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第八話




 ある日の夜七時過ぎ。カフェの営業を終了したジュリウスは、店内の片付けをしていた。客もいなかったので、レジの清算を時間を前倒しして終わらせ、これから清掃を始めようとしていた。

 すると、【CLOSED】と掛けてある扉がベルを鳴らして開いた。


「海貴也サン?」


 閉店に気付かずに入って来たのは、何時もと少し違う私服姿の海貴也だった。


「あ。もう閉店時間ですか?」

「大丈夫デスよ。……と言ってモ、何もお出しできマセンが」


 本来なら断るが、海貴也なら……。そう思ったが、本日分の食材は全て使い切ってしまった。出せるのは、ショーケースの中に残っている、みかんとグレープフルーツのタルトだけ。

 今晩は何か軽くと思って海貴也は寄ってみたが、流石にミルクティーとケーキではティータイムと変わらなくなってしまう。


「それじゃあ、別の日にまた……」


 海貴也は諦めて帰ろうとしたが、ジュリウスに引き止められる。


「夕食はまだなんデスか?」

「はい。まだです」

「私もこれからなノデ、良かったら一緒にいかがデスか?」


 友達になったばかりのジュリウスから、夕食を誘われた。片足が気持ち店を出ようとしていたが、特に断る理由もなかった海貴也は、その好意に甘えることにした。

 食べるのはこのカフェスペースで。デリバリーはしない。つまり、ジュリウスの手料理が振る舞われる。

 海貴也は何か手伝うかと聞いたが、「お客さんは座っていて下サイ」と配慮され、唯一頼まれたテーブルクロスとカトラリーの準備をして、あとは大人しく何時もの席で待つことにした。これじゃあ普段と変わらないな。そう思いつつ、彼の手料理を楽しみにした。

 二階の台所から食材や鍋を持って来たジュリウスは、カフェのキッチンで調理を始める。食材を刻む音やお湯が沸く音が聞こえ、やがて名前のわからない香草の香りが、ふわりと鼻先を撫でる。キッチンを覗きたくなったけれど、海貴也はしつけられた犬のごとく待った。

 そして三十分くらいすると、料理が運ばれて来た。作ってくれたのは、香草がアクセントの白身魚のパスタと、カプレーゼ。車の運転がないことを聞いて、白ワインも用意してくれた。

 何時もは、サンドイッチやケーキセットが乗るテーブルが、並べられた料理が違うだけで別の店に来たように錯覚させられる。しかも、イタリアから来た彼が作ったともなると、本格イタリアンレストランさながらだ。

 調理を終えたジュリウスはエプロンを取り、店内の照明を入り口側の半分を残して消し、海貴也の前に腰掛けた。

 薄暗い店内は、たった二つのオレンジ色の白熱灯の明かりだけ。その色がジュリウスの肌を照らし、色白の肌を健康的な肌色に見せ掛ける。

 何時もと違う料理と、何時もと違う店内の雰囲気の所為か、それとも、彼が初めて正面にいる所為なのか、海貴也は少しだけドキドキしていた。一緒にいただきますをして料理を口に運ぶが、緊張が身体を回って料理の味に集中できない。


「何時も、こんな暗めな中で食べてるんですか?」

「ハイ。コノ方が落ち着くノデ……。それにしても今日は、こんな時間にどうされたんデスか?」

「実は今日、新しい職場の初出勤日だったんです」


 先週末、無事に再就職先が決まった。二社目に面接した、設立したばかりの広告制作会社だ。所在が市街地なので、電車通勤で片道二十分くらい掛かる。 

 私服で行ける職場はアットホームで、社員同士仲も良く雰囲気が良い。海貴也は彼らに温かく迎えられたのだが、初出勤と新たな人付き合いの始まりのおかげで一日中気を張り続け、気疲れしてしまった。


「ずっと緊張状態で、早くリラックスしたくて。そしたら、ここに行きたいって思って。でも、閉店時間のこと忘れてました」

「いいデスよ。海貴也サンなら」


 初日で心労を抱えた海貴也を労うように、ジュリウスは微笑んだ。

 海貴也と友人関係になってから、それまでどこか一線を引いていたジュリウスは、肩の力が抜けたように笑ったり話をしてくれるようになった。けれどまだ、何か一歩気後れしているような、そんな表情がちらりと窺う。海貴也は気の所為かもしれないと思い、消えかけのラインを越えていない。

 出された料理を食べ終わると、ジュリウスは残っていたタルトをタダで出してくれた。酸味が際立つグレープフルーツだが、下に敷かれたカスタードクリームとつや出しで塗られたシロップが酸味を包み込み、バランスが良い酸味と甘さが丁度良い。


「そう言えば。今日みたいにケーキが残った時、どうしてるんですか?処分しちゃうとか?」

「大体、自分で食べマスが、お寺の住職の山科サンに持って行ったりもシマス」

「仲良いんですか?」

「そこまでではないんデスが。コノ家を貸してもらう時に良くしてもらったノデ、お礼代わりニ」

「えっ。この建物、住職さんの持ち物だったんですか?」

「敷地も、お寺のものらしいデス。コノ家は山科サンのお父サンが、ご自身の為に建てたようなんデスが、亡くなってからは使っていなかったそうなんデス。私がカフェができる場所を探していたラ、山科サンが偶然話を聞いてイテ、快く貸してくれマシタ。家賃もいらないト」

「めちゃくちゃ良い人だなぁ」

〈流石お坊さん。仏の教えってやつなのかな〉


 ジュリウスは苦手にしているご近所付き合いだが、山科夫妻はそれを理解しながら時々気遣ってくれる。因みに、店内に色を添えている花の鉢植えは、山科さんの奥さんからもらっている。花が好きで季節ごとに育てていて、綺麗に咲いたものがあるとお裾分けをしてくれるのだ。


「夫婦揃って、めちゃくちゃ優しいなぁ」

「花と言えバ……。コノ町に、早咲きの桜があるのは知ってマスか?」

「早咲きの桜?」


 隣町との境の川沿いに、二月上旬頃から三月上旬頃に掛けて咲く桜がある。濃いめのピンク色がとても美しく、数百メートルに渡って桜のトンネルができあがる。同時期に土手に咲く菜の花とのコントラストも素晴らしく、知っている人は地方から見に来る人もいる。今年は寒気の影響で、開花時期が少しずれ込みそうだと予想されている。


「そうなんだ。知らなかったです」

「もうすぐ見頃だと思うノデ、見に行ってみて下サイ」

「ジュリウスさんは、見た事あるんですか?」

「イイエ。実はまだ……。ネットの写真なら見マシタ」

「ニ年もいるのに?見に行かないんですか?」

「私はチョット……」


 食後のコーヒーを飲むジュリウスは、少し困ったように眉尻を下げた。表情の変化に、海貴也は何となく理由を察する。


〈そう言えば、昼間はあんまり外出ないって言ってたな。紫外線、気になるのかな。でも、室内ばかりにいても楽しくなさそうだよな。しかも、一度も見たことないなんて……〉

「あの。良かったら、一緒に見に行きませんか?」

〈あっ……〉


 言った次の瞬間、言ってしまったと気付いてジュリウスから視線を逸らした。自分から誘っていることに驚き、困惑してしまった。

 けれど、別に誘うことは不思議ではない。友人なら、男同士でも花見くらいには行く。何なら、キャンプや海水浴や旅行にだって行く。海貴也の誘いは何もおかしくはないのに、これまで誘われることの方が多かった所為か、自分の自然な発言に戸惑いすら覚えてしまった。


「私とデスか?」


 ジュリウスは問い返してきた。海貴也は顔色を窺おうと、再び彼を見る。最初の頃のような、嫌そうな表情はしていなかった。寧ろ、垂れぎみの瞳が何時もより大きく開かれている。

 誘いを撤回しようかと考えたが、以前とは違うジュリウスの反応を見て、二者択一の選択ルートを勇気を持って決めた。


「場所は知ってるんですよね。オレ初めてだし、まだこの町に詳しくないから、案内して下さいよ」


 ジュリウスも一人では行きづらく思っているのなら、自分も一緒に行けば楽しめるんじゃないかと、ダメ元で誘ってみる。初のチャレンジに内心ドキドキだ。


「それとも、お店休めませんか?」

「……イイエ。私で良けれバ」


 ジュリウスは少し考えたが、快諾してくれた。

 取り敢えず予定は、三月の最初の土日のどちらかで仮の日程を決めた。ジュリウスから、できればカフェの営業もしたいとの希望があったので、時間は後々に相談することにした。

 そのあとは、初出勤だった今日の出来事を話したり、ジュリウスから山科夫妻の話を他にも聞いた。七時閉店のパエゼ・ナティーオは、今日だけは九時半過ぎまで店の明かりが点いていた。


 帰り道は、今日一日の緊張を忘れるくらい、海貴也の心は踊っていた。夜空には、冬の大三角形を成す星がチカチカと瞬く。


「お花見かぁ。楽しみだなー」

〈去年は、会社の人たちと行ったよな。同僚と交代しながら場所取りして。デリバリーのお弁当、美味しかったなー。川村さんが無礼講だ!とか言っておきながら、ノリで言った冗談に説教したり、誰かが人生ゲーム持って来てて、負けた川村さんが「もう一回だ!」って五回くらいやらされたっけ。お開きになって片付けてたら、何時の間にかオレ一人になってたんだよな。それで、文句言いながらゴミ袋持って行こうとした時……〉


 思い出を回想していたら、浮いた心が重い石に括られて沈んでしまった。何かに足を掴まれたように、街路灯の下で立ち止まる。


〈あの人が戻って来て、手伝ってくれたんだよな。───あの頃はまだ何も知らなくて、一緒にいられるだけで幸せだった。なのに……〉


 それは唐突だった。忘れもしない、クリスマス前のディナーデートの帰りだった。


 ───子供ができたんだ。だから、別れてくれ。


 家庭があることと、関係の解消を一方的に切り出された。隠していたことを彼に問い質したくても、事実の衝撃が大き過ぎて、別れの言葉さえ出てこなかった。


「今、思い出しても酷いよ。ほんとに」

〈リセットしたくて引っ越したのに、まだ引き摺ってる。きっぱり忘れなきゃ……〉


 蒸気のような息を吐き、夜空を見上げて歩き出そうとした。

 目に飛び込んできたのは、あの日の街のイルミネーション。その時の空気の温度や周囲の音を、鮮やかなまま脳裏に残そうとしている。

 まるで、海貴也の心の記憶を消すまいとしているようだ。




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