第ニ十四話
ウグイスやメジロの鳴き声が、風に乗って聞こえてくる。暖かな陽気に誘われた花たちが咲き始め、次第に自然の色彩が豊かになる。まるで、春を迎えたことに歓喜しているようだ。
四月にしては気温は高く、昼間は上着がなくても十分な温かさ。土曜日の今日は、絶好の花見日和だ。
本来は年末年始以外の定休日はないが、今日のパエゼ・ナティーオは特別休業。店の裏にある桜の木の下で、花見をすることになった。
山科夫妻いわく、一本だけある桜の木は馴染みのソメイヨシノではなく、オオシマザクラらしい。ソメイヨシノとは違い、花と葉が一緒に芽吹くのが特徴だ。
うららかな日差しの中、ピンク色の雪がちらちら舞う下で、海貴也とジュリウスはレジャーシートを敷いた。ホットコーヒーとジュリウスの手作りサンドイッチ、そしてデザートのアップルパイを広げている。
「太陽出てますけど、大丈夫ですか?ジュリウスさん」
「ハイ。日焼け止めクリームも塗りマシタし、時々雲も掛かりマスから」
「それに、約束が果たせなかったノデ」と、早咲きの桜を一緒に見に行けなかったことを気に掛けていたようだ。
紫外線に弱いジュリウスは、万全の屋外対策だ。シャツにカーディガンを羽織ってつばの広い帽子を被り、黒淵の遮光眼鏡を掛けている。
「でも、こんな場所に桜の木があったなんて、意外でした」
「私も、ちゃんと見ることはなかったノデ、こんな近くで見るのは初めてデス。お花見も良いデスね」
「だろー?日本に来て四季を楽しまないなんて、損だぜ」
「って。何で、有間さんがいるんですか」
二人での花見かと思いきや、とんだ邪魔者がやって来ていた。海貴也の目の前で涅槃像のごとく寝転がり、バスケットからツナサンドを摘まんでいる。今日はコックコートではなく、ボーダーの春ニットにジーパンだ。
「私が誘ったんデス。色々ご迷惑をお掛けしたノデ」
「そうそう。ご迷惑掛けられたんだから、一緒に花見くらいいいだろ。つーか、できればサンドイッチじゃなくて、おにぎりが良かったんだけどな」
「あと、おかずは玉子焼きと唐揚げがほしい」と、亭主関白の影をちらつかせる恭雪に、海貴也は文句を言いたそうに視線を送る。
〈呼ばれておいて我が儘……〉
「て言うか、お店はどうしたんですか」
「今日は中抜け。従業員に任せて来た。ほら飲もうぜ。コーヒーだけど」
恭雪は起き上がり、酒を注ぐように海貴也のマグカップにポットのコーヒーを注ぐ。海貴也は、二人きりではないこの状況に納得がいかないオーラを出すが、恭雪は全く構わない。
「ジュリウス。お前は、これだけじゃ済まさないぞ。一泊二日の温泉デートに行かないと、割に合わない」
「デスから、何度言ったラ……」
「花見はノーカンだからな。ゴールデンウィーク最後のニ日間、空けとけよ」
「恭雪サン……」
「あのっ」
ジュリウスと恭雪が若干揉めている最中だが、海貴也はそれに割って入った。
そう。まだはっきりと解決していない、重要な件がある。
「良い機会なんで聞きますけど。二人は本当に、どういう関係なんですか。そ……そういう関係なんですか?」
ジュリウスに告白はしたが、恭雪との関係性は一旦忘れていたので、思い出してからまたモヤモヤしていた。宴会の席ではあるが、こうして揃うことは滅多にないので、聞けるのは今日しかないと思い切って切り出した。
答えがちょっと怖くて、両手で掴んだマグカップしか見られない。
「そうか。お前にそう見えるんなら、そうなのかもな」
「えっ……」
恭雪がまたうやむやな答え方をして、牽制の矢を食らった海貴也は動揺してパッと正面に顔を向ける。
恭雪と張り合おうと意気込みはできても、希望としては否定してほしかった。一癖ある強敵だから、できれば恋敵にはなりたくない。
恭雪は、易々と海貴也を圧倒するだろう。簡単には折れない心意気を構えていなければ、海貴也に勝ち目はない。
この勝負は負けたくない。海貴也が気構えをしようとした時、隣から短く息を吐く音が聞こえた。
「恭雪サン。冗談はやめて下サイ」
若干飽き飽きした口調で、ジュリウスは恭雪の発言を訂正する。それを耳にした海貴也は、今度はジュリウスに顔を向けた。
「……えっ。冗談?」
「私たちは、付き合ってマセンよ。ただのビジネスパートナーデス」
「そ……そうなんですか?本当に?」
「本当デス」
恭雪を無視して、繰り返しジュリウスに確認する海貴也だが、その言葉を信じたくてもそう簡単に信用できない理由がある。
「えっ。でも、前に二人、凄い密着して……」
あれは誰がどう見ても、『恭雪がジュリウスをテーブルに押し倒す図』にしか見えなかった。そんなことをする間柄なのに、ただのビジネスパートナーにはやっぱり思えない。しかし、それにもジュリウスは平常心で否定する。
「アレは、恭雪サンは何時もあんな感じで接してくるんデス。私は嫌だと言っているんデスが……」
「じゃああれは、ただのコミュニケーション?」
「ハイ。本当に、挨拶みたいなものデス。それに恭雪サンには、ちゃんと女性の婚約者の方がイマスし」
「婚約者!?」
安心する暇もなく、声高に目を丸くした海貴也は、勢い良く再び恭雪を見た。元カレ既婚者事件には劣るが、なかなか結構なサプライズだ。
「全部バラすなよ、ジュリウス。コイツの反応見るの、楽しかったのに」
恭雪は肩を落として、遊びが終わってしまったことを残念がった。
こんな、人で遊ぶような人物に婚約者がいるのかと疑念を持ちたくなるが、本当にいる。同業者で、現在はフランスで修行中だ。婚約指輪も付けていないが、アクセサリーを付ける習慣がないだけで、自宅の貴重品用の引き出しにちゃんとしまってある。
「婚約者がいるのに、ジュリウスさんにあんなことしてたんですか。何考えてるんですか」
「俺は、悪いことをしてるつもりはない」
反省なんて知りませんと言わんとする胡座をかいた姿勢で、恭雪は食べていたハムチーズサンドをコーヒーで流し、次はバジルソースが掛かったエビのフリットを口に運ぶ。
自省もなく、招かれておきながら食事に遠慮がない様は、清々しささえ覚える。
〈何なんだその態度。少しくらい申し訳ないとか思わないのか?〉
まんまと騙されて恭雪の遊びに付き合わされた海貴也は、反省の色が全くない恭雪に少しムカッとくる。海貴也の中で、恭雪の株は大暴落だ。
「ジュリウスさん。好きにさせていいんですか?」
「デモ、恭雪サンがやめてくれないノデ……」
海貴也は心配するが、ジュリウスの性質では拒みきれないのかもしれない。それとも、何か事情があって強く反発できないのだろうか。
ジュリウスがコーヒーを注ごうとすると、ポットが軽くなっているのに気付き、新しいコーヒーを作りに店に戻って行った。
途端に、海貴也と恭雪の間で会話がなくなる。海貴也は口を付けていなかったブラックコーヒーに、角砂糖を二つとミルクを入れて無言で飲む。恭雪はスマートフォンをいじり、誰かにメッセージを送っているようだ。
本当はジュリウスと二人だけで花見をする筈だったのに、邪魔をされた上に気分を害されて、折角の花見を楽しめない。帰ってほしくて堪らないが、ジュリウスが呼んでしまったのではっきり嫌だとは言えず。花見は来年もできると、今日は諦めるしかなかった。
二~三分、会話がない時間が流れると、誰かとのやり取りが終わった恭雪から話が始まる。
「───で?」
「はい?」
「アイツと、あのあとどうなったんだよ」
パティスリーに来たあとから現在に至るまでの経緯を、聞きたいようだ。ジュリウスからは特に聞いておらず───もとい、話してもらえず───気にはなっていたらしい。
「有間さんに、言う必要があるんですか?」
しかし、親切にしてくれた恭雪を海貴也は一蹴する。あの印象が良かった恭雪は、もはや過去の残像だ。
「何だよ。一番の功労者の俺に、報告くらいしろよ」
〈まぁ。聞かなくても、ジュリウスの様子を見れば大体わかるけどな〉
恐らく、カフェの客など町の人が見たところで然程気付きはしないだろうが、海貴也とのことが落ち着いてからのタイミングで恭雪が会った時、素っ気なさがほんの少し薄らいでいた。
例えるなら、太陽の日差しで花の蕾が開き始めている。そんな印象に。
「何が功労者ですか。ジュリウスさんに変なことしておいて……」
「変なことって、何の話だ?」
「過剰なコミュニケーションです。ジュリウスさんが嫌がってるんで、本当にやめてあげて下さい」
「ジュリウスだけじゃなくて、お前もだろ」
コーヒーが気管支に流れ込んで、むせる海貴也。ジュリウスの味方になろうとして言ったつもりが、意地悪い視線の恭雪にドンピシャで言い当てられ、思わず動揺してしまった。
本来ならここで、話を逸らしたり誤魔化すところだが、一皮剥けた海貴也は怯まない。
「……そうです。オレも嫌です!二人も嫌な思いしてるんですから、少しは考えて下さいよ。これからはオレが、ジュリウスさんに一番近い存在になるんで」
受動的な性格で、自己主張なんて殆どしてこなかった海貴也が、羞恥しながら恭雪のイジリに負けまいと主張した。本当にビジネスパートナーだったとしても、恭雪はいまいち信用できない。絶対に油断はできないと念を押す。
「ちゃんと考えてるし。俺は、必要なことしかしてない」
「あれのどこが必要なことなんですか。ジュリウスさんにとっては、ただの嫌がらせですよ」
「アイツの為を思ってだ。意味はある」
「あの過剰コミュニケーションが、どういう意味でジュリウスさんの為になるって言うんですか」
「毎日顔会わせてれば、アイツが何を考えてああいう行動を取ってるのかは、体質を考慮すれば大体わかる。ああでもしなきゃ、アイツは一生変わらなかった。もしかしたら、カフェも早いうちに畳んでたかもな」
つまり恭雪のコミュニケーションは、ジュリウスが他人からの接触を拒絶する原因となっている障害を取り除く為という、実にわかりにくいリハビリなのだ。
しかし、ジュリウスが過去に心無い扱いをされていたことは推断できても、流石に事実まで思考が及ぶには至らなかった。嘘の出身を教えられていたのだから、気付かなかったのは当然だ。
だが、だからと言って「何だ、そうか」と納得できるほど、現在の海貴也は素直ではない。
「だったら、もう少し違うやり方があったんじゃないんですか?」
何て情け足らずで強引なやり方だろうと、海貴也の眉間に二本くらい皺が寄った。
まぁ、恭雪らしい考えではあるけれど、あの行動にそんな意図が含まれているなんて、説明されなければ普通誰もわからない。もし百人があれを目撃すれば、海貴也と同じように全員が同じ印象を持つだろう。
勿論ジュリウスは、途中からだったが恭雪からその意図を聞いていた。それでも拒否反応が消えなかったということは、恭雪のリハビリは単なる悪ふざけになるのだが。
「最初は、あまりにも人のこと避けるから、むきになって始めたことだったんだけどな。そのうちに、からかうのが意外と楽しくなって、現在のスタイルになった」
「でもあれじゃあ、荒療治じゃないですか。本当にちゃんと考えたんですか?」
「十人十色って言うだろ。これが俺のやり方だ」
ジュリウスの為というのは、百歩譲って理解できる。対人反応の改善の目的という趣旨は一応当人に説明済みで、恭雪本人は至って真面目に考えていたので、行動の内容の是非は別にするとしても、悪い結果にはなっていない。
だが恭雪のプランは、人によっては結果が左右されるもの。今回の例は辛うじて悪化しなかっただけで、一歩間違えればジュリウスのメンタルが危なかったかもしれない。
世話好きのわりに不器用な恭雪には、メンタルケアの役回りはさせない方が安全、というのがこの議論の結論だ。
「て言うか。お前がジュリウスと仲良くなれたのも、俺のおかげだからな。何時かその借りも返せよ?」
「作った覚えがないので、嫌です」
考慮する気にもならなかったので、たまごサンドを頬張りながら海貴也は即刻断った。
「まぁ取り敢えず、ジュリウスのことはお前で確認しといてくれ。俺だとわかんねぇから」
そう言うと、恭雪はフリットを口に放り投げて仰向けに寝転がった。
海貴也は、彼の責任の全てを丸投げされたと思った。しかし、そういう訳ではない。
ジュリウスの変化を見届けるのは、自分にはできなかったことを果たした海貴也が相応しいと思ったのだ。恭雪にも、そういった自覚はある。
〈やっぱり、良い人なのかそうじゃないのか、よくわからない人だ〉
ジュリウスのことは大体知ることができたが、掴み所がない恭雪を理解するには、まだ時間が掛かりそうだ。信用はあまりできないが、ただ、善か悪かと問われると、前者寄りではないかとは思う。




