第四話
海貴也が引っ越して来て、一ヶ月が経つ。新しい町の暮らしにもだいぶ慣れてきた、そんなある日の昼前。海貴也は就活以来のスーツに袖を通していた。
今日は、ハローワークで見つけた会社との面接がある。それなのに、寝不足気味という最悪のコンディション。
久し振りの面接の所為で昨夜はいささか緊張していて、なかなか寝付くことができなかった海貴也は映画のDVDを観てしまった。結局、寝たのは午前四時。何で観てしまったんだろうと、起きてから後悔した。しかも、緊張感のバロメーターは昨夜とほぼ変わらない。
就職活動をしていた頃が、ついこの間のように感じる。鏡の中のピシッとした格好をした自分の姿に、周りに置いて行かれないかと心労で胃をキリキリさせていた当時を思い出す。
戦闘服を纏えばシャキッとするかと思ったけれど、幾度も大口が開かれる。絶えない開口を止めるように、緑色のネクタイを締めて気を引き締めた。
面接の時間にはまだ余裕があるので、駅近くの駐車場に車を停めて、駅前の定食屋で昼ご飯を食べることにした。
〈初めて来たな。この定食屋さん〉
実年夫婦が営む、地元住民に長年愛されている定食屋。時間が昼時ということもあり、近くの工事現場で働くガテン系の男たちや、近所の男性客らが十人ちょっといて、うまい食事にありついている。
海貴也は空いていたカウンター席に座り、壁に貼られたメニューを見渡す。
〈何にしようかな……〉
シミが目立つ年季の入った店内の壁には、茶色く変色した手書きの短冊形メニューが列を成している。定番の生姜焼き定食や親子丼などの丼ものに、洋食や中華。更には、からあげやほうれん草のおひたしなどの一品料理まで、割安で設定された数十種類のメニューが貼られている。
どれもおいしそうで、あちこちから漂う良い匂いが鼻腔を刺激する。今の腹の具合なら、どれを選んでも満足しそうだ。
「アンタ、見ない顔だな」
メニューに迷っていると、二つ隣の席で、ダウンジャケットを着たまま焼きサバ定食を食べている男性に声を掛けられた。自分のことか?と振り向くと、睨まれていると勘違いしてしまいそうな視線がこっちを向いていた。海貴也はつい身構えてしまう。
「……あ、はい。最近、引っ越して来たので」
「Iターンとか、Uターンてやつか?」
「まぁ、そんな感じで」
彼は箸は止めずに、食事を進めながら横目で海貴也の服装の上下を見る。
「この辺に、スーツで行くような会社とかあったか?」
「あ……。いいえ。これから、就職の面接に行くんです」
「そうなのか。なら、験担ぎでとんかつだな。ここのは美味いぞ」
彼も常連らしく、メニューを決めかねていた海貴也にとんかつを勧めた。取っ付き難そうな人だけれど、常連客が言うならば間違いないだろうと、海貴也はとんかつ定食を注文した。
間もなくしてかつが揚げられる音が聞こえ、二十分ほどして海貴也の前にお膳が置かれた。こんもりと盛られたキャベツの千切りを枕にするように、良い具合のきつね色に揚げられたとんかつ。味噌汁はシンプルに豆腐とわかめで、きゅうりと大根の漬け物付きだ。
海貴也は衣にソースを掛け、白米との相性を確かめるように食す。薄ピンク色になったやわらかい赤身、甘い脂、ソース、そして白米が、口の中で一体となる。彼の言った通り、とんかつにして間違いなかった。
海貴也が食べ始めてすぐに、勧めてくれた男性は席を立った。
「んじゃ、面接頑張れよ」
「ありがとうございます」
初対面で、しかも今後の交流はないに等しいのに、帰り際にエールを送ってくれた。印象は良いとは言えない知らない人ではあったが、ちょっと勇気をもらえた。
〈ちょっと苦手な感じの人だったな。でも、見ず知らずなのに応援してもらったし、面接頑張ろ〉
無事に面接を終えた翌日。海貴也はこの日も、ジュリウスの所で息抜きにスケッチをしに来ていた。
今日の気温は、やっと寒気が本気を出してきたおかげで一段と寒く、その所為か店内に海貴也以外の客はいなかった。確かにこんな寒い日は、暖房が利いた部屋で温かいお茶とみかんでまったりしたくなる。
今週の週替わりのケーキは、みかんとクリームチーズのタルトとフルーツロールケーキ。何時もの席で過ごす海貴也は、タルトとミルクティーを傍らにスケッチブックに鉛筆を滑らせる。
「何を描いてるんデスか?」
「わあっ!びっくりしたぁ」
キッチンにいると思っていたジュリウスがいきなり声を掛けてきて、集中していた海貴也は見事に驚いた。
「スミマセン……。何時もスケッチしてマスね」
「あそこのパンジーを描いてたんです」
扉の横に、鉢植えの中で可愛らしい黄色いパンジーが健気に咲いている。
「描くの、好きなんデスか?」
「小さい頃から、絵を描くのは好きだったんです。今は習慣みたいな趣味になってますけど、仕事に役立てばと思って続けてます」
「そうなんデスね。私はあまり得意ではないノデ、素敵だと思いマス」
「あ、ありがとうございます……」
ふいに「素敵」なんて言われた海貴也は、含羞して目線を落とした。ただの何気ない会話の一端なのに、何故だか嬉しい。
「何処かで、勉強されたんデスか?」
「はい。美大に行ってたので」
「凄いデスね。ということは、芸術方面でお仕事をされてるんデスか?」
ジュリウスの素直な推理でそう聞かれた海貴也は、「違いますよ!」と手を振り慌てて否定した。確かに、美大を卒業していてスケッチをよくすると言われたら、単純な回路を辿ればそうなるだろう。そこまで上手くないのは自身でもわかっているが、その勘違いはちょっとだけ嬉しかった。その証拠に、口元が喜んでいる。
「これは本当に趣味なので……。でも、当たらずといえども遠からずというか。オレ、グラフィックデザイナーなんです。前は、広告の会社で仕事をしてました」
と言っても実務経験は浅く、見習いであるアシスタントデザイナーだった海貴也はクライアントからの案件を任せてもらえたことはない。基本的には先輩デザイナーの下で資料探しや校正作業、雑務などをこなす日々。半年ほど経ってから少しずつ、名刺のデザインなどの実務をやり始め、先輩に混じって社内コンペにも提出したことがあるが、結果は言うまでもない。
自分にははっきりとした実績がないし、本当にグラフィックデザイナーという仕事が自分に向いているかは未だにわからない。それでも広告制作会社に再就職を希望したのは、それはやはり、海貴也が絶対にやりたい仕事だからだ。
「広告のお仕事デスか。デモ、何故お引っ越しヲ?転勤デスか?」
尋ねられ「そうじゃないんですけど……」と、海貴也は回答を濁そうとしたが、信頼が置けて心を許せるジュリウスならと、少しだけきっかけを明かすことにした。
「会社に付き合ってた人がいたんですけど、ある日急に、相手との間に子供ができたから別れてくれって、一方的に言われて……。その人が既婚者なのを、知らなかったんです。不倫だったことがショックで、気持ち的にもリセットしたくて。だから、会社辞めて引っ越したんです」
「それハ、辛かったデスね……」
海貴也の心情を推し量るジュリウスは、眉尻を下げた。
切ない瞬間の断片を呼び起こしてしまった海貴也は、ほんのり甘いミルクティーで流した。
「結果的に、引っ越して来て良かったです。静かでのんびりしてて、前いた所とは違う生活のリズムが意外といいかも。こんな良いカフェも見つけられて、ジュリウスさんとも知り合えたし」
「……私に会えたことハ、良いことデスか」
〈ジュリウスさん……?〉
海貴也は正直なことを言ったつもりだが、ジュリウスは何時もの微笑みを見せるどころか、独り言みたいに蚊の鳴くような声で呟いた。
会話をしている時のジュリウスは、度々あの印象的な哀愁の瞳をちらつかせる。それと、胸の辺りに手をやる仕草をする。決して悲しい話や、彼を傷付けるようなことは言っていないのに、ジュリウスの表情は曇りがちになる。
一時的に消えていた引っ掛かりが甦った。気になる海貴也だが、また不躾な質問になってはいけないと踏み込めずにいた。
「……何故、ソノお仕事を選んだんデスか?」
薄曇った表情はすぐに晴れ、ジュリウスは話の続きを切り出した。
「昔から、広告の仕事に興味があって。ジュリウスさん、アメリカの赤いスープ缶の絵って知ってます?」
「アンディ・ウォーホル?」
流暢な日本語をしゃべっていた口から、主音声が切り替わったように突然ネイティブの発音が飛び込んで来て、耳が驚いてしまった。今のは確実に「Andy Warhol」だった。
「中学の時に家族でアメリカ旅行に行った時、美術館で作品を見て衝撃を受けたんです。一見何の変哲もない缶の絵が、こんなに世界に影響を与えてるのかって。将来はイラストレーターとか、そういう仕事をできたらいいなって思ってたんですけど、あれを見た時、オレも心の琴線に触れるものを描きたいって思ったんです」
「では、夢が叶ったんデスね」
「まだ叶ってませんよ。まだ一つも作品を作ってないし。……でも何時か、雑誌の小さな広告でもいいから、印象に残るものを作りたいんです。目に留まったのが例えたった一人の誰かでも、その人にとって何かのきっかけになったり、忘れられないものになるような広告を作りたい。そして、できれば将来は独立して、小さくても自分の会社を持てればな……と」
夢を語る海貴也は目を輝かせ、生き生きとした表情だ。引っ込み思案で、ジュリウスに話し掛けるのすら戸惑っていた彼とは思えない。その内側を覗けば、煌々と力強く灯る、何者にも打ち消すことのできない固い意志があった。
「……凄いデスね。海貴也サンは」
ジュリウスの表情が、また陰を落とした。まるで、夢に真っ直ぐな海貴也に心劣りを感じているような面持ち。だが、自分の夢を語って気分が高揚した海貴也は気付かなかった。
「全然。まだ駆け出しですよ。オレよりも、ジュリウスさんの方が凄いです」
「私デスか?」
「日本語を独学で勉強して、知らない国に来て、しかも一人でお店をやってるなんて。オレには無理だ。絶対できないです」
「そんなことないデス。私は全然、凄くなんかないデス。周囲に馴染めないこんな私なんかヨリ、海貴也サンの方が凄いデス」
海貴也が褒めても、ジュリウスは目を伏せて謙遜した。───いや。謙遜ではなく、自己に否定的な感情が含まれた自虐だ。
私なんかと否定的になられて、余計に海貴也は引っ掛かる。もしかしたら自分に自信がないのだろうかと、文脈から推測した。
自分と似ていると、ずっと思っていた。海貴也も、語る夢以外は自分に自信がない方で、否定的になるジュリウスの胸間もわからなくはなかった。自分より八年、人生を多く歩んでいるその過去に色々あったのかもしれないと、安易に考えた。
すると、放っておけなくなった海貴也の中の、入れたことのないスイッチが入った。
「大丈夫ですよ!もっと自分に自信を持って下さい!ジュリウスさんて、トリリンガルじゃないですか。英語にイタリア語に日本語。三ヶ国語をしゃべれるなんて、凄いことですよ。あと、行動力もあると思うし。それから……ジュリウスさんは、敬遠されるような人じゃないってわかってます。実際話せば、ジュリウスさんの良さってわかると思うんですよ。その、何て言ったらいいんだろ。他の誰とも違うっていうか、唯一無二っていうか、かぶる人がいないっていうか……」
〈どれも同じだよ!〉
「それに、魅力があるというか……。そう!ジュリウスさんは、キレイなんです!だから……」
「エ?」
「え?」
ジュリウスが前向きになるように、とにかく思ったことを懸命に並べ立てた。その途中で聞き返されて、海貴也はおうむ返しをする。励ましに夢中になりすぎて、また失態を犯したのかと思った。けれど、ジュリウスは眉頭を寄せておらず、リモコンで一時停止したようにあ然と海貴也を見ている。
「私が、キレイ?」
ジュリウスが再び問い返した。良かった、怒らせた訳ではなかったんだ。ホッと胸を撫で下ろしたが、自分が発言した「キレイ」の一言に気付くと、その安堵がどんどん焦りに変わり、途端に顔面を羞紅させた。
「……あっ!いや!その。そうじゃなくて!いや、そうなんですけど!…あっ、それも違くて!だから、えっと、何て言うか……」
暴言を吐いた訳でも、憤慨させた訳でもないのに、慌てた海貴也は言い訳をしようとしどろもどろになる。目を泳がせている様は、何もしていないのに警察に職務質問されて動揺する小心者のようだ。真冬なのに汗が止まらない。
「ごめんなさい!男の人にキレイなんて、おかしいですね!ははっ。何言ってんだろ、オレ。今のは忘れて下さい!」
今にも顔から発火しそうで、もうジュリウスの顔をまともに見られなかった。居たたまれなくなった海貴也はスケッチブックを急いでしまい、ドリンク分の代金を乱暴にテーブルに置いた。
「やることがあったの忘れてたので、今日は帰ります!ごちそうさまでした!」
適当な嘘を吐いて、ジュリウスの見送りさえ拒むようにバタバタと店を出た。
〈何であんなこと言ったんだろ!恥ずかしい!恥ずかし過ぎて死にそうだ!もう行けない。ジュリウスさんの顔見れないよ。……あー、まだドキドキしてる!〉
まるで海貴也の顔色を真似したような空色の中、逃げるように帰路を歩く。薄暗く寒い針葉樹の小路も、冷却剤の代わりにはなってくれない。
ジュリウスが周囲に馴染めないと言ったのは、彼を敬遠した人から遠巻きに扱われて、孤立することが多かったんだろうと想像した。彼と接してみると、接客は仕事だから割り切れているようだが、それ以外の対人だと消極的なようだし、きっと日本に来たばかりの頃に少し辛い経験をしたんだろう。そう思って肯定的な意見をして、そう接したであろう人たちのことまでフォローしようとした。勘違いしたままではいけないと思ったから。
そう。だから今言ったことは、ジュリウスに対して海貴也が思っていることでもある。本当に彼は尊敬する。でもまさか、恥ずかしいことまで言うとは自分でも想定していなかった。口が滑っただけだった。
早く忘れたい。何が何でも忘れて冷静になろうと必死になる。それよりも再就職先を決める方が大事だと、頭を切り替えようと意識する。
足早で歩いていた海貴也に、真冬の冷たい風が吹き付けた。一瞬、興奮が冷却され、影が長くなった道端でふと立ち止まる。
〈……そう言えば今まで、『キレイ』なんて言ったことなかったかも……〉
想定外の言葉だった。けれどそれも、嘘で飾った言葉ではなかった。
一方の、あ然としたまま取り残されたジュリウスは、海貴也が帰ってもその場に立ち尽くしていた。
────ジュリウスさんは、キレイなんです!
耳に残った、海貴也の声。他の羅列された言葉たちを、消し去った言葉。録音したように、それだけが何回もリピートされる。
「……」
初めての感覚が、身体の中心で生まれた。
ジュリウスは、静かに自分の胸に手を置く。
掌に伝わる、穏やかな波。遠くに聞こえる、さざ波の音。
それは、初めてだけど心地良い、宝物のような音色だった。