第ニ十ニ話
こんな、等価交換のようなやり方は違うと気付いた。
話しづらいなら話しやすくしようとしたが、ジュリウスにとっては、パンドラの箱を開けるようなもの。彼には彼のタイミングがある。それを、自分の都合に無理矢理合わせてはダメだと。
でもジュリウスは、海貴也の考えを知らずに打ち明ける決意をしてくれた。悪く言えば、筋書き通りだ。その苦渋の決意を、無下にしていいのだろうか。もし過去を告白されても、自分の意思は消えないだろうか───。
いや。海貴也は既に決めている。知る為にここにいるのだ。知らなければならないから、聞きたいのだ。
「───わかりました」
扉の前から踵を返し、席に戻って座った。
ジュリウスは海貴也の方を向いて、窓際の席の椅子に座る。踏み切ったその面持ちは決して意気込んではおらず、鬱積した心中があからさまだった。
「辛かったら、途中でやめて下さいね」
ジュリウスは、無言で浅く頷いた。
彼の心意気を汲んだ海貴也だが、本当はまだ僅かに、聞いていいものか迷っていた。
「……じゃあ、改めて聞きますね。───人に触れられるのを嫌がるのは、過去のトラウマが原因ですよね。……もしかして、ジュリウスさんの本当の出身は……タンザニアじゃないですか?」
詰問のようにならないように穏やかさを保ちながら、かつ真剣に海貴也は質問した。
海貴也の問い掛けに、俯きがちなジュリウスはすぐには答えない。両手を強く組み、心の波を整える。
暫くの無言のあと、ジュリウスは重い口を開いた。
「───ハイ。海貴也サンの言う通りデス。イタリアと言いマシタが、本当は、東アフリカのタンザニアという国なんデス」
〈やっぱり……〉
「デモ、今の国籍はイタリアデス」
そして、その生い立ちが少しずつ明かされ始めた。
「……私は、タンザニアのある村に生まれマシタ。父と母は普通のタンザニア人で肌が黒いのデスが、生まれた私は真っ白デシタ。両親はとても驚き、ショックを受けマシタ。周りと肌の色が違う私は、生まれてから殆ど外に出ることはありませんデシタ。国では、“ある風習”が始まっていたんデス。ソレから守る為に、両親は私を匿うようにして育てようとシマシタが、白い子供が生まれたことハ、あっという間に村中に広まりマシタ」
ジュリウスは生まれた瞬間から、周囲の目と動向に警戒しながら生きなければならなかった。両親は身内や同族など関係なく、我が子の身を案じることを第一に、幼いジュリウスを守り続けた。
「私が三歳の時デシタ。ソノ日は雨が降っていたノヲ、よく覚えてイマス……。夕方デシタ。母は夕食の準備をしてイテ、私は母の目が届く玄関で一人で遊んでイマシタ。ソコに三人の男がやって来テ、突然私に布袋を被せて拐って行きマシタ。同じ村に住む人たちデシタ。拐われた私は、暗い物置小屋のような場所に連れて行かれマシタ。怖くて泣き叫びマシタが、口を塞がれ、二人に身体を押さえ付けられテ、逃げることはできませんデシタ……。そしたラ…男の一人が刃物を出しテ……私の、身体ニ………」
言葉が止まった。ジュリウスの手が、強く握られていても小さく震える。
その時の光景は、今でも鮮明に思い出せる。
トタンの屋根に当たる、雨の音。
小屋に積まれた、藁の匂い。
薄暗い中で、鈍く光る包丁。
身体に切り込まれた時の、刃の痛み。
欲に目が眩んだ大人たちの、悪魔のような顔。
「ジュリウスさん。無理なら、もう……」
海貴也は、苦衷を滲ませるジュリウスを気遣うが、ジュリウスは首を横に振る。頑なだった意思を翻した心意気を、海貴也は汲み取った。
「……身体の傷は、その時のものなんですね……。タンザニアの方では、アルビニズムの人が酷い扱いを受けてる。呪術や金銭目的で腕や足を切られたり、殺されてしまったり……。ジュリウスさんも、同じ目に遭いそうになった」
口にもできないことを察して海貴也が代弁すると、ジュリウスは今度はゆっくりと浅く頷いた。
伏せられた表情を窺い知ることはできない。だがきっと、被害に遭った当時と同じような面持ちをしているのだろう。
「……本当に、大丈夫ですか?」
「……大丈夫デス」
ジュリウスは何度かゆっくり深呼吸をして、荒れる波を静めようとする。
大丈夫。嵐はもうずいぶん昔に過ぎ去ったのだから、海は穏やかな青い色に戻れると。
深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻したジュリウスは続きを話し始めた。
「……私は泣きじゃくりマシタが、助けを求める声は届かなかっタ。聞こえていたとしてモ、誰も助けなかったと思いマス。忌まわしク、疎まれた存在デシタから……。同じアルビニズムの人が殺された話を、聞いたことがありマシタ。被害に遭う前にモ、一度襲われそうになっていた私は、幼いながらに今度こそダメだト……このまま殺されてしまうのだと思いマシタ……。ソノ時に助けてくれたノガ、たまたま旅行に来ていた今の父───養父のサルヴァドーリサンデシタ」
アフリカ旅行に来ていたイタリアの実業家のサルヴァドーリ氏は、偶然ジュリウスの村を訪れていた。
蠢く大きな袋を抱えた不審な男たちを見掛けた彼は、密かに後を付けた。すると、男たちが幼いジュリウスを襲っている場面に遭遇し、何とかしてジュリウス少年を助け出した。同行していた秘書によると、金銭で男たちを納得させたらしかった。
ジュリウス少年には胸に大きく切られた深い傷があり、酷く出血もしていた。緊急を要すると判断したサルヴァドーリ氏は、早急に彼を自分の車に乗せた。
「助けてくれた彼は、私を病院に運んでくれテ、治療費まで出してくれマシタ。その後、無事に両親の元に帰ることができマシタが、両親は私を助けてくれた彼に事情を話しテ、私を引き取ってくれないかと頼んだんデス。そして私は、サルヴァドーリ家の養子になりマシタ」
「もしかしてご両親は、ジュリウスさんを守る為に?」
ジュリウスは落莫した様子で、コクリと頷く。
話を切り出された時、サルヴァドーリ氏は一度断った。しかし、まだ幼いアルビニズムのジュリウスの未来を守る為、断腸の思いで決断をした夫婦の為にも、その希望を受け取った。
ジュリウスも最初は嫌だと号泣したが、両親の必死の説得でサルヴァドーリ氏に付いて行くことにした。以降は、年に一度は母国で両親との再会を重ねていた。
「サルヴァドーリさんは、恩人でありお父さんなんですね」
「未婚で子供もいない養父は、実の子供のように私に接してくれマシタ。イタリア語を話せるようにしてくれたリ、学校も小学校から大学まで行かせてくれマシタ。それから、仕事の暇を見つけてハ、色んな所に連れて行ってくれたりもシマシタ」
偶然の出会いがジュリウスの命を救い、そのたった一つの奇跡で命は未来へと繋げられた。風習から守ってくれた親にも、命の危機から救い出してくれたサルヴァドーリ氏にも、ジュリウスは感謝した。
アルビニズムであるジュリウスが送ってきた半生は、波瀾万丈という四字熟語だけでは言い表せない、“命の道”とも言うべきもの。その運命の中で、サルヴァドーリ氏の支援で恵まれた環境で育てられ、社会の中で生きられる権利を得たのだ。以前の環境では、無事に社会に出ることすら難しかったかもしれない。
ずっと死と隣り合わせの中で、悪魔たちの目に怯えながら生き続けていた。自分に自由は与えられないのだろうか。まるで籠の中に閉じ込められ、飛ぶことを許されない鳥のようだと思った。もしこのまま飛べなかったら、自由を知らないまま、自分も他のアルビニズムの人のように土の中に眠るのだろうかと。
でも、ちゃんと動く腕も足もある。この世に五体満足で生きていられている。
ジュリウスは、外の世界に飛び立てたのだ。大切な人たちとの別れを、代償にして。
海貴也は語られる過去を聞きながら、凄惨な現実を想像した。事前に写真で見ていたおかげで、それは安易にできた。しかし、命の危機に直面したことがない海貴也にとっては、死が迫る恐怖も痛みも容易には想像できなかった。
ジュリウスはそれを、三歳という幼さで体験し、生き延びた。それは喜ぶべきことであり、これからも宿命を背負って生きることを課せられたということでもある。だが幼児だった当時は、ただ命が助かった事実だけが全てだった。
自分はなんて平和な国に生まれることができたんだろうと、知らずに恵まれていることを海貴也は痛感する。そして、ジュリウスがここにいられるのは本当に奇跡なんだと思った。
しかし外の世界は、ジュリウスが思ったほど優しくはなかった。
「どうして、日本でカフェをやってるんですか?」
もう少し話を聞きたい海貴也は、ジュリウスの様子を窺い、柔和に違う質問を投げ掛けた。
「養父が経営者デ、彼が仕事に取り組む様子を見ていテ、私も将来は自分の店を持ちたいと思ってイマシタ。大学では経営学を学んデ、卒業後はレストランに就職シマシタ」
就職の際に、それまでの経験を鑑みて体質について自ら触れることはしなかったので、問題なく採用された。ただ、職場のスタッフとのコミュニケーションは就業時間以外では全くなかったので、親しくなった人は一人もいない。
「何で、イタリアでやろうと思わなかったんですか?地元ならお養父さんがいるし、経営のことを何時でも相談できるじゃないですか」
「イタリアでやるつもりは、ありませんデシタ。昔からイジメに合っていて友人も一人もいなかったシ、生きづらかったんデス。ダカラ、私のことを誰も知らなイ、何処か遠くの国がいいと思っテ、日本にシマシタ。日本の方は皆さん優しいデスし、安心して住める場所だと思いマシタ」
「一人で知らない国に住むって、怖くなかったですか?」
「不安はありマシタ。デモ、ソレ以上に怖い思いをしたノデ、アノ出来事に比べれバ……。ソレニ、生まれ変わりたかったんデス」
海貴也は「生まれ変わりたかった?」と、おうむ返しする。
「生まれてからずっと、命を狙われたりイジメに合ったりしていた所為デ、自分から人に心を開くことができなくテ、過度な人見知りだったんデス。ダカラ、住む環境を変えれば自分も変わるんじゃないかっテ。安易な考えデスが」
命が繋がれたことで差し込んだ、不確かだった未来への光を見たことで、将来に目を向けるようになった。憧れのような、恋い焦がれるような光の先を、この目で見たくなった。それには、今の自分のままではいけないことに気が付いた。
『新しい環境で、新しい自分になる』。それが、希望を抱き始めたジュリウスの目標だった。
「やっぱり凄いです。ジュリウスさん」
海貴也の言葉に、ジュリウスは首を横に振る。
「凄いですよ。もしオレがジュリウスさんだったら、生まれ変わりたいなんて思ったかどうか……。寧ろ、ずっと引き籠ってたかも」
重ねて称賛しても、ジュリウスはまた首を振った。
「私は結局、何も変わらなかっタ。心を開けなくテ、人と触れ合うことに臆病デ、アノ日のことを思い出すのも怖イ……。やっぱり一人で生きた方が楽なんだト、ソノ方が自分に合っているんだと思いマス」
「でも、ジュリウスさんは戦おうとした。忘れたい過去を引き摺りながら、一生懸命に生きることに前向きになろうとしたじゃないですか」
「ダメデス。私は社会に溶け込めナイ。普通の人の中にいられナイ。……昔、肌の色が気持ち悪いとか、触ると病気が移るとか散々言われテ、世間に受け入れられない私は社会不適応者なんだとわかりマシタ。私は、またあんな酷い事を言われたリ、理不尽に狙われるのは嫌なんデス。アノ中に戻るナラ、もう一生、一人きりでいた方ガ……」
金色の前髪を垂らし、ジュリウスは俯いてしまった。海貴也よりも大きい身体が、見間違えるほど小さくなる。
籠の外に出たジュリウスを待っていたのは、自由と差別。ジュリウスの正体を知った人々は、充満した迷信に踊らされ、白い目を向けた。
元いた場所と何も変わらない環境。白い羽根はもぎ取られ、自由に飛べなくなった。
自分と違う人たちと、一緒にいることはできない。自分が理想とする自由を、求めてはいけない。
悟ったジュリウスは、籠の中に心をしまった。
希望が絶望に裏返り、孤立無援となった。けれど、養父にも誰にも縋らなかった。「自分一人で頑張らなきゃいけない」。そう理解してしまったから。
色々考えて、籠を強固な鉄格子にした。外敵から心は守られた。
でも、ジュリウスはずっと、雨に濡れたままなのだ。
「ジュリウスさん……」
やはり、自分の手に余る。海貴也はそう感じてしまいそうになった。
覚悟を決めて来たけれど、この器では受け止め切れるか不安でならない。ジュリウスは変わっていないと言うけれど、自分だって変わっていない。こんな受動的な自分に、何ができるんだろう。
……違う。そうじゃない。何ができるかを探しに来たんだ。
暗幕で隠されていた背景は、平和しか知らない自分には飲み込み難い。でも、ただの昔話にもできない。
大切なのは、ありのままの事実を知っていることを意識すること。そこから少しずつ、抱える苦しみを掬い取ることくらいはできるんじゃないだろうか。
その時、後戻りしかけていた背中を、誰かにトンッと押された。「差し出した傘を手放すなよ」。そう言われたような気がした。
「そんなこと考えないで下さい。一生懸命に、変わろうと努力してきたじゃないですか。積み重ねてきた努力を、自分でなかったことにしないで下さい」
「私は自分のことで精一杯デ、他の人のことなんて考えられマセン。海貴也サンまで拒絶してしまった私は、本当は身勝手な人間なんデス」
ジュリウスは、変わると宣言した自分に失望した。本当に、生まれ変わりたかった。その意志は崩れないと思っていたのに、心が逆らって柔弱している。
自身を否定するジュリウスを見かねて、海貴也は握られた彼の手に触れようと、手を出しかけた。しかし、怯える彼の姿を思い出し、自分の膝の上に戻した。
ジュリウスの心に触れていると、自分の心が引っ張られていく気がする。催眠術のように、薄弱から生まれた言葉に染められそうになる。




