです。天太は仕事に出ているので、邪魔をしにいくわけにはいきません」
「見るくらいよいじゃろ?」
「姫様がいたら気を遣わせてしまいます」
「こっそり見ればよいではないか」
そもそも外出を控えたいのでそういうことではない。
「我々はこちらの世界に来て間もないではないですか。あまり知らぬところを出歩くのは危険です」
自国の王都でさえラビリスが出歩くのは危険なのだ、この理屈はもっともなのだが――
「おぬしたちはこっちの世界に何度も来ているではないか。それにこっちの世界の者たちはわらわを知らぬ。むしろわらわに興味など持たず自由にできるじゃろ?」
「ぐぬぬ」
年相応の幼稚さを持ってはいるが、同年代の子供と比べてラビリスは賢く、状況を理解する力も身についている。
(だからこういうときは面倒なんですよねー)
(どうにかしてここに居てもらうのだ。下手に動いて国の者に見つかってはそれこそ面倒だ)
異世界の技術を得るために、セリカたちの世界の国々は多くの人間をこちらの世界に送り込んでいる。
日本でもアルカディアの人間が紛れて働いているわけだが、流石にラビリスを見ればすぐに気づくだろうし、その情報は一気に同胞に伝わるだろう。それだけは絶対に避けたい。
「それじゃ、案内を頼む」
「ですから、姫様――」
「二人がいれば安心じゃ。怖いものなどないわ」
「「――――ッ」」
その言葉と信用に、二人の胸が締め付けられる。
信頼されている喜びではなく、後悔の痛みに。
「……わかりました」
「紗矢!?」
紗矢の切り替えにセリカが非難しようとしたが、片手を上げられ制される。
「姫様、外出はいいですが、絶対に私たちから離れないと約束してください」
「わかっておる。さすがに知らん土地で一人は不安じゃ」
とはいえ、外に出られるのが嬉しいようで、早くとせがむように玄関へ向かうラビリスの足取りは踊っていた。
「……どういうつもりだ?」
「この国は比較的安全だし、そんな場所で臆病になっていたら姫様と一緒に世界なんて周れません。
それにあの時の私たちとは違います。なにがあっても、どんな状況でも姫様を護る。そうでしょう?」
「…………」
セリカは無言で視線を交わす。
「おい、どうした」
戻ってきたラビリスに、紗矢はなんでもないと笑顔を向けた。
「着替えますからちょっと待っててください」
「…………」
セリカは無意識に剣に手を這わせた。
紗矢の言うように、こんなところで臆病になっていてはラビリスの夢を叶えられない。
だからこそ自分たちが強くなる必要があったし、実際に超人的な力を得た。
「二度とあのような事を起こさせるものか」
君主を護る為に託された剣の柄を強く握りしめ、セリカも重い腰を上げて外出の準備を始めた。