第九話
仕事が休みの海貴也は、二度寝もせずすっきりと目覚めた。何時も通り、暖房を付けてから毛布を脱いだ。
今日は、丁度ジュリウスに用事もあるので、午前中からカフェに行くことにした。朝食は店に行って食べようと決め、スケッチブックが入ったトートバッグと紙袋を持って十時過ぎに家を出た。
〈ちょっと寒いけど、天気は悪くないし、今日はテラス席で描こうかな。あと、実家から送られて来たおまんじゅう、ジュリウスさん食べられるかな〉
一昨日、同じ県内の実家から、海貴也が昔から好きだったまんじゅうが送られて来た。しかも、八個入りが二箱。母親の気遣いなのだろうが、一人暮らしだし一箱で十分だ。多少日持ちはするし、好きだから毎日食べられるが、十六個はいらないと思った。
海貴也の母親は、たまに大雑把な性格が出る。父親の方がまだ繊細で、あら良いじゃないと良かれと思ったことは大抵押し通す。父親から聞いた結婚当初の話で言うと、料理が不得意だった母親の味付けは毎回バラバラで、極端に塩辛かったり甘かったりがしょっちゅうだったらしい。落差は徐々になくなったが、未だに味のムラがある。「食べられるんだから良いでしょ」が、母親の食卓での決まり文句だ。
恐らくこのまんじゅうも、父親は一箱でいいと言ったのだろうが、母親は、好きなんだから多い方が良いでしょと言ったのだろう。
海貴也は消費期限が気になり、早めに食べきるか会社に持って行こうかと考えた。けれど数が少ないし、それならジュリウスに持って行こうと思った。日本食の好みはまだよく知らないが、前に日本の食べ物は美味しいと言っていたのを覚えていた。だから海貴也は、喜んでもらえるシチュエーションを想像しながら向かった。
カフェの開店時間は十時半だが、その五分ほど前に到着してしまった。少し早かったかと思いつつ、ジュリウスなら大丈夫デスよと言ってくれるだろうと、まだ【CLOSED】のままの扉を開けた。
「こんにちはー。ジュリウスさん。もう入って……」
扉を開けて一歩入ったところで、海貴也の身体は固まった。
静まり返った店内にハウリングする、ドアベルの音。その視線は、一点を見つめたまま離れない。
視線の先にはジュリウスと、知らない男性が一緒にいた。それはいい。
問題は、ジュリウスがその男性に迫られ、テーブルに押し倒されそうになっている状態、ということ。
海貴也の開いた口が塞がらない。
〈……え?〉
搗ち合う三人は、同時に一時停止した。目撃した海貴也は瞬きを忘れて、頭の中も真っ白になった。
三人の視線が交差したのは、ほんの一瞬だった。状況に冷静な恭雪は、焦ることなくジュリウスから離れた。
「んじゃ、帰るわ。また明日な」
そして何事もなかったかのように、テーブルの足に立て掛けてあった空のコンテナを持って帰ろうとする。
入り口に立ちっぱなしだった海貴也は、初めて見る相手なのに、立ち居振る舞いとしゃべりで自分とは違う人種なのだと悟り、彼の圧に負けるように道を開けた。恭雪は海貴也と擦れ違うが、特に声も掛けず視線も向けなかった。
〈……あれ?この人……〉
通り過ぎてから、海貴也は何処かで彼を見たような気がした。
「イラッシャイマセ。海貴也サン」
衣服を整えながら海貴也を迎えるジュリウスも、何もなかったかのような何時もの笑みだ。素知らぬ様子の二人を見た海貴也は、目の錯覚だったんだろうかと自分の目を疑った。
「ジュリウスさん。今の人は……」
「何時もケーキを持って来てくれる、パティスリーの方デス」
「そうなんだ。ジュリウスさんが作ってるのかと思いました。お店に頼んでたんですね……」
と普通に会話が進むが、心中は見てはいけないものを見てしまった動揺が収まらない。
「お席にドウゾ」
「あ。はい……。テラス席、いいですか?」
テラスには、店内の折れ戸式窓から出る。ウッドデッキに出ると海が目前に一望でき、急な雨や日差しが強くても日除け屋根があるので、ゆっくりと寛げる。デッキの脇のプランターには植物が植えてあり、ちょっと南国のリゾートのような雰囲気もある。
海貴也は何時ものミルクティーを注文したが、ハプニングの余韻でまんじゅうを渡すのをうっかりしていた。また席に来た時にと思い、海貴也はスケッチブックを出して待ち、ミルクティーを持って来たジュリウスに紙袋を手渡した。
「これ。実家から送られて来たおまんじゅうなんですけど、良かったら食べて下さい。…あ。あんこ大丈夫ですか?」
「ハイ。アリガトウゴザイマス。休憩時間にイタダキマスね」
受け取ったジュリウスが再び店内に戻ろうとすると、「……あのっ」と海貴也は彼を呼び止めた。
「その、さっきの……」
先程、偶然にも見てしまったものが気になった。ここはやはり見なかったことにして、自分も何時も通りにするべきだとわかっているが、やけに気になる。決して好奇心からではないけれど、聞かなかったら聞かなかったであとでモヤモヤしそうだった。
「あの人と、何してたんですか?」
ジュリウスの顔色を窺いながら尋ねた。すると、
「アレは、挨拶みたいなものデス」
誤魔化すような素振りもなく、ジュリウスはあっけなく答えた。想定していたことと全く違う反応に、海貴也はポカンとしてしまった。
「挨拶……なんですか?」
「ハイ。何時ものことデス」
少しだけ困った表情を覗かせたが、それ以外はやっぱり何時もと変わらない様子だった。屋内に戻る彼にそれ以上の追及はしなかったけれど、海貴也はスッキリしなかった。
〈何時もの挨拶……。あれが?だってジュリウスさん、何か嫌がってるように見えたぞ。それとも、ハプニングで体勢がああなったのか?それにあのパティスリーの人、前に定食屋で会った人だ〉
疑問が深まると同時に、あの男性が、面接に行く前に寄った定食屋でとんかつを勧めてくれた、あの親切な人だと気付いた。
〈どういう関係なんだ?〉
あのシチュエーションの意味を聞いて後悔はしなかったが、それよりも原因不明の複雑な心境に陥り、眉間に皺が生まれた。
取り敢えず、砂糖を入れたミルクティーを飲んで落ち着き、持って来たスケッチブックを開いて風景を描き始めようとした。しかし、鉛筆を用紙に添えただけで一向に手が動かない。
〈……気になる。めちゃくちゃ気になって描けない!〉
ジュリウスは挨拶だと言っていたが、本当にそうなのか。そして、パティシエの彼との関係が気になり始めた。
もう一度声を掛けて、勇気を振り絞って真相を聞いてみたい。でも、ここで空気を読まなかったら絶交ということにもなりかねない。できればそれは避けたい。海貴也は僅か数分の間で、何度も迷いの中を行ったり来たりと繰り返す。
海貴也の葛藤を知らない店内のジュリウスは平常通りで、何時の間にかやって来た常連の白髪男性の接客中だ。さっきのことを引き摺っていたり、業務内容に支障をきたしていないのが見受けられる。
そんな彼を目で追った。暫くその姿と表情を見ているうちに、海貴也の精神は感化されるように鎮静し始める。
〈……でも待てよ?よく考えてみると欧米の人って、男女関係なく日常的にスキンシップするよな。そういうことなのかな?だから、ジュリウスさんは何時も通りなんだ。苦手だから、嫌そうな顔してたのかも。オレそういうシーンに遭遇したことないから、勘違いしてるだけか〉
「……うん。そうだな。きっとそうだ」
冷静になり、考え過ぎていたんだと結論付けた。すると、徐々にモヤモヤも晴れてきた。落ち着きを取り戻した海貴也はミルクティーを飲むと、改めてカフェ沿岸と岬のスケッチを始めた。
何時も室内から眺める景色は、見る角度が少し異なるだけで何故だか新鮮味がある。時期的に空気が冷たいが、気分も違って悪くない。暖かくなったらまた違った景色が見られるのだろうかと、楽しみになった。
すると、スケッチをする海貴也の手が、ほどなくしてピタッと止まってしまった。ふと何かが引っ掛かった。
「勘違いって……」
〈何を、勘違いしてたんだ?〉
あれを目撃して、状況的判断から無意識にある仮説を立てていた。二人が特別な関係性だと。
一度は考え過ぎだとその可能性を却下したが、砂糖のように溶けきってはいなかった。
あれは、ただそう見える状況だっただけで、ジュリウスの言う通りなのかもしれない。
でも、本当はそうじゃないかもしれない。
それに、あの恭雪の余裕は、どういう意味を持っているのだろう。
店内では、新たに来た客をジュリウスが接客している。海貴也は、ガラス越しにその姿を見た。
白い肌と金色の髪の彼は、何時見ても見惚れてしまうほどキレイだと思う。
ただ今日だけは、ずっと視線を向けてはいられなかった。