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第十一話




 実務作業の合間。海貴也は、息抜きに休憩所に行くことにした。

 リンク・エクスペンシブが入るビルは、一階から三階がベンチャー企業が入るフロアになっていて、海貴也の会社は三階にオフィスを構えている。

 各フロアには休憩所を兼ねた共有スペースがあり、丸いテーブルと若草色のソファーがあり、自動販売機もある。開放的な一枚ガラスからは、ファッションビルやスクランブル交差点が見え、陽当たりの良いスペースはちょっとした気分転換には丁度良い場所であり、他の企業の人と交流ができる場でもある。

 ホットレモンティー入りのマイボトルを持ってやって来ると、テーブルに座る上司の坂口を見つけた。何やら本を広げ、ノートパソコンに打ち込んでいる。側には水色の巾着袋が置いてあり、遅い昼休憩を取っていたようだ。


「坂口さん。お疲れ様です」

「あ、佐野くん。お疲れ様。休憩?」

「はい。ちょっと息抜きに」


 坂口から、コーヒーでも飲むかと人差し指で自動販売機を指しながら聞かれたが、持参していたので遠慮した。

 挨拶が終わると、坂口はにこやかに自分の正面の席を相席に案内した。他の場所には違う企業の人たちが座っていて、空いているのは坂口が座るテーブルしかなかった。ここでわざとらしく会社に戻るのも失礼だと思い、海貴也は言葉に甘えた。

 坂口は、海貴也が勤める会社の社長だ。仕事のやりやすさやフランクに接するフレンドリーさから、親しみを込めて「坂口さん」と社員から呼ばれている。海貴也も「坂口さん」と呼んではいるが、他の社員のようにまだフランクに接することはできない。同じように接するには、もう少し掛かりそうだ。


「佐野くんが入社して、一週間経つね。ここには慣れそう?」

「はい。河西さんも色々指導してくれますし、何より皆さん優しい人ばかりです。オレが新入りだからかもしれませんが」

「今日も、時々ボーッとしてたみたいだけど?」

「す、すみません。気を付けます……」


 新入りの連日の集中力散漫は、指導係の河西から報告が上がっているようだ。海貴也は萎縮したが、坂口はそれを怠慢だと責めはせず仏のような微笑みで許した。


「前の職場は、環境が合わなかったって言ってたよね。この職場が、佐野くんに合ってくれたらいいんだけど」


 丸眼鏡の奥で目を細めながら、坂口は微糖の缶コーヒーを飲んだ。

 就職の面接で、人が良い坂口に退職理由を偽ってしまったことに、海貴也は少し心が痛んだ。しかし、ジュリウスには言ってしまった本当の理由は、何があっても口外しないと決めている。

 やっていたことが終わった坂口は、開いていた本とノートパソコンを閉じた。レモンティーを飲みながらその動作を何気なく追った海貴也の視線は、本の表紙に向いた。


「……何か調べてたんですか?」

「うん。ちょっと、精神障害のことをね」

「誰か、ご病気になったんですか?」

「親戚がね。と言っても、あまり面識もない人なんだけど」


 先日、坂口の弟の妻の一人暮らしの祖母が、急に精神障害を患ってしまった。市立病院の精神科に連れて行ったが、紹介状がないとダメだと言われ、個人でやっている心療内科を調べカウンセリングに行ったようだ。

 その弟から、精神障害の人を見るのは初めてだから手を貸してくれと、助けを求める連絡があったらしい。


「それで調べてたんですか」


 しかし何故、弟夫婦が世話をしているのか。

 義母と義父は共に仕事が忙しく、しょっちゅう祖母の様子を見に行くことはできない。他に頼れそうな親族もいなかったので、何時でも様子を見に行ける距離に住んでいる弟夫婦に白羽の矢が立ったらしい。


「でもね。会ったのは一回くらいで、相手のことはよく知らないんだ。顔もそんなに覚えてなくて、名前もうろ覚えだし。だから、最初は断ろうとしたんだ。会社も軌道に乗ってきたばかりで、他のことに意識を傾ける余裕はないからって。そう言おうと思ったんだけど」


 すると、困り顔の坂口の表情が緩んだ。


「弟が僕を頼ってくれたと思うとね、断れなかったんだ。一番近い身内だからかもしれないけど、嬉しくなっちゃって」


 その時のことを思い出したのか、坂口は照れ臭そうにヘラッと笑った。弟への愛情が漏れ出ている。


「まぁ、協力しようと思ったきっかけはそんなものなんだけど、少しでも助けになるならいいかって」


 海貴也は一人っ子だから、弟や妹に頼られる喜びは皆無だ。

 幼い頃は、公園で仲良く遊ぶきょうだいの姿を見ると、羨ましくなることもあった。年下の親戚の子もいるが、頼られた記憶はない。強いて言えば大学生の時のアルバイト先で、後輩にシフトの交代や面倒な客の接客をお願いされたことだろうか。

 ……と思ったが、あれは違う気がする。


「……聞いてもいいですか。精神障害の人だって聞いて、その……仕事以外で断ろうとした理由はなかったんですか?」


 海貴也の質問に、「他の理由?」と坂口は首を傾げそうになる。ちょっと間を置くと、海貴也の質問の意図を理解した。


「それは……精神障害者だということが、気にならなかったかってこと?」

「えっと……まぁ。その……」


 失礼だと思いながらも聞いた質問の意図を汲まれ、はっきり正解とも言えない海貴也は言葉をぼかした。あまり交流のない親戚のことだった坂口も、不愉快そうにはしなかった。


「そうだね。正直言って、あまり良いイメージはないよね。僕もそうだったよ。弟も多分、僕と同じ理由で助けを求めてきたんだ。でも、こうして勉強していくうちに、どういった人がなりやすいとか、原因を知れて良かったと思うんだ」

「良かった?」

「今まで縁がなかった僕から見れば未知の病気だけど、学んだことを覚えていれば“予兆”を感じ取ることができるし、進行する前に病院に行って早めの治療もできるだろう?」


 どんな病気でも、症状がどういうものかわからなければ自分で気付くことすらできない。特に精神障害は、病が目には見えない故に発見するのは自他共に困難なものだ。だから何時かまた必要になる知識かもしれないと、坂口は言った。


「本当に良い人ですね。坂口さん」

「佐野くんだって、そういうところがない訳じゃないだろう?善意とか正義感とか」

「ありますけど……そこまで積極的になるかは……」


 勿論、坂口の行動は尊敬できる。けれど、僅かに理解できなかった。

 海貴也にも善意や正義感は人並みにあるが、はっきりと表に出したことはほとんどない。誰に対しても一歩引いてしまうし、助け船を求められても、自分には無理だと考えてしまうことが多々ある。内容によってできることとできないことがあるのも理由だが、そんな消極的な理由が大元だ。

 例え、目の前で友人同士で揉み合いになっても、ひょっこり顔を出しそうになるそれをグッと押し込めて、行く末を見守るように宥め役が治めるのを待つのが定石じょうせきだ。薄情だと思われるかもしれないが、どうしても積極的に行動できない海貴也は、外から見守る役に徹したいのだ。

 でも、もし自分だったらどうするだろう。その人に同情するだろうか。気遣った言葉を掛けるだろうか。それとも、遠巻きに見るだろうか。

 

「まぁでも、その場面に遭遇しないとわからないよね。自分が抱いてる理想と、現実は違うから」


 はっきりとは想像できなかった。ただ坂口の言うように、実際に直面した時の自分の反応は違うのかもしれないと、少しだけ善人の自分を思い描いた。


「でもさ、家族や友達の力になりたいと思わない?助けを求めてるなら、大切な人に寄り添いたいって。佐野くんにも、助けてほしい時に側にいてくれた友達がいるでしょ?」


 問われた海貴也は、目を伏せた。

 助けてくれた友達。───あの時、そんなものはいなかった。

 海貴也には、暗々とした水の底に沈めた記憶がある。

 それは、小学校低学年の時。素直で純粋で、絵を描くのが好きな、世間の穢れなど全く知らない少年だった時分の出来事。

 それを思い出すと、全身の鳥肌が立ちそうになり、嫌悪感が身体を走る。

 だからその記憶を沈めて、ずっと思い出さないようにしていた。

 ふいに息を吹き返したそれを、海貴也は再び押沈めた。想起したくない過去は、振り返る必要はないと。




 夕方のパエゼ・ナティーオに、ゆったりとした時間が流れる。

 四人の主婦が空になった皿を囲みながら、旦那の愚痴やSNSの話題で盛り上がっている。かれこれ一時間くらいになるだろうか。

 ジュリウスは、少量のコーヒー豆を挽いていた。話し声に混じってドアベルが鳴ると、顔を上げて客を迎え入れる。


「イラッシャ……」


「イマセ」まで言わないうちに、ジュリウスの穏やかな表情はしぼんだ。その理由は、客が恭雪だからだ。営業中に来るのは珍しい。


「何だよ、その顔は」


 客として来た恭雪は、入り口近くの席に座る。ジュリウスはお冷やとおしぼりを持って、恭雪のテーブルに向かった。しかし、本来なら客の側に置かなければならないものを、何故かテーブルの端っこに置いた。


「……何もしねぇよ。休憩に来ただけだから」


 言葉通り、恭雪は普通にブレンドコーヒーを注文した。受けたジュリウスは、サイフォンでコーヒーを淹れて提供した。

 長居をしていた主婦たちも帰り、食器を片付けたジュリウスは、小さい鍋にお湯を沸かし、サイフォン用の新しいフィルターとコーヒーの粉を一緒に入れ、煮沸し始める。

 スマホをいじっていた恭雪は、客がいなくなったのを見計らうとジュリウスに話し掛けた。


「お前さ、アイツと仲良くなったの?佐野って奴と」


 海貴也と友達になった事実を尋ねるが、ジュリウスは何も答えない。有線のジャズは邪魔をしていない筈なのに。

 フィルターの煮沸には、十~十五分ほど掛かる。その間にテーブルの備品の補充をしようと、キッチンの棚から角砂糖と紙ナプキンを持って出て来る。


「なぁ。聞いてんだけど」

「……恭雪サンには、関係のないことデス」


 恭雪の目の前を通り過ぎながら、ジュリウスは言った。そう返される予感をしていた恭雪は、ぞんざいに扱われても平気な様子だ。


「アイツと友達になったことに、別にどうこう言う訳じゃねぇけどさ。けど、よく友達作ろうと思ったな。どんな心境の変化だよ」

「いいじゃないデスか。別に」

「ま、いいんじゃねぇの。……でも、ちゃんと言ってないだろ。()()()()


 恭雪の問いに、ジュリウスは備品の補充をしながら無言で答えを返す。


「友達になったんなら、言っといた方がいいんじゃねぇの?遅かれ早かれ、知ることになるだろうし。俺みたいに気付けば、手間は省けるけどな」


 ジュリウスは白い角砂糖を瓶に入れ、ついでにガラス容器の周りを軽く拭く。恭雪の話は耳に入ってくるが、わざと独り言にさせている。

 恭雪は席を立つと、真面目に業務をこなすジュリウスに近付いた。


「そのつもりがないなら、俺が対処してやろうか?」

「それはやめて下サイ」


 抑揚が足りない口調で、ジュリウスは拒否した。表情も殆ど変わらないから、困っているのか怒っているのか恭雪にも判断が付かない。


「俺がもう用済みじゃなければ、言わなくても構わないんじゃないか?お前がそれでいいなら、俺は今まで通りにする。お前が()()()()でいいなら」


 奥のテーブルの備品補充が終わり、隣に移動しようとした時だった。恭雪はジュリウスの手首を掴んだ。

 驚いたジュリウスは、持っていた角砂糖入りの袋を手放してしまう。放たれた四角い砂糖たちが、その身を崩しながらコロコロと床に散らばる。


「俺は、もう少し素直なお前が見てみたいんだけどな。でも言うつもりがないなら、まだ俺が必要ってことだよな」

「やめて下サイッ」


 その上、顔を近付けられ、排斥したジュリウスは手を振り払った。

 今日の恭雪は、ジュリウスに迫らなかった。営業中にそんなことをしたら、客が来たら面倒なことになると、常識的な考えから遠慮した。


「まぁ、お前のことだから、ちゃんとお前が決めろよ」


 僅かに眉頭を寄せたジュリウスは、ほうきとちり取りを取りに奥へ消えて行った。

 ジュリウスは海貴也となら親しくなれると思い、友達になってほしいと言った。しかしその所為で、鬱情とした思いを抱えてしまっていた。


 店内に、薄くコーヒーの香りが漂う。鍋の中のフィルターが、茶色く色付き始めた。




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