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第六話




「ジュリウスさん!?」


 海貴也はすぐに席を立って、駆け寄った。ジュリウスは胸の辺りを押さえて、膝を突いている。その顔色はあからさまに血の気がなく、床に伏せる病弱な人間かと思うくらいだ。


「大丈夫ですか!?」

「……ハイ……スミマセン。大丈夫デス。───痛ッ」


 カップの破片を拾おうとして、ジュリウスの人差し指が切れた。指の腹から赤い血が出る。


「ジュリウスさん、血が……」

「触らないデ!」


 海貴也が手に触ろうとすると、過剰に反応された。ジュリウスは自分の手を───身体を守るように上半身を竦める。聞いたことのない声量と含まれた刺に、海貴也の身体が一瞬固まった。


「……」

「大丈夫デス。このくらいの傷、平気デス」


 ジュリウスは口元を少しだけ緩め、心配させまいと気を利かせた。しかし、わかりやす過ぎる異常は、消極的な海貴也を引き下がらせなかった。


「……大丈夫じゃないです」


 海貴也は近くのテーブルから紙ナプキンを一枚取り、広げて長細く折る。そして、怪我をしたジュリウスの右手を取ると、その行動に驚いたのか、ジュリウスは少しだけビクッとした。


「絆創膏持ってないんで、取り敢えずこれで……」


 細く折った紙ナプキンを傷口に当てて巻き、絞めすぎないように軽く縛った。


「ちゃんと、絆創膏で保護して下さい。お店の中、オレが物色する訳にもいかないので。割れたカップは、オレが片付けておきますから」


 掃除用具の場所を聞いた海貴也は、裏からほうきとちり取りを持って来て、ジュリウスがフロアを離れている間に、割れたカップとソーサーを片付けモップで床を拭く。暫くして戻って来たジュリウスに割れ物の廃棄を頼もうとしたが、それどころではなさそうだったので、破片を乗せたちり取りとほうきとモップは、ひとまずキッチンの中に置いた。

 騒ぎが一段落すると、男性客が席を立った。ジュリウスはレジで、騒がせたことを頭を下げて謝ったが、男性は気にしていないと手を上げた。

 ドアベルの音が鳴り止むと、顔を上げたジュリウスは怠そうにキッチンカウンター前の席に座った。心配する海貴也は、寄り添うようにその傍らに立つ。


「……ジュリウスさん。本当に大丈夫ですか?顔色悪いですよ?」

「ご迷惑をお掛けしテ、スミマセン。大したことはないノデ……」

「そんな風には見えませんよ。風邪引いたんですか?熱があるとか?」

「本当に、大丈夫デス。そんなに心配しないで下サイ」


 今さっき倒れたというのに、それでもジュリウスは何でもないと偽ろうとする。

 海貴也は怪訝に思った。何故そんなに頑張ろうとするのだろう。少しくらい休んだって、責める人はいないだろうに。一人でやっているから、無理を押したがるのだろうかと。

 だが、彼の心意気は推し量れても、嘘とも言えない嘘には騙されない。


「心配です。こんな顔色悪い人、心配しない方がおかしいです。体調悪いなら、お店休みにした方がいいんじゃないですか?」

「……デモ……」

「無理したらダメです。今日はもう、休みにしましょう」


 本来の海貴也だったら心配をしても、相手がそう言うならと自分の意見を押し切ろうとはしなかった。けれど、今のジュリウスの状態を見て、かなり無理をしているのははっきりとわかる。従業員は彼一人だけだし、これ以上の営業は困難だ。

 しかし、自分はただの客で、店の営業に関しての決定権は責任者のジュリウスにある。体調不良を押してでも営業を続けると言うのなら、部外者がそれ以上の口出しはできない。海貴也は、どうか無理はしないでくれと願った。

 ジュリウスは沈黙した。数秒すると、海貴也の思いが届いたのか、弱々しくゆっくりと首を縦に動かした。午後十二時の手前、カフェは臨時休業となった。

 辛そうなジュリウスにはそのまま座っていてもらい、代わりに海貴也が掛け看板を裏返し鍵を閉め、帰った客のカップを洗い、ラジオを止め、店の電気を消した。


「洗い物まで、スミマセン……」

「いいですよ。困った時はお互い様です。心配なんで、良かったら家まで送りますよ。何処ですか?」

「ココの二階デス」

「ここに住んでるんですか?」


 海貴也は、思わず天井を見上げてしまった。


「二階に、部屋があるノデ」


 二階建てなのは勿論知っていたが、物置きや休憩室になっているのかと思っていた。

 この建物に住んでいるなら送る必要もなかったが、心配だった海貴也はジュリウスの許しを得て、二階の部屋まで付き添うことになった。肩を貸そうかと声を掛けたけれど、ジュリウスは一切甘えずとことん気丈に振る舞った。

 キッチンとトイレの間のカーテンで隠れた通路は裏口に通じる廊下で、裏口は玄関の役目をしている。そこの階段から二階へ上がると、一軒家の二階と同じ作りだ。少し違うのは、普段利用する水回りが揃っているところ。階段を上がった左側が風呂などで、右が部屋になっている。ジュリウスの寝室は左の奥。廊下の端の小さな窓から入る、微々たる明るさが頼りの薄暗い廊下を進む。

 寝室の広さは六畳。カーテンが閉められた窓が二つ。海貴也の部屋と同じ広さなのに、何故かそれよりも広く感じるのは、家具が極端に少ないからだろう。寝室というように、ベッドと細長いクローゼットと姿見、それから数冊の本が置かれた低い棚と、寝起きするのに最低限の配置だった。

 ジュリウスはベッドに腰を落とし、コンタクトレンズを外して、ベッドサイドの椅子に置いてあるコンタクトケースにしまってから、横になった。ちょっとした物置きになっている椅子には、目覚まし時計と眼鏡と洋書一冊が置いてある。

 室内が冷えたままなので、暖房を付けた。


「カーテン、開けますか?」

「そのままでお願いシマス」


 照明も点けなくていいと言われた。明かりをほしがらないのは、何時もなのだろうか。吊り下げ照明の代わりに、スタンドタイプの間接照明が一つのみだ。晴れていれば、カーテンから透ける太陽光で少しはましだろうが、今日のような天気では外光だけでは心許ない。


「暫くいるんで、何か必要だったら言って下さい」

「アリガトウゴザイマス」


 まだ体調を案ずる海貴也は、ベッドを背凭れにして冷たいフローリングの床に両膝を立てて座る。

 床はわりとキレイだった。海貴也もそうだが、男の一人暮らしは家事が手抜きになりがちなイメージだ。特にジュリウスの場合は店があるから、余計に家事には手を付けられないだろうと思った。でも初めて来た彼の部屋は、雑誌が乱雑に積まれていたり、脱いだ洋服が床に放置されていることもない。他にも部屋があるから本当にそうと決め付けられないが、この余計な物がない寝室を見れば何となく想像はできる。きっちりした性格なのだろう。

 体調管理もしっかりしていそうだが、こんなに具合を悪そうにしているのは初めて見た。店に何回も来ているが、疲れを顔に出しているところさえ見たことがなかった。もしかして、日々の疲労が溜まっていたのだろうか。一人で営業しているのだから、これまでも時々、体調を崩していたのかもしれない。

 暫くいると言った海貴也は気を遣って話し掛けられず、そんなことを考えていた。無音の中で微かに、白波を立て浜に打ち寄せる波音が聞こえてくる。

 ニ分くらい沈黙が流れだろうか。ジュリウスも静かで、眠ってしまったのかと思い始めた。


「────久し振りデス」


 ジュリウスは、寝ながら話し出した。


「え?」

「誰かが側にいるノガ、久し振りデス……。日本に来てからハ、ずっと一人だったノデ」


 海貴也は自分の位置を変えずに、ジュリウスと会話する。


「友達ができたり、仲良しのご近所さんとか遊びに来ないんですか?」

「いません。……人と話すノガ、ちょっと苦手ナノデ」

〈そう言えばこの前、馴染めないって言ってたな。人付き合いが苦手っぽいし、お店もあるから忙しいのもあるのかな〉

「こうして長くお話しするノハ、海貴也サンが初めてデス」


 そう言われて、海貴也の心がちょっとむず痒くなる。他の人とは違う距離で付き合えているんだと思い、密かにニヤけた。

 そう言えばと、もう一つ用事があるのを思い出した。海貴也は、恥じらいながら切り出す。


「……あの。ジュリウスさん」

「何デスか?」

「その……。この前、言ったことなんですけど」

「……ハイ」

「変なこと言って、すみませんでした。男の人なのにキレイなんて言われて、気持ち悪かったですよね。本当、あれは忘れて下さい。オレ、ちょっとおかしかっただけなんで」


 ちゃんと言っておかなければならないことだったので、改めて弁明した。あとは、そうなんですかと言ってくれれば心持ちもスッキリして、変に意識することなく明日からもカフェに来られる。

 簡単な一言で良かったのだが。


「……そんなことないデス」

「え?」

「急に言われテ、少し困りマシタが。嫌ではなかったデス」


 予想していなかった言葉が返ってきた。信じられない海貴也は、座ったまま頭だけを動かし、見えないジュリウスの顔を窺おうとした。


「……本当ですか?」

「何故でしょうネ。誰にもそんな言葉を言われたことがなかったカラ、でしょうカ」


 嘘だろうか。優しい彼だから、自分が傷付かないような言葉を選んだのだろうか、と勘ぐった。でも声色から、あの柔らかな微笑みが想像できた。


「それなら良かったです。オレ、ずっとそれが気になってて来られなかったんです」

「私モ。あれから来なかったノデ、預かったペンケース、どうしようかと思いマシタ」


 ジュリウスもジュリウスで、忘れ物を取りに来ない海貴也を心配していたようだ。

 するとジュリウスは、胸を撫で下ろす海貴也に再び予想外の言葉を掛ける。


「……海貴也サン……もし良かったラ、私の友人になってもらえマセンか」

「えっ。オレと?」


 また想像もしなかった言葉を聞いて、今度は体勢を崩してジュリウスの方に身体全体を向けた。海貴也の心に花が咲く。


「ダメ、デスか?」

「い、いいえ!オレも、引っ越したばっかで仲良い人いないんで。……宜しくお願いします」


 何故か最終的には正座をして、ジュリウスの願いを受け入れた。まさに晴天の霹靂へきれきだが、断る理由なんて何も思い当たらなかった。表情は見えないが、ジュリウスも「良かった」と喜んだ。


「ずっと、こうして話ができる相手が欲しかったんデス。……実は、海貴也サンとお話するようになってカラ、一日を過ごすのが苦ではなくなったんデス。海貴也サンとお話するト…気分が、軽くなっテ───」

「……ジュリウスさん?」


 声が途中で聞こえなくなり、体調が悪化したのかと心配した海貴也は、立って顔を覗いた。見ると、ジュリウスは目を瞑り、小さく寝息を立てている。


「寝ちゃった」


 介抱されて立っていた気が静まったのか、安心したような寝顔をしている。


〈寝顔もキレイだなぁ……〉


 当たり前だが、ジュリウスの寝顔を見たのは初めてだ。知り合ってまだ間もないのに、こんな無防備な姿を見てしまった。嬉しいような、罪悪感に苛まれるような、ちょっと複雑な心境だ。

 それ以上に、ただの顔なじみから友達へのジャンプアップは、ジュリウスと会話ができた時以来の喜びだ。いや、あれ以上かもしれない。


〈まるで、陶磁器で作られた人形みたい。というか、天使だ〉


 海貴也は見惚れた。寝ているジュリウスもキレイだった。キレイと言ったのを撤回したかったが、撤回を拒否されて良かったかもしれない。

 彼は、間違いなくキレイだ。


 数時間後、ジュリウスは目を覚ました。いくらかスッキリして、体調も少し回復した。

 しかし、起き上がると海貴也の姿がない。


「……海貴也サン?」


 視界がぼやけて、はっきりと確認できない。眼鏡を取ろうと椅子に手を伸ばすと、ザラッとした紙の感触があった。ジュリウスは眼鏡を掛けて、スケッチブックの端を破ったメモを見る。


 《よく眠っていたので、帰ります。あまり無理しないで下さいね。明日、様子を見に来ます。───海貴也》


 睡眠の邪魔をしてはいけないと、声を掛けずに帰った海貴也からのメッセージだった。控えめで優しい彼らしいと、ジュリウスは表情を綻ばせた。

 ふと気付くと、休む前よりもカーテンが陽光を透かしている。空を覆っていた雲が切れ切れになり、顔を出した太陽が傾き始めていた。天気予報は、嬉しい方に外れたようだ。

 明日、海貴也が来たら、ミルクティーをサービスしなければ。


 自宅に帰った海貴也は、テレビを観て寛いでいた。

 ローテーブルの上には、缶ビールとつまみの柿ピーと、角が破り取られたページが開かれたスケッチブック。

 さっきスケッチした、ジュリウスの寝顔。この前よりは、少しだけ上手く描けた。




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