第十九話
残業を終え、自宅に着いたのは十時を過ぎた頃だった。
食べ損ねていた夕飯は、買い置きしていたカップラーメンと、駅前のコンビニで買って来た昆布のおにぎりとポテトサラダ。本当はツナマヨのおにぎりが食べたかったけれど、あいにく品切れだった。
冷蔵庫から冷えた缶ビールを出し、ドラマを観つつ黙々と食べる。食べ終わっても、すぐに片付けはしなかった。ベッドに寄り掛かりながらボーッとしていたら、何時の間にか人気芸人が司会のバラエティー番組が始まっていた。
海貴也は大きな溜め息を吐く。番組が面白くないからではない。寧ろ、番組の内容は頭に入ってこなかった。
「何で知っちゃったんだろう……」
ジュリウスの秘密を知り、後悔していた。
正直、彼との間に厚い壁を感じてしまった。
何時もなら深く悩むこともなく、これ以上は付き合い続けられないとシャッターを閉めてしまう。ところが今回は、下ろす途中で思い止まった。
本当のジュリウスの姿が気になった。
その反動で、なるべく気にしないようにしようと意識した。しかし意識すればするほど、このまま忘れることは罪深く思えた。
そんな、幾度の思考の往来を経て、海貴也はついに真実という蓋に手を掛けることを決意した。
そうしたら、知りたくなかったことまで知ってしまった。余計な情報を目にしてしまった海貴也は、反射的にパソコンの電源を落として以来、目を瞑ったままだ。
それを知ってしまってからその事実が頭から離れず、何をしても忘れられない。靄が溜まり続けたは心は、何時しか荒波のようになっていた。
おかげでなかなか寝付くことができない夜が続き、寝不足で仕事にも身が入らない。今日の作業も上の空で、職場での評価が下がってしまってはいないかと内心不安で仕方がない。連日の勤務態度に、温和な坂口もそろそろ般若の面に付け替えないかと気が気でない。
「……調べなきゃよかった……」
再び大きな溜め息が出る。ネットで読んだ記事のインパクトが大きく、頭の中で切り取られた文章や写真がグルグルと回る。
あの、悲愁を物語る褐色の瞳がちらつく。
〈オレ、何でこんなに思い悩んでるんだ。何時もならきっぱり決められるのに……。ジュリウスさんは、普通の人じゃない。今までのように付き合えるかわからない。付き合う自信がない。オレには重過ぎる……。でも、何でかわからないけど、無関心にはなれない〉
「……何で有間さんは、オレに言ったんだ」
〈有間さんから聞かなければ……〉
罪はないが、ジュリウスのことを明かした恭雪を恨んでしまいそうだった。こんなデリケートなことを、他人に安易に話すべきではなかっただろうと。
あの夜、恭雪が「軽い気持ちで付き合うなら、これ以上ジュリウスと親しくなるな」と言っていた意味がやっとわかった。先日の口振りから、恭雪は恐らくジュリウスの過去を推測し確信を得ている。だから、警告を込めた鋭い瞳を向けたのだ。
重い頭をベッドに託し、天井を見上げる。照明が眩しくて、目を閉じて腕で両目を覆った。テレビからは、芸能人たちの笑い声が聞こえる。ボリュームは下げているのに、楽しそうな笑声が少し耳障りに感じる。
〈オレに、どうしろって言うんだよ……〉
海貴也はただただ困惑し、頭を抱えるばかりだった。
すると、LINEの新着メッセージを知らせる音が鳴った。若干、面倒臭く思いながら、ローテーブルの上のスマートフォンを取り画面を開いた。
メッセージは、高校時代から唯一続いている友人からだった。彼とは親友とも言える仲で、知らないことはないくらいだ。
「元気?新しい職場どうよ?」
彼は近頃、毎回この質問をしてくる。控えめな性格の海貴也が、新しい環境にちゃんと馴染んでいるか心配をしているのだ。
「それどころじゃない」
「どうした?何かトラブった?」
あまりやり取りする気分ではなかったが、今の職場がどうかの話よりも、もっと問題にしたい話題がある海貴也は、自分をよく知る親友に現在抱える苦悩の相談を持ち掛けてみることにした。
「聞きたいことがあるんだけど」「今、ある人とのことで悩んでる」
「お前が対人関係で悩み相談?初めてじゃね?」
主に高校時代の話だが、彼に相談をしたことはあっても、対人関係についての相談は皆無と言っていい。海貴也の対人関係の悩み事は、わりと解決が早い。なので、“友人継続可否”の答えが出てから彼に報告することが多かった。
「職場の人?」
「じゃない。プライベートで会ってる人」
「会社の人なら、頑張れの一言に尽きるけどな。プライベートで会ってる人だったら、嫌ならいつも通りに切っちゃえば?」
「切っちゃえば?」とは、関係を断ち切ってしまえば?という意味だ。
「嫌と言うか……」「今回は切ろうと思えないんだ」
「お前にしては珍しいな」「ちなみに相手は男?女?」
「同性」
「気が合うのか?」
「気が合うと言うか……ただ普通に気になるだけって言うか……」
海貴也は状況をわかりやすく、なおかつ長くなり過ぎないように文面で説明しようとした。でも、それなら直接話した方が煩わしくないと思い、電話での相談にしてもらった。
親友に了解を得て電話に切り替え、悩むに至るまでを搔い摘んで話した。説明の中で、ジュリウスの名前と詳細な情報は伏せた。
「───という訳なんだ。どうしたらいいと思う?」
「ふむふむ。なるほど……」
そこで、プツリと会話が途切れた。親友の悩みを解決する為に真剣に考えているようで、海貴也も一緒に無言になった。
どんな答えを導き出すんだろう。彼の答えが早く欲しい。どんな答えでも、この懊悩を解消できるなら……。
数十秒の沈黙ののち、向こう側から「そうか」と回答を導き出したサインが聞こえた。
「それはきっとあれだ。その人が好きってことだな」
「えっ!?」
親友の驚きの導きに、海貴也は凭れていたベッドから上半身を起こした。そして慌てて否定する。
「いや。そういうんじゃないって。結論出すの早いよ」
「いやいや。お前は流されるタイプだから、そういうの自分じゃ気付かないだろ」
〈確かに……〉
否定に即座に否定されて、思い返せばそんな恋愛ばかりだったと、海貴也は肯定せざるを得なかった。
自分から告白するなんて考えたこともなく、付き合う時は告白されてその好意に乗っかるかたちでだった。偶然にも顔面偏差値が低い相手はおらず、いずれも年上。アプローチされて恋人同士になっていた確率は、百パーセントだ。
しかし。
「でも、そうとは限らないじゃん」
飲み込まなかった。仮にそうだったとしても、おいそれと「好き」なんて口にはできない。ジュリウスの背景を知る前だったら、親友の言葉を素直に信じたかもしれない。けれど知ってしまった今は、彼に対してそんな軽々しく言っていい言葉ではないとわかっている。
「学生の頃とは違うし。もう大人なんだから、恋のきっかけとか変わってくるかもだろ。好みとかも」
「まぁ、確かにな……。でもオレの勘、当たってる気がするんだけどなー」
「所詮、勘だろ?当てにならないよ」
親友は自分の勘に自信を持っているようだが、彼のその自信を軽信できない海貴也はそう決め付けた。しかし彼は、「オレの勘はそれなりに当たるぞ」と主張する。
ならば、その的中率を知りたい。
「どれくらいの確率で当たるんだよ?」
「四割くらい」
「そうでもないじゃん」
よくその確率で自信あったなといささか呆れながら、尋ねて損をした気分になった。
密かに嘆息する海貴也に気付きもせず、「でもさ、気になるんだろ?」と彼は食い下がらなかった。勘は当たってると言い張るのかと思ったが、今度は真面目だった。
「その人の秘密知って引いたけど、嫌いにはならないんだろ?これまでのエピソード聞いた感じだと、ただの友達だったら何時も通りにしそうじゃん?でも縁を切れないと思ってんなら、海貴也は少なくとも、その人に対して好意を持ってるってことなんじゃないのか?」
やっぱり主張しているが、学生の時からの付き合いの海貴也を知る親友だから、可能性を示唆できるのだ。勘が当たる確率が低くても。
「だとしても、無理だし」
けれど、海貴也は再度否定した。それだけは、安易に認める訳にはいかない。自分の想像を越えているかもしれないと思うと、それ以上踏み込めない。
そんな海貴也の頑なな心情を親友は理解し、心配する。
「何か事情があるのか?」
「まぁ、色々と。詳しくは言えないんだけど」
「そっか。じゃあ、無理には聞かないでおく。……因みに、前みたいな危険な関係にはならないよな?」
彼は、海貴也が前の会社を辞めるきっかけの事情も知っていた。別れた直後の海貴也から、報告と言って泣き付かれたのだ。その別れ方は残酷だと、電話越しの海貴也と一緒に感傷に浸ったのは、真新しい記憶だ。
同じ轍は踏むなよと忠告してくれる親友に、「て言うか、恋を認めた訳じゃないから」と海貴也は打ち消した。
「まぁ、事情はわかった。でも気になる相手なら、もうちょっと様子見てみ?悩みなんて、そのうち関係なくなるって!」
親友はポジティブで気楽なコメントで、折角の心配を自らフェイントにしてしまった。親身になってくれるのは有難いけれど、心意気が真面目なのか適当なのか時々わからない。
「ひとごとだと思って……」
〈まぁ。昔からこういう奴だっけ〉
高校ニ年の時からクラスが同じだった二人は、一つの机を挟んで向かい合って座り、よく話していた。
相談すると、彼は「うんうん」と頷きながら話を聞いてくれるのだが、時々いい加減な答えが返ってきた。真面目に耳を傾けていた筈なのに、自分の範疇を越えた内容だと判断すると、途端に適当になってしまうのだ。そんな彼でも、海貴也はずっと付き合い続けてきた。
彼は、相手を理解する能力に長けていた。人付き合いを苦手としていた海貴也のことも、近過ぎず離れ過ぎず、絶妙な距離を取って付き合っていた。その距離感が、海貴也にとっては良かったのだろう。海貴也の恋愛対象を知っても離れなかった彼とは、何時の間にか何でも話せる間柄になっていた。
「あとさ。海貴也って、そういう諦め結構早いじゃん?だからもうちょっとだけ、自分の心と会話してみれば?オレの勘は、全然無視してくれていいから」
「……うん。そうだな」
今回は悩み解消とまではならなかったが、時間も遅かったので、アドバイスのお礼をして電話を切った。
悩みを打ち明けて、少しだけスッキリした気がする。でもその分空いたところに、「好き」の二文字が目敏く入り込んできた。たった二文字なのに、無視をするなと言わんとするとてつもない存在感を放って。
〈好き?ジュリウスさんを?〉
「……いや。でも、だって……」
ジュリウスは、普通の人間じゃない。
そんな人を好きになるなんてあり得ないと、親友の指摘を拒止する。
〈だって、普通の人かと思ってたし。外国人だけど、日本語ペラペラで近付きやすかったから。悪い人じゃなさそうだったから、だから、友達になってもいいかなって思って……〉
ジュリウスと過ごす時間は楽しかった。言葉の壁もなかったから、国の違いは然程感じなかった。自分と同じように両親の間に生まれ、普通に育ってきたんだろうと思った。
そう。“障害”が何もないと思ったから、安心して付き合えていたのだ。
しかし、知った真実が“障害”として存在する限り、カフェに行くことはおろか、このままではジュリウスのことを忘れようとするだろう。
〈頭の中ぐちゃぐちゃだ。全然整理が付かない〉
ならやはり、何時ものように友人の継続可否を決めるしかない。何時ものように、簡単に判断すればいい。条件は充分だ。
「………ダメだ」
〈決められない〉
考えたが、怖くなった。真正面からジュリウスを見ることも。そして、彼を完全に拒むことも。
何故だか、余計に決め倦ねてしまう。小さくて大きな存在感が、海貴也の思案を翻弄する。
どちらも選択できず頭を抱えた海貴也は、二缶目のビールの残りを一気に飲み干した。
海貴也の脳裏に、坂口の話が何度も甦る。
坂口は、力になろうと積極的に病気を調べていたが、自分はそこまで真剣に相手のことを考えられないと、その時は思った。その時点では完全に他人事だったし、自分の周りでそんな人は出てこないだろうと思っていた。そんな未来は来るかもわからないし、滅多に来ないだろうと。
そして、きっとその時になれば自分の意思が変わり、坂口のように協力的になるかもしれないと、善人になった自分を想像して過信していた。
しかしその過信は、こんなにすぐ近くにいて欺かれていると想定していなかった故のものだ。
やはり自分は、坂口と同じようにできない。自分は坂口とは違うから。今は彼が言っていたこと全てが、偽善者の言葉に思えてくる。
〈坂口さんだったら、違うんだろうな〉
このまま、何時ものように繋がりを絶ってしまえばいいのに、それもできない。付き合いを続けるにしても、ジュリウスの真実を受け止めきる度量も覚悟もない。
体育座りをして顔を伏せたまま、海貴也はまた考え込んだ。
番組は何時しか、バラエティーから報道に変わっていた。国会で、国有地取引に関する文書改ざんに関わったとされるとある政治家の証人喚問が行われたと、アナウンサーが伝えている。実際の質疑応答の映像が流れ、うやむやな回答を繰り返す議員に周囲の議員はヤジを飛ばす。ここ数ヶ月騒がれ続けている報道だが、電話をした時に音量を下げたままで耳に入って来ない。
暫くして、悩むことに疲れた海貴也は考えるのをやめた。ホットカーペットに横になると、まっさらな天井が目に飛び込んできた。
少しでも楽になろうと大きく嘆息をしたけれど、嫌になるくらい走馬灯のようにジュリウスのことが頭に浮かんだ。海貴也の頭の中は、憎らしいほどにジュリウスのことでいっぱいだった。
何故、こんなにも考えてしまうんだろう。自分では到底付き合えない相手だと、わかっているのに。
気にしてしまう。“障害”以外の部分を、思い出してしまう。
だけど、近付きたくても、近付けない。
〈でも、どうしてだろう〉
どうしても、嫌いにはなれない。
瞬きする度にアルバムを捲るように映る、包み込むような優しい微笑み。色彩豊かに走馬灯が回る。
何度も。何度も。
息苦しい。何故、こんなに胸が締め付けられているんだろう。
何故だろう。どうしてこんなにも───。
その時、一つの滴が落ちた。その一滴で、荒れていた海が凪いだ。
それが自分の瞳から滲み出たものだと気付いた時、心臓が潰されそうになった。
〈───あぁ……そうか〉
「オレ───」
続けて、二つ目の滴が落ちた。
ようやく気付いたそれは、立ち止まった場所から前進する為に示された、一つの希望。
しかし、これは海貴也にとって、更に懊悩しなければならないものかもしれない。あるいは、人生の契機なのかもしれない。
それはまるで、苦手なコーヒーのようなもの。
だけど、コーヒーは苦手なだけで、嫌いじゃない。




