第五話
数日後の夜。海貴也はまたスーツを着て、自宅に帰って来た。先日とはまた別の会社の面接を受けて来たのだ。
一社目は残念ながら、“お祈りメール”が少し早めに届いた。結果が出るまで一週間と言われていたが、若干早い結果通告に特別ガッカリはしなかった。就活生だった時にお祈りメールは散々もらっていたから、慣れっこだ。勿論、一発採用の可能性も捨ててはいなかったけれど、過去に自分がデザインした名刺や年賀状を見せても、面接官の心には刺さらなかったらしい。
部屋に入るとすぐに暖房を付け、ジャケットを脱いでネクタイを取った。冷蔵庫から炭酸飲料を出して、乾燥してカラカラだった喉を潤す。シュワシュワ、パチパチする喉ごしが、緊張で溜まったものを浄化してくれる。
「採用されるかな……」
〈と言っても、本当はもう少し条件が良い所がいいんだけど……。前の会社と近い給料が望ましいけど、難しそうだな〉
今回面接した会社は社員数が少ない、まだ設立したばかりの会社だった。給料が希望する金額には少し届いていないが、そこは妥協するしかなかった。経験値は未知数に近いのだから、我が儘は言えない。
しかし再就職は、妥協点を見つけるよりも厳しいものがあった。それは、面接時に必ず聞かれる「前の会社を辞めた理由」だ。海貴也の場合は、ただ失恋しただけの単純で気分的な理由。パワハラや、無理な残業をさせられていた訳ではない。けれど理由をバカ正直に言えば、「こいつは会社をどういう場所だと思っているんだ」と選考もされないだろう。一社目の時にその質問を想定し忘れていて、まさか事実を言える訳もなく、歯切れの悪い理由を述べてしまった。
それで落ちたのかはわからないが、明確な理由を用意しておくべきということを肝に銘じた。多分、寝不足はバレていなかったと思う。
という訳で、今日はそれらしい回答を用意した。やはり同じ質問を受けたので、「自分の内面的なところが原因で周囲に馴染めず、会社にも馴染めなかった。転居したのは、自分に合った環境を求めた為」と答えた。他の受け答えもしっかりできていたと思うので、顔面に「ウソ」と書かれていなければ採用の見込みはありそうだ。因みに、一社目と同じくデザインを見せたが、特にリアクションはなかった。
「結果が出るまで時間があるし、一応もう少し探してみよう」
ふと、テーブルの上に出しっぱなしだったスケッチブックが目に入った。何気なくパラパラと捲ると、ジュリウスの似顔絵を描いたページで止まる。
「……人物画、下手だなぁ」
何時か描いた、仕事中のジュリウスの姿。見るだけではもったいなくて、紙の中にも留めておこうと描いたもの。人物を描くのはずっと苦手だったからいっそう丁寧に描こうとして、何回も描き直した跡が残っている。
平面の中の彼なのに、見たら胸がきゅっと締め付けられた。あの日の一言が脳裏に甦り、胸に手を当て動悸を抑えようとする。
〈またドキドキしてる……。思い出す度に後悔してるよ。恥ずかしくて恥ずかしくて堪らない〉
あの一言を口にしたのを、繰り返し後悔していた。自分でも思ってもみなかったハプニングにジュリウスと顔を合わせづらくなり、店に行きたくなっても我慢している。面接に落ちるよりもずっと落ち込むばかりだ。
〈変な奴って思われたかな。男なのにキレイなんて言う奴、キモいもんな〉
「やっぱ嫌われたかなー……」
そうは思いたくないが、ジュリウスが嬉しそうにしている姿は全く想像できなかった。自信家ではない海貴也には、「アリガトウゴザイマス」と言われるシチュエーションは想像し難い。
「あーダメだ!またネガティブになる!」
頭を激しく振り、ネガティブ思考を振り切る。こういう時は気を紛らわすのが一番だ。
海貴也は着替えてからスケッチブックの新しいページを開き、スマートフォンで撮った写真の中から適当なものをスケッチすることにした。何時もスケッチブックを持ち歩く時に使っているトートバッグに手を突っ込み、ペンケースを出そうとする。しかし、手で探ってもスリムな筒状の愛用品の感触がない。しかも、中を覗いても見つからず。
「あれ?ない。……あっ!」
〈もしかして、あの時……〉
例の日、動揺して早く帰ろうと慌てふためき、テーブルに置き忘れてしまったことに気付いた。しかも鉛筆は全部ペンケースの中で、筆記用具の買い置きは一つもない。全てペンケースにまとめてしまっていたことが、あだとなった。
「まぁ、別に暫くなくても……」
相棒がいなければ何も始まらない。でも、ないからと言って生活には困らないし、ましてや、狼狽えたり禁断症状を発症することは絶対にない。ただの趣味の道具だ。
けれど。
「待てよ?」
〈それでいいのか?カフェに忘れたなら、それを理由に行けるじゃん。……あーでも、オレを見て嫌な顔したり、無視されたりしないかな。外国人って、はっきり言うからなぁ。……でも、ジュリウスさんは優しい人だし、何もなかった風に装えば。もし気にしてたら、「マジで冗談っすよ!イッツ・ジャパニーズジョーク!超ウケるー!」とか言えば!〉
と考え直すが、
「……最初からパリピみたいなテンションできるなら、今こうしてないよな」
何時までもうだうだと薄弱な自分に呆れ、肩を落とし吐息を漏らした。
─────雨。
バタバタと、耳元に届く雨音。
「やだ!いやだよ!やめてぇ!」
薄暗い狭い部屋。
幼い子供が恐怖に怯え、泣きじゃくる。
「やだぁっ!こわいよぉ!」
傍らには、いくつかの黒い悪魔の影。
「たすけて!おかあさん!おとうさん!」
身体の自由が利かない。
喚いても、喚いても、誰も助けに来ない。
「やだっ……やだぁ!」
視界に揺らめく、絶望の光。
そして、
「や……!」
悪魔に捕らえられた子供は─────
「───ッ!」
うなされたジュリウスは飛び起きた。
呼吸が荒い。血の気が引いて、白い顔が真っ青だ。
パジャマにじっとりと汗が滲む。
「ハァ……ハァ………」
呼吸が落ち着いた頃、ザーザーという音が耳元に届いた。
日付が変わる前から降り始めた雨が、強めに降っていた。今月に入ってから初めての雨だ。
窓にチラリと横目をやってから、現実を確かめるように身体を縮めた。
胸の辺りが疼く。もう寝られそうにない。
だから嫌なんだ。雨の日は。
夜の間ずっと降り続いた雨は、朝の八時頃にようやくやんだ。けれど薄灰色の雲はなかなか去らず、天気予報でも、降水確率は夜まで五十パーセントですっきりしない一日になるだろうと言っていた。
朝食を食べ終わると、更なる再就職先探しをキャンセルし、海貴也は折りたたみ傘も持たずに出掛けた。行き先は、ジュリウスのカフェ。
心持ちが何時もと少し違う、カフェへの道。頭の中は、平常通りの自分を演じるシミュレーションに余念がない。
パエゼ・ナティーオは、今日も【OPEN】の看板を出していた。荒れる波音に気付きもせず、海貴也は扉を開ける。
「イラッシャイマセ」
ベルの音のあとに聞こえる、彼の出迎えの声。ジュリウスは、キッチンから顔を覗かせていた。
顔を合わせるのは何時振りだろうと考えてしまったが、あれはつい先週の出来事。そんなに長い日数は経っていない。
「……こんにちは」
はにかみながら挨拶すると、
「コンニチハ」
フロアに出て来たジュリウスも、見慣れた微笑みで挨拶を返した。海貴也はそれに胸を撫で下ろす。よそよそしくされた場合の演技プランも一応考えていたが、どうやら必要なさそうだ。
それは良かったが、何だかジュリウスの顔色が悪く見えた。けれど、元々肌が白いし、入ってくる外光の薄さや店内の照明の具合もあるかもしれないと、あまり気に留めることはしなかった。
「あの。オレこの前、忘れ物してませんでしたか?」
「ありマスよ。ペンケースデスよね」
やはりここに忘れていた。ジュリウスは、レジカウンターの中から預かっていたペンケースを持って来て、海貴也に渡す。「ありがとうございます」と、海貴也はお礼を言って受け取った。
これだけで帰るのも申し訳ないし、折角来たので温かいミルクティーを注文して、何時ものテーブルに座る。
すると、キッチンに戻ろうとしたジュリウスが、躓いたようにガクンと態勢を崩した。
「ジュリウスさん?」
「……大丈夫デス」
レジカウンターに手を掛け、平気そうに振り向いたが、その表情にはほんの数秒前までの爽やかさはなかった。
〈ジュリウスさん、やっぱり顔色悪いよな……〉
何時もシャキッとしている姿勢も僅かに猫背で、心なしか足取りも少しふらついて見える。再び気になる顔色に気を留めながら、席でミルクティーが運ばれて来るのを待った。
二つ奥の席には、顎髭を蓄えた白髪混じりの男性がいる。目を閉じ、本屋のカバーが掛かった本を放置して、有線のジャズに耳を傾けているようだ。テーブル上の指がリズムを取っている。海貴也は、気分良さげなその男性を密かにスケッチしながら、何時もの香りが近付いて来るのを待った。
そろそろだと思った時、曲を掻き消すくらいの音が響き渡った。座っている二人の視線が、同時に一ヶ所に集中する。
トレーから滑り落ち砕け散った、白いティーカップとソーサー。床を濡らすミルクティー。
海貴也の目の前で、ジュリウスが突然倒れた。