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第ニ十一話




 海貴也は知ってしまった。調べたと聞いた時に、もしかしたらとジュリウスは予感した。なら、今さら隠しても無駄だとわかっている。


「……ゴメンナサイ」


 しかし、ジュリウスは明かそうとしない。そこは頑ななままだった。


「……辛い過去を思い出すのは、苦しいですよね。わかります。思い出したくないから隠していたのに、言わせようとするオレも酷いです。けどオレは、ジュリウスさんを理解したい。……オレに、話してもらえませんか?」


 海貴也の推測がもし本当ならば、ジュリウスは想像する事象の当事者。推測には半分くらい自信があるが、外れていてほしいとも思う。


「………」


 告白を促されたジュリウスは沈黙したまま、結んだ口を開こうとしない。愁いと排斥を込めた瞳は、暗幕で隠した過去を振り返らない。

 海貴也は待ってみたが、静まり返った時間が過ぎるだけだった。今はジュリウスの胸中を、僅かでも汲み取ることはできる。けれど、どうしても彼の方から話してほしかった。


「……それじゃあ気晴らしに、オレの昔話をしましょうか」


 また重くなってしまった空気を変えるように、暇だから映画でも観に行こうというような調子で海貴也は言った。

 ジュリウスは海貴也に視線を戻して耳を傾け、海貴也は冷め始めたミルクティーで喉を潤してから、話し出した。


「小学生の時に、あったことなんですけどね。二年生になったばかりの頃でした。オレは一回だけ、先生に()()()()をされたことがありました。

 ……ある日、帰りの挨拶が終わって友達と帰ろうとしたら、担任の先生に残ってくれって言われて、皆が帰るまで教室にいたんです。他のクラスの教室にも誰もいなくなって、校舎の二階がとても静かでした。先生は教室のドアを前も後ろも閉めて、完全に二人だけになるとオレの席に来て、オレの顔を撫でるように触ったんです。『海貴也。先生はお前を特別に思ってるよ。これは、お前にしかしないんだからな』。先生はそう言いながら、服の上からオレの身体を触った。上半身を触っていた手は、そのうちお尻や太股を触り始めて、オレは怖くても声が出せなかった」

「それは……」


 ジュリウスがその行為の名前を言いそうになると、海貴也は視線を送り、瞬きで肯定する。


「帰りに、誰にも言っちゃダメだぞって言われたけど、家に帰って、オレの様子がおかしいことに気付いた母親に問い詰められて、正直に言ったら、数日後に先生は学校を辞めた。警察に捕まったって言ってました。オレはあんまり覚えてないけど、警察の人も話を聞きに来たらしいです。その出来事のあと半年以上休んで、三学期から学校に行ったんですけど、先生に“いけないこと”をされた噂が広まってて。その所為でイジメにあって、友達もいなくなった」


 同級生は、幼いが故に海貴也を被害者と意識できず、陥れるなど他意はなかった。しかしその環境で、海貴也は今の自分に最適な人との付き合い方───“消極的で受動的に馴染む”という方法を見つけた。


「不登校になりながら何とか卒業したけど、中学校は隣町の学校に行きました。

 違う学区だった同級生とも仲良くなれて、心に余裕が出てきたら、それまで興味がなかった恋愛がしてみたくなった。でも、友達に好きな子ができても、オレは一向に女子にときめかなかった。何でだろうって思いながら、中学二年の夏を迎えた時、水泳の授業中に見た同性の水着姿に、ふいにドキッとしたんです。

 自分が同性が好きだと自覚したのは、中学三年生になる少し前でした。

 ……だから、ゲイ歴は十年くらいになりますね。一応、何人か付き合ってます。引っ越して来る前に付き合ってた上司も、男性だったんです」


 最後は「あの別れ方は、本当にキツかったなぁ」と、明るく話を締め括った。


「昔話は以上です。長々と話してすみません」


 海貴也の話を静かに聞いていたジュリウスは、ジッと彼を見つめている。それは同情でも驚いているのでもなく、不思議な話を聞いたかのような面持ちだ。


「……一つ、聞いてもいいデスか。幼い頃にそんなことがあっテ、心の方は大丈夫だったんデスか?」

「その時は、何をされてるのかよくわからなかったけど、流石にダメージ受けてましたね。両親に、カウンセリングに連れて行かれたりして。あと、暫くは大人の男の人は怖くて、外に出られても母親の後ろに隠れるようにくっ付いてました」


 そんな海貴也に母は献身した。食べたいものや欲しいものを与えてくれたり、外に出られそうな日は行きたい所に連れて行ってくれた。

 実は、我が子の心が癒されるように尽くしてくれた母の方が大変だったんだろうと、海貴也は話した。


「自分の恋愛対象が先生と似ていると知った時は、どう思ったんデスか?」


 続けて質問をされるが、海貴也は寛容に受け答える。


「そうですね……。あの出来事の所為なのかな、とは思いました。わかったのが丁度思春期で、普通の恋愛ができないのはちょっとショックだったし、なかなか整理できませんでした。今はこうやって、言ってもいいと思った人には、自分から思い切って打ち明けてますけど」


 恋愛対象が同性だとわかってから、誰にも相談できずに悩んだ。両親は勿論、友達にさえ言えることではなかった。

 自分がゲイだということを受け入れられたのは高校生になってからで、今回のことを相談した親友は、唯一カミングアウトした人物だ。感付かれたこともあるが、信用できたから打ち明けた。

 しかし、両親には未だにこの事実を伝えられないでいる。それはとても心苦しく、伝えなければという気持ちはあるが、正直に告白をしたらどんな反応をされるのかが怖い。優しい父親と母親ではあるが、一人息子が同性愛者だと知ったら勘当されるだろうか。言ったら一生、会うことがなくなるんだろうか。そんな不安がある。

 けれど、何時かは言わなければならない。女性と結婚して、孫を見せることはないと。きっと、愕然とされるだろう。その時は母親に、「親不孝者!」と泣きながらはたかれるくらいの覚悟でなければと思う。

 海貴也の話を聞き終えたジュリウスは、また黙り込んでしまった。同情を禁じ得ない海貴也の過去を、重く受け止めてしまったのだろうか。または、別の理由で思案しているのだろうか。

 その間、温くなったミルクティーを飲む海貴也もまた、ベージュ色の水面を見つめながら考えた。

 沈黙の時間を破ったのは、海貴也からだった。


「───やっぱり、やめましょうか」

「エ?」

「自分で話してて、やっぱ嫌なことって思い出したくないなと思って。だから、やめましょう」


 海貴也はテーブルに出した本や資料をトートバッグにしまい、上着とマフラーを持って席を立つ。


「今日は帰りますね。閉店時間だったのに、すみませんでした。また、土曜か日曜にお茶しに来ます」


 ミルクティー代をテーブルに置き、足を扉に向け店を出て行こうとする。

 ジュリウスはホッとした。過去を明かす必要がなくなったことに、胸を撫で下ろした。

 しかし、自分の安堵に疑問を持った。

 本当に、これでいいんだろうか。海貴也は辛い過去を話したのに、自分だけ黙っていていいのか。

 できれば話したくないのは変わらない。だが、それは自分だけだろうか。明かしてくれた海貴也は、本当は話そうと思っていなかったのではないだろうか、と。


「……待って下サイ!」


 扉の取っ手に手を掛けようとした海貴也を、引き止めた。


「海貴也サンだけなんて、狡いデス。私にも、話をさせて下サイ」

「いいですよ。オレは、勝手に話しただけなんで。無理に話そうとしなくても……」

「ダメデス。それは、不公平デス」

「いいえ。やめておいて下さい。友達って言っても、オレたちまだ知り合ったばかりだし、深い所を探るにはまだ早いと思います。知りたいと言ったのはオレですけど、歩み寄り過ぎでした。すみません」


 あの時のように───胸の傷跡を見た時のように、間違えたくなかった。あの時も今も、ジュリウスのことを知りたいから真実を聞きたかった。でもそれは、彼の中に潜む闇を浮き彫りにするということ。

 海貴也も、猥褻わいせつ行為をされた過去は記憶の深海に沈めていた。本当は、想起すれば触ってきた手の感覚を思い出す。大きさ。指先の動き。そして、息遣い。そのあとには、不快感に襲われる。

 自分がそうなら、ジュリウスも同じ筈だ。自分以上に、胸が抉れるくらい苦痛の筈だ。


「だからもう、このことは……」


 けれども、ジュリウスは首を横に振る。


「海貴也サンは、忘れたい過去を話してくれマシタ。海貴也サンだっテ、話すのは辛かった筈デス。ダカラ、海貴也サンだけなんてダメデス」

「ジュリウスさん」

「ダメなんデス……」


 思い出したくない過去。記憶の中に埋もれずにいる、忘れることができない深い深い傷。目を逸らしても、振り返るとすぐそこにいて、痛みの全てが甦る。

 これは、きっかけなのかもしれない。忘却できないあの日々と、胸の傷跡と、ちゃんと向き合う為の。


 波音も静かな、晩春の夜。

 ジュリウスの耳元で、微かな雨音が聞こえ始める。




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