ハル
目を覚ますと、突き刺すような痛みを感じて、剣士はすぐに目を閉ざした。
世界が明るい。暗闇の中で過ごしてきた者には、まぶしすぎる。
目元を手で覆いながら、ゆっくりと目を開く。なるべく光を見ないようにして、そっと周囲をうかがう。
どうやら、自分は寝かされていたようだ。
手に、柔らかい感触がある。藁だ。カサリ、と草の鳴る音がする。
屋根の下ではあったが、どうやら外らしい。背中に、小屋の壁板があたる。
見回すと、かたわらに武器や鎧がまとめて置かれていた。置いた主は几帳面らしい。しっかりと並べてある。
剣士は、ボロ布一枚で寝ていた。ダンジョンの中ならばあり得ないほどの気のゆるみである。
しかし、
「……」
目に入る光景は、どう見てもダンジョンのものではない。
陽の光があたりを輝かせ、緑色の芝を照らしている。木々は爽やかな風に揺られ、新鮮な空気が肺を満たす。
昨夜のことは夢ではなかったようだ。
忘れていた外界の様子を全身で感じながら、剣士はしばらく陽光の暖かさをかみしめていた。
そこへ、
「あ、起きました、か?」
昨日聞いたばかりの声が、やってきた。
「あのっ、すみません。本当は家の中に入れたかったんだけど、道具とかよくわからなくて、それでお外で……」
申し訳なさそうに言うのは、小柄な少女だった。
剣士の感覚が昔通りならば、歳は十五か六くらいに見える。薄桃色の金髪がさらりと流れて、碧色の瞳が剣士を見つめていた。うす緑色のワンピースがよく似合っている。思わず、喪った姉や妹を思いだした。
「ケガとか、とくになかったみたいで。手当とかも必要なさそうだったから……。寝心地、悪かったよね? ごめんね?」
気遣ってくる少女に、大丈夫、と言おうとした。しかし声も昨日と同じようで、喉を絞るようにしても、何も出てこない。
何度か挑戦してみたが、さっぱりだった。かすれた、音にもならないような吐息がせいぜいだ。
なので、唇だけでも、大丈夫、と動かしてみた。
すると、少女は気づいたようで、
「……名前、聞いてもいいですか?」
確認するようにたずねて来た。
名前、と聞かれて思い出すものはある。しかし、それが伝えられるかどうか。
声を出そうと、力を振り絞る。少しでも伝えたいと、全力で。
「ハ……」
「え?」
やっと、声なのか音なのかも分からないものが出た。
これなら、ともう一文字を、
「……ル」
なんとか言い切った。
少女には伝わっただろうか。
「えっと、ハ、ルさん?」
うなずく。
「ハルさん、ね。分かった、ハルさん! それで、ハルさんは、どこから来たの……?」
今度は、首を横に振る。答えたくないのではなく、答えられないという返事のつもりで。
それで少女は確信したようで、
「声、出ないの……?」
うなずくと、少女は眉を下げ、心配そうな顔色を濃くする。
「他には? 何か変なこととかある? 痛いところとか?」
首を横に。
「そう、ですか……」
少女が肩を落とす。寝床を提供してもらい、心配までしてもらって、剣士・ハルの方が申し訳なくなってくる。
座り込んだままだったので、立ち上がってみる。年老いた体だが、一晩眠れたからか、思いのほか快調に動いた。膝も腰も、痛みを発しない。
体が軽い。長く付き合っていた倦怠感が、完全に抜けている。
どうしたことだろう、と自分の体を確認してみた。
まず手に目が行った。そこで、ハルは今まで見た覚えのないものを見た。
しわだらけだった手が、綺麗に整っていた。二度、三度と動かしてみて、目の前にあるものが自分の手だと確認し、
「……?」
胴を見てみると、傷が一つも見当たらない。足にしても、首元にしても、どこにも老いた感じを見つけられない。
「ど、どうしたの?」
自分の体の変化に驚いていると、少女もつられたように目を見開いていた。
「体が、どうかしたの? あの、水なら汲んでおいたから、拭きたいならそこの桶に……」
言われた桶を覗き込み、ハルは愕然とした。
水面に映ったのは、見覚えのない、少年の顔だった。
髪こそ白いが、顔にはしわが一つも見当たらない。アゴを撫でて、ひげがなくなったことも確認した。
少女の方を見て、水面と自分の顔を指さし往復してみる。
「え? え?」
さすがにこれは分からないのか、少女も戸惑うばかりだ。
「えっと、顔? 別にケガはなさそうだよ?」
「……!」
「ご、ごめんね、何が言いたいの?」
少女が困り果てていた。ハルもハルで、何をどう説明したらいいのか分からない。
とりあえず、桶に顔を突っ込んだ。水の冷たさが、頭を少しでも冷やしてくれると信じて。
ごぼごぼと息を吐いてから顔を上げ、荒れた水面をにらむ。落ち着くまで待ったが、映し出されるのは、先ほどと同じ顔だ。
手も足も胴も顔も、何から何まで、ハルが知っている自分とは違う。
一応、年月の感覚がなくなっているとはいえ、自分が老いていたのだとは理解している。少なくとも、こんなに若いはずがない。
まるで、ダンジョンに挑み始めた頃の自分だ。いや、それよりも若いかもしれない。
「い、今、拭くもの持ってくるね。ちょっと待ってて」
少女が、家に引っ込む。ハルは呆然とそれを見送り、天を仰いだ。
空は青く、雲が見当たらない。ダンジョンの不気味な天井が懐かしく感じるほどに、澄んだ空だった。
どれほどそうしていたのか、戻って来た少女が恐る恐る差し出してきた布に気づくまで時間がかかった。
「だ、大丈夫? 私が体、拭こっか?」
首を縦に振る。今は、自分の体の変化に驚いて、頭が回らない。
「痛かったら、言ってね?」
少女がゴシゴシと体を拭ってくれる。
しばらくは少女のされるがままに体を拭かれ、ハルは半ば失いつつある意識をしっかりと引き留めていた。