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怪男子  作者: 変わり身
怪異法録
29/34

六頁 対峙(上)



――初めに怪異法録が確認されたのは、今より二百七十三年前。まだ告呂の地が華宮の管轄になる前の事だ。



創りだした者の名は、七代目査山鉄斎。

告呂を支える家の一であり、千里眼を得意とする霊能力者一族の長であった。


彼は誠実な人間であり、周囲からの信頼も厚かった。

妻と子供は早逝し、七十を越えた頃に右眼に霊障を受け、それを機に査山の名と共に隠居したと記録されている。


……しかし何らかの理由により彼は発狂し、生きながらに怪異へと変貌を遂げた。

そうして残りの生を賭して怪異法録を作り上げ、当時告呂に住む多くの者達を巻き込み自滅する事となった。


直前に妖怪を保護したという話も残っており、それ故怪異に取り込まれたとも言われているが、今となっては知る術は無い。

後に発見された小数の書物を始め、資料の全てが意味を成さない線の集まりで記され、誰にも読み解く事が出来なかった為だ。


結果として、怪異法録は現在に至るまで告呂の地に厄災と不幸を振り撒き続けている。

何度浄化しようとも時をかけて復活し、華宮の前に立ち塞がるのだ。


欲を出すな。

持った物はその尽くが狂い、その魂を外道へと腐らせた。


焼き捨てろ。

それが我らが可能な唯一の対抗手段であり、同時に犠牲者となった者達への献華となるだろう。


――忘れるな。

彼の狂気と怨念は、常に我らの傍に在る。





完全に日が落ち、人工の光さえも失われ行く時間帯。

車に揺られる灯桜は、流れ行く暗い町並みを見つめていた。


その手の中にあるのは、冬樹より返却された黒い粘液の入った小瓶だ。

怪異法録の少年の居場所を表すそれは常に一定の方角を指し示し、彼女の視線もまた追随する。


端から見れば恋する乙女のような所作であるが、その内に湛える感情は全く逆の物だった。


「……動き、ありませんか?」


運転席の冬樹が、バックミラー越しに問いかける。


「ええ、先程一度だけ揺れたように思えますが、その後は特に反応はありません。大きく場所を移動した様子もなく、落ち着いたものです」


「小路周辺を張らせてる者からも異常の報告はありませんし、まだ例の森に潜んでいるんでしょうかねぇ。てっきりすぐに逃げ出すと思っていたんですけども」


「……いえ、隠れるといった意味においては最適解ではあります。あそこは少し、乱れすぎていますから」


少年が逃げ込んだという森。

あの地はかつて怪異法録の創造主である査山鉄斎が住み、そして怨念と共に没した場所だ。


木々を刈ればその者は死に、踏み入れば呪われる。

華宮の華炎を持ってしても完全に浄化しきれないその念の中であれば、追跡の手は伸び辛くはなるだろう。


「……あの少年くんがそこまでの事考えますかね。元一般だとするなら霊系の知識は無い筈でしょう?」


「そうですね、法録から何らかの情報を得ているのかもしれませんが……もしかすると、他の目的があるのかもしれません」


「他の目的、ねぇ」


あの狡猾な少年の事だ。

例え隠れた所で時間稼ぎにしかならない事は分かっているだろうし、こちらに彼を探知する術がある事も既に予想されているかもしれない。


動きようがなくなって隠れているだけという可能性もあるが、一度出し抜かれている事実が髪を引く。思慮に思慮を重ねて損は無い。


「……見つかるのを待って降伏の用意、とかなら楽でいいんですけど、っ?」


「……?」


突然、何かに気づいた冬樹が道端に車を停車させる。


到着したのは、彼らの目的地であった件の森の程近く。

名も無き小路の入り口――その暗緑の隙間に、人影が一つ、立っていた。


平均身長には届かないであろう小柄な体躯に、それなりに整った顔に乗せられた特徴的な丸眼鏡。

服装に差異はあるが、それはまず間違いなく。


「…………」


冬樹と二人視線を交わし、車を降りて相対する。

アスファルトと靴底の擦れる音が鮮明に周囲へと響き、空に散った。


「……お久しぶり、とでも言いましょうか」


その人影――怪異法録の少年は、灯桜の声に肩を揺らすものの、それ以外に目立った反応は無く、逃げる様子も無い。

先程の冬樹の冗談が頭を過ったが、すぐに切り捨てる。彼の周囲に女幽霊の姿が見当たらない事に不信感を強め、警戒を一層深めた。


「まさか、貴方の方から姿を表して頂けるとは。燻り出す手間が省けました」


「……僕、だって。本当は会いたくなかったさ。でも逃げたって何時までも追うつもりなんだろ、あんたら」


「ええ、それが責務なので」


緊張に寄るものか、少年の声は怯えを多分に含む酷く掠れたものだった。

されどその目には意思の炎が灯っており、未だ諦観は無い事が伺える。


……灯桜は袖口より取り出したる桜の栞を油断なく構え、臨戦態勢。容赦の楔を意識から外しておく。


「私としましては色々と言いたい事はあるのですが――今はいいでしょう。それよりも」


「分かってるよ。めいこさんを渡せっていうんだろ。そして断れば……」


少年はその先を濁し、溜息。めいこさんと呼ぶ怪異法録を開き、鋭い目つきでこちらを見た。


やはり、素直に捕縛されてくれるつもりは無いらしい。

灯桜は血流を巡る霊力に活を入れ、栞へと収束。封入される桜の花弁に『華宮』としての力と意味を宿し、そして。


「……一応聞く。交渉とか、してくれる気ある?」


「そうですね、法録を渡して下されば検討は致しましょう」


「悪いけど、それはちょっと待ってくれないかな。まず僕の話を聞いてから――」


――轟、と。


言葉の終わりを待たず、栞を火種とした火球が少年の下に炸裂する。

高温の空気が渦巻く甲高い音と共に華炎の柱が立ち昇り、闇夜を赤く染め上げた。


「おおっ!? い、いきなりですか……?」


「ええ、これ以上語る必要を感じません」


心なし引いた様子の冬樹の声に素気無く答える。


法録を手放さない意思表示がされた以上、こちらに少年を慮る理由は無くなった。


言霊の詠唱を破棄した為威力は弱まっており、運が悪くとも全身火傷で済むだろう。

怪異の被害者達と比べれば、不相応に軽い代償の筈だ。


灯桜は灰となった栞を風に流しつつ、ゆっくりと黒焦げになった筈の少年の様子を確認しようとして――不愉快気に鼻を鳴らす。


「……やはり、一筋縄では行きませんか」


炎が晴れたその場所に彼の姿は無く、ただ石壁に黒い焦げ跡が残るだけ。

そしてその壁は数瞬前まで確かに無かった物であり、小路の入り口を塞いでいた。


否、変化はそれだけではない。

壁は道に、道は森に、森は壁に。ピシリと何かがひび割れる音と共に景色が歪み、今居る場所がここではないどこかへと変貌を遂げていく。


――……分かった。いいさ、そっちがその気ならやれるとこまでやってやるよ。


警戒する二人の耳に、風に乗った少年の声が運ばれる。

それは変化し続ける壁に反響し合い、近くに居るようにも遠くに居るようにも感じられた。


「……貴方は、」


――ゴタゴタ言うなよ。追うなら来い、絶対に逃げ切ってやるから……!


それを最後にガラスの砕けたような音が撒き散らされ、堪らず冬樹は耳を塞ぐ。


しかし灯桜にとっては長く慣れ親しんだ物。霊力の発露、その音だ。

辺りを見回せば既に景色は完全に変わり切り、鬱蒼とした森に囲まれた小路と舞台を変えていた。


乗ってきた車も、通ってきた道も、何も無い。完全に異界へと誘われている。


「は、っはっは。こりゃまた何というか……」


そうして冷や汗を垂らした冬樹の寒々しい呟きが流れる中、灯桜は少年への認識が間違っていなかった事を確信する。そして新たに数枚の栞を取り出し、霊力を通す。


「桜の火、焔の灯――!」


仕留めるべきは、近くに隠れている筈の外法者。

脳裏に浮かぶ彼の姿を穿つかのように白炎の灯火が迸り――夜闇を鮮烈に切り裂いた。





「――くそ、馬鹿か! 問答無用とか馬鹿じゃないのかッ!」


華宮達から遠く離れた場所。

遠くに聞こえる無数の爆音を背景に、物陰へと身を潜めていた僕は、あんまりといえばあんまりな展開に悪態を付いた。


勿論、元より穏便に済むなどとは思っていない。

むしろ交渉決裂からの戦闘の流れは半ば必定であると睨んでいたが、まさか話の途中で火球を撃ち込まれるとは流石に予想外である。


対話の可能性に縋り顔を出すべきじゃなかった。

めいこさんと花子さんが機転を効かせ怪談の再現を行ってくれなければ、今頃はクソ眼鏡の丸焼きが出来上がっていた事だろう。


「大体来るの早いんだよ、まだ完全に準備は出来てないのに……向こうの様子は?」


『相当やる気みたいだよ、あの娘ら。片っ端から壁を燃やして強引にこっち向かってる』


僕のすぐ隣には目を閉じた花子さんが漂い、華宮達の動向を逐次報告してくれている。


……いや、というか石壁を燃やしてこっち来てるってどういう事だ。

確かに直線距離で詰められるだろうけど、石に火だぞ。ちょっと無茶苦茶に過ぎないか。


『ええっと、たぶん。石その物ではなく、異界を構築する霊力そのものを焼いているものと、思われます……きっと』


「……所詮はオカルトのまやかしって事か。人を溶かす能力ありで行けばちょっとは違ったかな」


『はン。今からでもやるかいよ?』


「言ってみただけです。ああくそ、怪異に関しては向こうの方が詳しいって分かってた筈だけど……!」


やはり、納得しづらい物はある。

慣れたと思った理不尽を改めて目前に感じ、ガリガリと頭を掻き毟る。


そうしてそんな僕の片手に握られた、めいこさんの紙面。

彼女が浮かべた文章のすぐ横に、一つの怪談が霊力を帯びて薄気味悪く輝いていた。



――異小路。これまで何度も利用してきた、忌々しい怪談。



悔しいけど、最近僕はこれを作った奴を天才なんじゃないかと思い始めていた。





目を覚まし、さやまの森から出た僕がまず最初に行った事。

それは小路の至る所に「界」の文字を書き記す事だった。


手首の肉液をインクに見立て、小路の内部から入り口近くまで時間の許す限りに片っ端から。

今回は核となる花子さんのおかげで任意に再現のトリガーを引ける為、どこか一部を欠けさせる必要も無い。



――何の目的でそんな事をするのか?

そう問われれば、時間稼ぎの為、華宮達から逃げる為と答える。



『異小路』とは「界」の文字を門として異界を発生させる怪談だ。

ならばその門が至る所に散らばっていたとしたらどうなるか。


『――そこの角。少し先の方に居たから、位置を入れ替えといた。気をつけな』


「分かりました」


答えは、異界の迷宮化だ。


異界の中に異界を開き、小路の別の場所に記された門と繋げる。

それを繰り返す事で小路内の空間を入れ替え、パズルのごとく組み替えるのだ。


そして怪談の核となり、異界そのものと同調した花子さんが華宮達と僕の位置を把握し、今のように追い付かれないよう距離を調整する。

ついでにめいこさんに地図と現在位置を絵にして貰えば隙は無い。


……考えてみれば、華宮に負けないくらいの無茶苦茶かもしれない。

まぁ短時間でこしらえた「融通」にしては、頑張って考えたのではなかろうか。


『……チッ。素直に道なりに進みゃ良いのに』


そうして少しでも有利になるよう、新しく「界」の文字を追加する僕の耳に舌打ちが届く。

どうやらまた壁を焼き屠り、迷路のセオリーを無視したようだ。


(大丈夫だよな……文字)


壁と一緒に焼かれて消えれば、通路の入替えが出来なくなってしまう。

無論それを防ぐ為に、文字は電柱の裏や地面の近くといった目立たない場所に書くよう留意しているが、さて。


「……何時まで、持ちますかね。これ」


『さぁね。少なくとも十分や二十分で破られはしないだろうとは思うけど……』


長くは保たないだろうね――切った言葉の先にそう続いた気がして、心中にあった不安が急速に膨らんだ。

このまま姿をくらましたいとも思ったが、このような厄介な状況に置かれてもなお、華宮達は正確に僕の居場所を捉え続けている。


それの意味する所は明白だ、「界」を書く手に力が篭もる。


(イザとなれば、人を溶かす性質も……いや、駄目だ。やらないって決めたろ)


山原の成れの果てを思い出し、即決で却下。

あんなものをまた作り出すくらいなら、丸焼きになった方が幾分かマシだ。


『……ここからでも、見えるか』


「……?」


ふと零れた花子さんの言葉に顔を上げれば、火の灯りに炙られた夜空と、高く昇る何本もの煙が見て取れた。


おそらく焼却された霊力の成れの果てだろう。

見ようによっては何かの供養に――線香の煙のようにも見え、縁起でもないと背筋を震わせる。


「……どうか、ああはなりませんように」


僕は信じてもいない神様にお願い一つ。

煙から目を逸らすように壁を向き、文字を書き続ける。肉液に触れる事にはもう慣れていた。


華宮が来る前、既に野暮用は消化し、種は蒔いた。キツネ目の男の時とは違って追跡の対策も取ってある。後は場が整うまで逃げまわるだけ。


華宮の動きは早いわ、容赦は無いわ。どうにも成功するビジョンが見えないが、不安は唾と一緒に吐き捨てる。

僕にはもう、やり遂げるしか道は残されていないのだ。


「……くそ。負けるもんか、負けるもんかよ……!」


――ぽたり、ぽたり。


充満する霊力に反応した肉液が垂れ落ち、アスファルトを黒く汚した。



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