第三話
必要な手続きなどが済んで落ち着いた海貴也は、市街地のハローワークで仕事を探し始めた。
ハローワークを利用するのは初めてだったが、親切な係員に案内してもらい、何日間か通って希望する職場をいくつかピックアップし、その中から面接を申し込んだ。
希望する再就職先は勿論、以前と同じく広告制作会社や広告代理店。一応、企業の宣伝部なども選択肢に入れた。雇用形態も、契約社員ではなく正社員一択にした。
新しい職場ができると思うと、海貴也は少しだけ憂鬱だった。職場の空気に馴染めるかどうかや、人間関係が再構築される煩わしさも少なからずあるが、人付き合いをうまくこなせるかが一番の憂慮する点だった。
昔、ある出来事が発端でクラスメートとの付き合いが難しくなったことがある。それから海貴也は人付き合いの方針を変え、今もその方法でやりくりしている。“消極的で受動的に馴染む”。問題点は特にないと思い、積極的に継続中である。
ハローワークが休みの今日は、久し振りにパエゼ・ナティーオに訪れた。来たいと思っていたけれど、再就職先を探す方が優先だったから控えていた。
行かなかった間、度々思い出すジュリウスの瞳が何故か心に引っ掛かり続けた。ハローワーク通いの合間にも二回カフェに行ったけれど、この引っ掛かりの原因はわからなかった。
その時にも話し掛けて、店は一人でやっていることを知った。最初は緊張したが、一度言葉を交わしていたおかげか、それまでの不審者感は出ていなかった。
自分でも、この前よりは落ち着いているのがわかったから、他にも質問した。
「何処の国から来たんですか?やっぱり、ヨーロッパから?」
「エ……」
それを聞いたジュリウスの表情が、若干曇ったように見えた。そのまま順調に会話が続くと思ったが、ほんの僅かに拒むような空気を醸し出されたことを海貴也は気付いた。
「エェ。……まぁ、そうデスね」
ジュリウスは顔を背けてそう答えると、そそくさとキッチンに戻ってしまった。会話はそれで終わってしまった。
〈どうしたんだろう。詮索されたくなかったのかな……〉
また話せたことが嬉しくなって、少し調子に乗ってしまったのかもしれない。前回も同じことをして反省した筈なのに、また間違えてしまったのだろうか。何時もはアプローチされる側だから、アプローチをする方法がいまいちわかっていなかった所為だなと、海貴也は重ねて反省した。
それから、完全に顔を覚えられた。それは帰る直前。会計が終わった時に、話し掛けられた。初めて見る顔だっから、逆に簡単に覚えられてしまったようだった。
「えっ。覚えてたんですか?」
「覚えてマス。初めて見るお客さんだったノデ」
「あ。そっか……。初めて来た日に、この町に引っ越して来たんです」
「そうなんデスか。これから宜しくお願いシマス」
「お、お願いします」
なんて、お互いに挨拶した。驚き過ぎて、丁寧に頭を下げてしまった。
顔を覚えられるのが嫌だった海貴也は恥ずかしくなったが、不思議と嫌な気はしなかった。寧ろ、話し掛けられたことが嬉しくて、何だか気持ちがふわふわした。ジュリウスも優しそうな人柄で、もっと話してみたいと思った。
だから、次の日にも行ってしまった。その日は、何年前から日本にいるのか聞いた。ジュリウスは、日本に住み始めて三年目だと言った。その前から数回に渡り、物件探しをする為に日本に来ていたらしい。それから、何でそんなに日本語が上手いのか聞いた。日本に行くことを決めてから、日本の映画やドラマを観て独学で勉強したと言った。好きな日本語を質問すると、「許可」だと答えた。どうしてかと問うと、響きがかわいいからだとジュリウスははにかんだ。
またある日は店名の由来を聞くと、「離れても何時でも戻れる故郷を忘れない」という思いで付けたことを聞いた。あとはフルネームも聞いたり、客がいない時にはたまに読書をしていたので何を読んでいるのか聞くと、洋書を読んでいるらしく、ヒューマンドラマが描かれたものが好きらしい。出身国も改めて聞いてみると、イタリアだと答えてくれた。
通っていたら何時の間にか緊張もなくなり、二人だけになっても耳に入ってくるジャズが心地良く感じるようになった。そして趣味のスケッチの時には、こっそりジュリウスを描いたりもした。これは秘密だ。
ジュリウスに顔を覚えられたのも、彼と話せるのも嬉しくて、三週間近く経った今は顔馴染みということも意識せず、お互いに笑顔を交えてナチュラルに会話ができるようになった。
休日の夕刻前のパエゼ・ナティーオには、読書をするロマンスグレーの男性一人と、同じく読書に耽る三十代くらいの女性が一人いた。海貴也は定席の窓際の席に座り、ホットミルクティーを傍らに、今日も持って来たスケッチブックに窓から見える風景を描き始めた。
絵を描くのは昔から好きで、今は仕事の役に立てばと時間を見つけるとスケッチをしている。対象は特に決めておらず、風景だったり物だったりその時の気分で決めている。
スケッチをする視線は外を見ていたが、その向く先は時たまジュリウスの方にも向けられた。彼は今日も、食器を磨いたり備品を整理したりと手を動かしている。やっぱり引っ掛かりの原因はわからずじまいで、あまり気にならなくなってきた。
暫くして、眩く輝いた太陽が海に近付き始める。読書をしていた二人の客は、女性男性の順番で帰って行き、店内で二人だけになる。海貴也とジュリウスは、また他愛ない話をし始めた。
「頼れる人もいないんじゃ、きっと最初は大変でしたよね。でも三年も住んでいれば、もう日本での生活は慣れたんじゃないですか?」
「そうデスね。最初は、家の中で靴を履かない文化は落ち着きませんデシタけど」
「それじゃあ、土足で?」
「イイエ。慣れようと思って脱いでマシタ。一ヶ月くらいすると段々慣れテ、裸足で過ごすのはもう普通になりマシタ」
そんな雑談の途中でジュリウスは、「アノ……」と何やら切り出しづらそうに言葉を途切れさせた。
「今更なんデスが…お名前、聞いても……?」
「あれ。言ってませんでしたっけ?」
自分が彼の名前を知っていた所為か、海貴也はすっかり自己紹介をした気でいた。今日までの記憶を遡ってみると、確かに名乗った覚えがない。
「すみません。うっかりしてました……。オレは、佐野海貴也って言います」
「サノ、サン……」
「海貴也でいいですよ」
「ミキヤ、サン」
自分で下の名前でと言っておきながら、呼ばれた海貴也はくすぐったくなって耳を赤くした。
「あ。そだ」
海貴也は鉛筆を手に取ると、スケッチブックの端にフルネームを書いた。折角なら、自分の名前を漢字で覚えてもらおうと思い、書いて見せた。
「漢字、わかります?オレ、名前に『海』が入ってるんです」
更に、漢字に不慣れだったらわかりにくいかと思い、目の前の海を指して言った。すると、ジュリウスは「Ah」とリアクションし、「良いお名前デスね」と微笑んでくれた。
「私、海が好きデス。海を眺めると心が穏やかになっテ、故郷を思い出したりシマス。どんなに遠くテモ、海で繋がってマスから」
そう言うジュリウスは、目を細めて表情を柔らかくし、黄昏時が近付く海を眺めた。
やはり遠い異国にいると、祖国を思い出して恋しくなってしまうのだろうか。知り合いもいないこの国でたった一人でいることは、きっと心細くなる日もあっただろう。
自分にはない勇敢さを持ったジュリウスを、海貴也は少し羨ましく思い、尊敬もした。けれどその瞳には、誇らしさの欠片もなかった。
故郷を恋しく思っているのではなく、そこには、哀感を思わせる深い夜の色が映っていた。
その日の夜は、買ってあった食材で夕飯の準備をして、テレビを観ながら食べた。今日はわかめと豆腐の即席みそ汁と、野菜たっぷりの焼きそばだ。
晩ご飯を食べ終わって片付けていると、親しかった元同僚からメッセージが来た。
「新生活はどうだ?慣れた?」
「それなりに。行きつけもできたし」
「早くねw」
「前行ったカフェが良い感じで、もう何回も行ってる」
「写真のあの店か?いいじゃん!」「そう言えばうちのディレクター、最近ちょっとらしくない。仕事はバリバリこなしてるけど」
それは、元上司のことだとすぐにわかった。海貴也は「珍しいな。体調不良じゃないといいな」と、気に掛けるメッセージを返した。
世話になった上司を心配していそうな文言だが、送られて来た文面を読んだ海貴也の面持ちは、何やら複雑なものだった。
その上司が人望がなかったり高圧的だったり、ハラスメントがあった訳ではない。元は海貴也と同じグラフィックデザイナーのその上司は、仕事に真っ直ぐで、時には企画会議で興奮して口が悪くなる場面がたまにある。しかし、多くの企画を成功させる立役者である彼は、部下たちから尊敬される存在だ。
ただ海貴也にとっては、心から縁を切ってしまいたい存在ではあった。