第ニ十五話
時間は過ぎ、春の太陽は黄金色に輝きながら、岬の端の巨岩の向こう側に沈みゆく。澄んだ青空を自分の色に染め、海に金の帯を揺蕩わせ、一日の幕引きを演出している。
花見は、少し前に切り上げられた。恭雪は、翌日の仕込みがあるからと言って仕事に戻って行き、海貴也とジュリウスもバスケットやレジャーシートを片付けた。
これで解散かと思った海貴也だったが、「砂浜に行きませんか?」とジュリウスに誘われ、短い階段を下りて柵の向こうの砂浜に下りた。
カフェの中からしか見たことがなかった、白いプライベートビーチ。誰の足跡も付いていないまっさらな砂浜は、特別に用意された空間のようだ。
ようやく邪魔者がいなくなってせいせいした心持ちで、海貴也はジュリウスと並んで腰を下ろした。
「お花見できて、良かったですね」
「ハイ。楽しかったデス。来年は是非、早咲きの桜を見に行きマショウ」
「そしたら、お弁当持って行きましょうよ。準備、オレも手伝うんで」
「そんなに料理はできないけど」と付け足すと、ジュリウスは微笑した。了解した上で、その時はお願いしますと頼んだ。
「そう言えば。本を読む約束も、ダメになっちゃいマシタね」
「あ。そうでしたね。また今度、付き合ってくれますか?」
「勿論デス。デモ、どうして洋書を読み始めたんデスか?」
「どうして?……えーっと。そうですねー……」
明後日の方向へ視線を向ける海貴也は、しまったと思った。理由が恥ずかしいからなるべく聞かれたくなかったのに、適当な嘘も用意していない。
でも、はぐらかしても、きっとそのうちまた聞かれてしまうんだろう。こんな些細な秘密の告白を先延ばししても、何も得にならない気がする。
意味のない足掻きだと諦めた海貴也は、照れながらも白状を決めた。
「……ジュリウスさんが時々読んでるのを見て、読んでみたくなったんです。二人で話す時、同じ話題があればいいなって。でも慣れてない所為で、上手く読み進められなくて」
「因みに、何を読んでるんデスか?」
「有名な、イギリスのファンタジーのやつです。知ってるやつだからと思って軽い気持ちで読み始めたら、ちょっと後悔しました」
頭を掻きながら話す海貴也に、ジュリウスはクスッと笑った。
「私も日本語を勉強し始めた時は、続けられるか心配になりマシタ。発音も漢字も難しいデスし。デモ自分の為になったノデ、頑張って良かったと思ってマス」
「物凄く流暢だから、初めは本当にびっくりしましたよ。会話もスムーズだし、日本に住んでかなり長いのかと思いました。ジュリウスさんの努力の賜物ですね」
「アノ頃は、目的の為に勉強も仕事も頑張りマシタ。あんなに何かに没頭するノハ、初めてデシタ」
趣味と言えるのは読書くらいで、小学生の時から勉学にも励んでいたが、将来の為という漠然とした動機だった。
経営に興味を持ったのは、十代半ば。それからは将来を見据えて学業に一層専念し、合わせて語学力も身に付けた。自分でも不思議なくらい夢中になり、抱いた夢しか見えていなかったほどだ。これを機に変われるかもしれないという希望を信じていたから、逆境に置かれようとも気力を奮い立たせられた。
夢を見つけた我が子の輝きは、彼の将来が気掛かりだったサルヴァドーリ氏も目を細めて喜んだ。遠く離れてしまうことは切なく感じたが、自らの意志で異国へ旅立つジュリウスを、目頭が熱くなる思いで見送った。
海貴也はまた凄いと褒めるが、そんなことはないと、やはりジュリウスは謙遜した。
「難しそうな夢を達成できてるんだから、凄いですよ。日本には、謙遜は美徳みたいなとこありますけど、褒められて嬉しいと思ったら素直に受け入れてもいいんですよ」
海貴也がそう言うと、ジュリウスは「ハイ」と気恥ずかしそうに戸惑いを見せた。
「因みに。日本でお店を出す夢を実現した今は、次の目標って何かあるんですか?この前言ってた、生まれ変わりたいの他で」
「目標、デスか。……そう言えば、考えてなかったデス」
「何かやりたいこととか、欲しいものはないんですか?カフェを大きくしたいとか」
「………」
海貴也の問い掛けに短く沈黙すると、考えたジュリウスは言った。
「今は、このままでいいデス。今はまだ、出発したばかりナノデ」
ジュリウスがそう言ったのは内向的な面からではないと、海貴也にはちゃんとわかった。何故なら、その面持ちがこれまでと違うから。
今はまだ、ジュリウスの世界に新たな曙光が射し始めたばかり。だから焦らず、時には止まることに臆病にならず、飛ぶ代わりに歩みを進めて行けばいい。どこか安堵している心情もそこにはあった。
「そうですよね。お店の経営は、無理せず現状を維持するのも大事ですもんね。でも、ちょっと心に余裕が出てきたら、先のことを考えてもいいかなと思いますよ。新しい目標を立てれば、何があったとしてもきっと、また前向きにやっていけますよ」
海貴也は悪気もなくフラグが立ちそうなことを言うが、ジュリウスは全く気に留めず「そうデスね。何か考えておきマス」と、向上心も甦ってきたようだ。
「海貴也サンはどうですか?」
逆に、ジュリウスから今後の目標を尋ねられた。遠くに夜の気配を感じる空に浮かぶ綿雲を、海貴也は何となく見遣った。
海貴也が引っ越して来た目的は、失恋の痛手を癒すことだった。それは完全に果たすことができたので、次へ進む為の目標を考えてみる。
「やっぱり、仕事ですかね。実務の積み重ねも大事ですけど、一日でも早く自分が作った作品をたくさんの人に見てもらいたいです」
「小さくてモ、何かのきっかけや忘れられない広告を作りタイ。───デシタよね」
「覚えてたんですか」
「きっと海貴也サンなら、素敵なものを作れマスよ」
少し胸がむず痒くなりながら、海貴也は「ありがとうございます」とお礼を言った。でも、海貴也の新しい目標はそれだけではない。
「あと、これも本命なんですけど。ジュリウスさんの手助けをしたいです。カフェの手伝いとか、オレにできることがあったら遠慮しないで何でも言って下さいね。ジュリウスさんの為に、できるだけ頑張りますから」
ジュリウスの為にできるだけ頑張ると、海貴也は意気込んだ。一番の理解者になりたいと願っていた。
こんなに意欲的になるなんて、数年振りだった。上辺だけの付き合いを当たり前としてきたのに、好きな人の為だと思うと自然に行動力が増していく。未知の経験に、自分が自分じゃないような感覚を覚えている。
ジュリウスだけでなく、海貴也も自分の生き方を見直す機会となった。彼との出会いで、錆び付いた古い殻を捨てられたのだ。
「アリガトウゴザイマス。海貴也サン」
頼ってもいい存在がいることで、こんなにも心穏やかでいられるんだと思うと、ジュリウスは胸が温かくなった。
慣れない国で、肩に無駄な力が入っていたのかもしれない。変わらなければと気負い過ぎて、自分自身の重圧に耐えきれなくなっていたのだろう。
けれど、良き理解者となろうとしてくれる味方が現れ、日陰に隠れなくてもいいのだと教えてくれた。そんな彼に、ジュリウスは感謝の気持ちを返したいと思う。
「───アノ……。好き、と言ってくれたことなんデスが……」
「あっ。…は、はい」
数日前の告白を急に蒸し返され、海貴也は瞬時に緊張する。
あの時は何とか落ち着いて告白できたが、帰り道は押さえていた緊張の反動で、自分で穴を掘って入りたくなるほど顔面が火事になった。告白がこんなに心臓に悪いものだと、身をもって知った。
「恋の感覚がわからなくて、ちゃんとお返事できないんデスけど、本当に嬉しかったデス」
「えっ……。ほ、本当ですか?」
〈良かった……。あれから何も言ってこないから、なかったことにされたのかと思った〉
「同性の人からの告白ナノニ、何でかワカラナイんデスけど、嫌じゃありませんデシタ」
キラキラ輝く波間を見ながら、その眩しさに目を細めるジュリウスは、口元を少し緩めていた。
その否定ではない言葉が意外だったからなのか、夕日に照らされた彼の横顔がキレイだからなのか、海貴也の心臓が少し飛び跳ねた。
鼓動が、何時もより少し速く波打つ。
緊張の鼓動。
恋の音。
隣のジュリウスは、どんな音を奏でているのだろうか。同じ音を奏でていないかと、期待したくなる。
同じ時間、同じ景色を、好きな人と共有する喜び。
それだけでいい。今はまだ、その喜びを感じるだけでいい。
でも、この純粋な気持ちを、噛み締めたい。
ほんの少し、海貴也に欲が出てきた。
「……あの。ジュリウスさん。……手、握っちゃダメですか?」
恥ずかしくて、ジュリウスを見ては言えなかった。
「エッ……」
「あっ。嫌ですよね。すみません、図々しいこと言って。聞き流して下さい」
しかし、ジュリウスの僅かな心の揺れを感じ取り、すぐに撤回した。気が急いて、また自己満足の選択をしそうになってしまった。
すると。
「………いいデスよ」
「えっ」
驚いて振り向いた。そうしたら、ジュリウスがはにかむようにこっちを見ていた。
「大丈夫デス。海貴也サンなら」
そして、前で組んでいた手を解いて、白いハンカチが砂の上にふわりと落ちるように、海貴也との間に左手を置いた。
「………」
触れることを許してもらったが、いざ触るとなると緊張が増して手が出せなかった。彼には一度触れている筈なのに、無理をしていないかと心配になると、手を伸ばせなかった。
ジュリウスの手は、白い砂の上で自然に待っている。視線は砂浜に落とされていて、覚悟をしたというよりは、迎え入れようとしている穏やかな面持ちだった。
迷った海貴也は、ジュリウスと同じく体育座りで組んでいた手を解き、躊躇いながら右手を伸ばす。
ニ十センチくらいの近い所にあるのに、やけに遠く感じる。牴牾しい。
少しずつ少しずつ近付けて、海貴也はそっと、ジュリウスの手の甲に手を重ねた。
遠慮して、握ることはできなかった。しかも緊張した手は、マネキンのようになっている。
「……平気…ですか?」
「……ハイ。平気デス」
ジュリウスは不思議だった。あんなに触れられることが嫌だったのに、すんなりと受け入れられている。理由はよくわからないけれど、きっと海貴也だからなのだろうと、曖昧に思った。
「……人の手ハ、こんなに温かいんデスね」
ずいぶん昔に忘れてしまった、人の温もり。そして、誰かが側にいるという、当たり前の日常。月日が経つ毎に手放してきたものを、今度は日毎に取り戻していく。
怖くはない。臆病にならなくてもいい。だって、もう大丈夫だから。
海貴也は横目でジュリウスの表情を見て、こそばゆくなる。
失恋を忘れたくてやって来た、知らない町。馴染めるかもわからないし、再就職のことや失恋がリセットできるか不安だった。
けれど、不測の出会いで曇天が晴れた。新しい日々。そして、新しい恋。想像よりも上をいくリスタートが切れたのは、この町にジュリウスがいたからだ。
小波の音は心を穏やかにし、優しい潮風が二人の肩を包み込むように撫でる。
春を迎えたばかりの夕べの空気は、まだ少し冷たい。でも、少しずつ暖かくなっている。
海の向こうに、太陽が消えていく。
同じ方向を見る二人は、今日の終わりではなく、その先を共に見ていた。
季節は移ろい、心寂しい冬から、春へ。
おわり
(8/4 修正)
はづき衣緒です。「苦労性な彼との付き合い方~ファーストコンタクト編~」を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
ここでは、ちょっとした補足とかをさせて頂きます。
まず、作品の中にいくつか花が出て来ていますが、そのシーンに合った花言葉を持った花を出しています。前に活動報告でもちょっと書いたんですが、登場人物の心情などを表現しています。普通に心情を書くだけではなくて、何か“色”を足したいと思って使用しました。もし気になったら調べてみて下さい。因みに、最後に出て来たオオシマザクラは特に意味はないです(笑)
アルビニズムについても、また情報が中途半端な状態だと思うので、タンザニアの彼らの歴史とか新たにわかることがあれば変更していきます。
それから。人物のキャラクターは、海貴也とジュリウス、敢えてどちらも積極的なキャラクターにはしませんでした。勿論、海貴也の方は積極性のあるキャラクターにしようかと一瞬思いましたが、それでもよかったんですけど、この作品では消極的×消極的のメインにしようと考えました。恭雪みたいな人物がパッとジュリウスを救うよりも、あまり自己主張したがらない控えめな人物の方が、衝撃的な真実にぶつかった時に色々悩んでもがいてくれそうだと思ったので、似た者同士の二人になった訳です。その分、恭雪は重要な立ち位置になりました。スパイス的な彼がいないと、話が進まないです。あんな奴だけど、恭雪は好きです。動かしやすいし(笑)
そしてこの「くろ彼」、最初はこれで終わらせようと思っていたのですが、全部書いてみて「これ、続き書けるなぁ……」と気が変わったので、このあとは続編を書きます。タイトルは一度決めたんですが、考え直してます。メインの登場人物は「ファーストコンタクト編」の三人と、新たに二人のキャラクターを追加します。そして、「ファーストコンタクト編」より長いです。
「ファーストコンタクト編」が海貴也とジュリウスの出会いと未来への第一歩の物語なら、続編はその先へ続くストーリー。季節は春から秋くらいの話になります。今年中の投稿開始を目指します!
最後に、「苦労性な彼との付き合い方~ファーストコンタクト編~」を読んで頂き、本当にありがとうございました。続編が始まるまで、どうか忘れないで頂きたい。
これからも宜しくお願いします。




