星空の下で
「……?」
剣士が見たのは、紛れもない星空だった。
いつか、はるか昔に見た、星々が散りばめられた星空だ。
ダンジョンにあった小さな灯ではない。光る苔の放つか弱い光でもない。天然自然が作り出したとしか思えない、星の輝きだ。
慌てて振り返る。背後には、今しがた自分が潜り抜けて来た扉があった。
だが、開けようとして手を伸ばすと、まるで幻だったかのように、扉はぼやけ、消えてしまった。
「……??」
何が起きたのか、さっぱり分からない。
思いだしたように息を吸うと、それもまたダンジョンの生臭いものではなく、新鮮で、緑の香りがする爽やかなものだった。
理解が及ばない。
何度目を開けても、何度息を吸っても、見慣れた天井はなく、嗅ぎ慣れた血の匂いがしない。
思わず、へたり込んでしまう。刃が手からすっぽ抜け、尻が柔らかい土の上に落ちた。
辺りを見回してみると、剣士はどうやら森の中にいるようだった。自分がいる場所は、小さくひらけている。木々が、夜の空を邪魔しない。
立ち上がる気力が湧かない。今まで、どんな怪物からも、こんな衝撃は受けたことがない。
剣士がほうけていると、突然、耳を突き刺すような甲高い音がした。
顔を上げ、周囲を見回す。刃を手に戻し、反射的に立ち上がる。
音は、かなり近くから聞こえて来た。走れば、すぐにたどり着けるだろう。
足を踏み出そうとする。と、そこで剣士は、音が何であったのかをふと思い出した。
今のは、人の声ではないだろうか?
獣の泣き声とも違う。鳥のさえずりでもない。人の声など数十年聞いていないが、これは自分の知るところの、悲鳴、ではなかったか。
突然の思い出に戸惑い、再度聞こえて来た悲鳴に、また反射的に足が動いた。
体の重さを忘れるほど、必死に走った。悲鳴は森の中から聞こえた。星の光も届かない薄暗さだが、闇に慣れた目は、さほど苦労せずに相手を見つけてくれた。
大きな影があった。剣士の二倍程度だろうか。先ほどの怪物に比べたら、かなり小型だ。
その影の足元に、また別の影があった。こちらはさらに小さい。それに、わずかながら輝いているように見える。
よく見れば、大きな方は腕を広げ、小さい方を睨んでいるようだった。
「たす……け……て」
悲鳴は、小さい方が発していた。よく聞こえなかったが、そちらが人間ということで間違いないだろう。
剣士は、両者の間に割って入った。
「……え?」
小さい方をかばうようにして、大きな方を見上げる。
怪物ではない。相手から、強烈な圧力を感じない。
熊だった。剣士の知識が確かなら、ダンジョンにこんなものはいなかった。
熊は、剣士の出現に驚いているようだった。わずかに身を縮ませ、腕をひっこめた。
にらみ合いが続くかと思われたが、熊は後ずさり、少しずつ離れていった。そのまま、剣士に怯えたように、逃げていってしまった。
構えていた刃を下ろす。熊が見えなくなったのを確認してから、剣士は後ろにいた人間へと振り返った。
「あの……」
こちらもまた、剣士に驚いていた。だが、剣士もまた驚いていた。
小さな影は、小さな少女だった。
古い外套をまとっているので容姿ははっきりしないが、わずかにのぞく瞳が、剣士を恐る恐る見上げていた。
「人……?」
小さな唇が、言葉を放つ。あちらも、剣士の姿がよく見えていないのか疑いの混じった口調だった。
「なんで、人が……? 来られるはずがないのに……」
言葉の真意が分からない。ただ、敵意は無いようだった。
刃を収めて、剣士は腰を下ろす。少女と視線を合わせて、誰なのかと問おうとする。
「……」
だが、何か言おうとしても、言葉が作れなかった。
聞きたい、という思いがあるのに、喉が上手く動いてくれない。
「……」
口は開くものの、吐息できるくらいで声が出ない。
「あなた……、どこから来たの……?」
少女が、震えながら尋ねてくる。
仕方なく、首を横に振る。
「分からないの……?」
うなずく。すると少女は、おぼつかないながらも立ち上がって、
「えっと、その、助けてくれて、ありがとう」
「……」
「あの……」
そっと、剣士へと手を伸ばしてきた。
「私が言うのも変だけど、大丈夫……?」
やや緊張が混じった、それでいて気遣いにあふれた言葉。最後にこんな言葉をかけてもらったのは、いつだっただろう。
何十年かぶりの人の声に、耳にくすぐったさを感じる。思わず嬉しくなり、顔が熱くなる。
敵意のない、温かい声を聞いて、
「……」
「えっ、あのっ!?」
剣士は、体が倒れる感覚を得ながら、気を失った。