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第十話




 新たな週を迎えた月曜日。スマートフォンのアラームによって、現実世界に放り出された。暖かくて心地良い場所から、冷蔵庫のような寒さの中へ否応なしに戦いに出る。

 マフラーの中の首を縮め、両手をピーコートのポケットに突っ込み、蒸気機関車の煙のような息を吐きながら最寄り駅に足早に向かう。

 乗り込んだ電車は、暖房が効いていて天国だ。海貴也が乗る時はまだ車内は空いていて座席にも座れるが、市街地に近付くにつれ次第にスーツや学生服姿の乗客が増えて、最終的には満員になる。立っている乗客は、せいろの中のシュウマイにでもなった気分だろう。

 通勤ラッシュの電車から降りて、人混みに流されるように会社に向かう。駅から徒歩十分弱のビルの中に、海貴也が勤める広告制作会社リンク・エクスペンシブはある。

 新しい職場も、少しずつ慣れてきた。男性が多い職場だが、中途採用でも優しくしてくれて、今のところ居心地もいい。今日からは名刺デザインの実務を任され、この職場で初めて託された仕事に気合を入れた。

 しかし。仕事中は常に真面目に作業に当たる海貴也の集中力が、どうも途切れがちだった。


「おい、佐野。手が止まってるぞ」

「あっ……。すみません」


 隣のデスクの指導係の河西に、また注意されてしまう。今日はこれでニ回目だ。


「どうした?今日は、心ここに在らずだぞ」

「すみません。何でもないです」

〈ダメだ。集中力が散漫してる〉


 共に仕事をし始めて、海貴也が真面目な後輩だと理解する河西は、注意だけで怒りはしなかった。海貴也も反省して、再び仕事に向かう。

 海貴也の集中力を欠いている原因は、他でもない。先日のカフェで目撃したことだ。結論を出しても消化しきれず、見たものは衝撃的で簡単に忘れられるものではなかった。何度か考え過ぎだと自分に言い聞かせているが、あの時からずっと引っ掛かっている“何か”の所為で、スッキリした心にもやが掛かっている。

 これは今まで経験がなかった。誰といても、誰を見ても、こんな落日を見届けるような感覚はなかった。去年の冬に突き付けられたものとも違う。海貴也の心は、全く身に覚えのない感情に翻弄されていた。

 昼休みになると、近くのショッピングセンターの本屋に買い物に行った。読み続けているマンガの最新刊を手に取り、レジに並びに行こうとする。


〈あ。そうだ〉


 他にも買おうとしていた本があったのを思い出し、棚の案内図を見て目当てのジャンルの本棚を探す。

 探しているのは洋書。以前ジュリウスが、客がいない時間に読んでいると聞いて、同じものを読んでみたくなったのだ。自分から話し掛けるのはやっぱり得意ではないから、ジュリウスとの会話に困った時に同じ話題があれば話も弾むのではないかという、単純な購入理由だ。

 英語は読める……筈。


「……あった」

〈扱ってるタイトル、意外とあるな……。初めてだけど、どういうのがいいんだろう。それとなく、ジュリウスさんに聞いてみれば良かったかな〉


 洋書初心者の海貴也は、見本で出されている薄い本を手にしてページを開く。当たり前だが、中身は英字で埋め尽くされていて、恐らく子供向けであろう薄い本でも若干気圧された。ちょっと諦めかけるが、何冊かランダムに手に取って表紙やあらすじを見てみる。


「……これにしようかな」


 一体どれが良いのかよくわからず、結局知っているタイトルで決めた。選んだのは、映画にもなったイギリスのファンタジー小説。初心者だから知ってるやつにしておけば、挫折しないで最後まで読めそうだと思った。大まかなストーリーがわかっていれば、多少読めなくても文章の理解ができるだろうという、つまり安パイの選択だ。

 それから何とか怒られずに仕事を終え、帰って来た。最寄りの駅から自宅へ歩きながら、今晩は一段と寒いから鍋焼うどんにでもしようと考える。

 踏み切りの少し手前、闇夜に明かりが点いたヨーロッパ調の店舗の前を通り掛かった。すると丁度、店内からコックコート姿の男性店員が出て来た。


「あっ」


 その店員を見て、思わず声が出た。声を聞いた彼も振り向いて、海貴也の顔を認識した。


「……あ。お前、定食屋で会った……」


 遭遇したのは、勘違いしてしまいそうな目付きの、見たことのある顔の男性。海貴也が通り掛かったのは、恭雪が経営するパティスリー・ヤスの前だった。

 何時も仕事の行き帰りだけではなく、ジュリウスの店に行く時にも前を通っているので、ここにパティスリーがあるのは認識していたが、まさか恭雪の店だとは思わなかった。仕方がない。店に入ったこともないし、通り掛かっても恭雪の姿を見たことがなかった。だからパティスリーと聞いた時は、また別の店の人なのかと思っていた。


「どうも」

〈何か、アレを見たあとだから気まずい……〉


 あまり鉢合わせたくなかった海貴也は、せめてその心の内がバレないように軽い挨拶をした。


「仕事帰りか?じゃあ、就職決まったんだな」

「はい。おかげさまで」

「良かったじゃん。……そうだ。ちょっと待ってろ」


 そう言って、恭雪は店内に戻って行った。

 恭雪は海貴也を、定食屋で会った青年としか記憶していないようで、あの時のように気さくな雰囲気だった。例の日も顔を合わせているので覚えられていると思っていたが、忘れているのならそれで良かった。海貴也としても、忘れてしまいたいことだ。

 暫くして、恭雪は持ち帰り用のケーキの箱を持って出て来て、海貴也に差し出した。


「これ、持って帰れよ。余ったやつ。甘いの大丈夫なら」

「えっ。いいんですか?」

「ささやかな就職祝いっつーか。俺も従業員も、新作の試食やらで毎日食ってるし。今日中に食えば大丈夫だから」

「ありがとうございます。えっと……」


 彼の名前がわからなくて困った空気を出すと、恭雪は自分の名前と店のオーナー兼パティシエだと名乗った。海貴也も初めて自己紹介した。

 三回目の対面でお互いの紹介を終えると、恭雪は急に眉山を寄せ、顎を触りながら海貴也の顔をジッと見る。犯人を疑うような視線に、海貴也は戸惑った。


「……あっ。思い出した。お前、ジュリウスの所で会った奴か」

〈覚えてた〉

「は、はい……」


 できれば忘れていてほしかったという思いを込めて、海貴也は気まずく肯定した。対して恭雪は当時と変わらず、隠すことなく堂々としている。


「何か、変なところ見られちまったよな。まさか、開店前に誰か来るとは思ってなかったからさ。アイツ、動揺してなかったか?」

「いいえ。特には」


 何で自分がそんな報告をしなければならないんだと思いつつ、受け答えする。


「何だ。焦って挙動不審になったかと思った。イメージ通りかよ……。お前も驚いただろ」

「まぁ。それなりに……。でもジュリウスさんは、挨拶だと言っていたので」

「挨拶?…ははっ。アイツも適当な言い訳したもんだな」

「えっ」

〈言い訳……〉


 一笑する恭雪の一言に、海貴也の表情がぎこちないまま固まる。

 ジュリウスは確かに、挨拶だと言っていた。自分でも少しだけ疑ったのは間違いないが、ただの勘違いだという結論になった筈だ。多少、無理矢理だったかもしれないけれど。そのあとに、引っ掛かるものがあったかもしれないけれど。

 だが、ジュリウスの態度と恭雪の証言が食い違っている。


「……あの。ジュリウスさんは何時もだと言っていたんですが、そうなんですか?」


 海貴也は、事実確認をするように質問をした。


「あぁ。何時もだよ。挨拶ついでのあれは、ほぼ毎日の恒例行事だな」

〈ほぼ毎日……〉

「何時も嫌だって言いながら、付き合ってくれんだよ、アイツ。嫌がる時の反応が面白いし可愛いから、俺もやめられないんだよな」


 話をするうちに、恭雪の印象は変わっていた。定食屋でとんかつを勧めてくれ、面接を頑張れと言ってくれた優しそうな人柄から、尊大な面構えをちらつかせる別の人格に変化した。

 どこか自分を試してくるような恭雪の態度の変化に気付きながら、微妙な心持ちの海貴也は微苦笑を浮かべる。


「その……あれって、どういう意味のやつなんですか?」

「何だよ。気になるのか?」


 扉の柱に寄り掛かりながら腕を組む恭雪は、にやりと口角を上げた。


「いや。そういう訳じゃ。……オレは別に、ちょっと心配になっただけで」

「心配って。お前、ただの客だろ?」

「オレは、友達です。ジュリウスさんの」

「へぇ。友達なのか。アイツ、友達作ったんだ。珍しいー」


 一見驚いたようにも見えたが、その言葉には抑揚が欠けていた。口角も通常の位置に戻っている。

 恭雪は店内の時計を見ると、側のブラックボードの看板を持ち上げた。


「んじゃ、閉店作業中だから」

「あ、はい。ケーキ、ありがとうございました」


 ほぼ一方的に会話をした恭雪は、看板を回収して店の中に戻った。扉が閉められると、【Welcome】だった掛け看板がひっくり返された。


「……」

〈やっぱり、ただならない関係……なのかな〉


 恭雪があれこれ勝手にしゃべってくれたおかげで、心に掛かった靄が更に濃くなり始めた。靄の原因は掴めないが、何はともあれ、二人がどんな関係でも自分には関係ないと、頭を振ってそれを振り払った。

 それよりも、何処かで似たような雰囲気の人物に会っているような気がした。だが、あんな異種の知り合いはいない筈だと、突き止めなかった。

 帰った海貴也はテレビを観ながら、冷凍していた白米と冷凍食品で夕食を済ませ、食後のデザートにもらったケーキを用意する。恭雪がくれたのは、ラズベリーとブルーベリーが乗ったいちごのムースケーキだった。

 甘酸っぱいケーキを食べながら、買って来た洋書を袋から出した。


「思い切って買ってみたはいいけど、本当に最後まで読めるか不安になってきた」

〈日本の小説すらそんなに読んだことないのに、ハードル高かったかなー。長い英文自体、目にするの数年振りだし〉

「……いや!読むぞ!何ヵ月掛かろうが読みきる!」


 読む前からまた諦めそうになったが、意気込んで表紙を開いた。かなり久し振りの英文だったが、物語の始まりを順調に読み進めていく。映画を観ていたので、こんなシーンもあったなと思い出しながら、わりと楽しく読んでいた。

 が、しかし。


「あれ。この単語、何て読むっけ?」


 わからない単語の読みや意味に躓く度に、スマートフォンの辞書アプリで調べながら読み進めた。それでも、知っている作品ということもあり何とか読めていたが、一時間経過した頃、読んでは調べ、調べては読みの繰り返し作業を止めてしまった。


「……ダメだ。調べなからじゃ無駄に疲れる」

〈学生の頃は、そこそこ英文得意だったと思うんだけどなぁ。触れてないと、ここまで読めなくなるのか。オレの英語力は、十代がピークか……〉

「これじゃあ、買った意味が……。あ」


 テーブルに伏せ三度みたび諦めかけたが、良い案が閃いた。ジュリウスに教えてもらいながらはどうだろうかと思い付く。

 洋書に興味を持ったきっかけは、ジュリウスだ。気恥ずかしいから、聞かれても読む理由は明かさないが、教えてほしいと言えば付き合ってくれるかもしれない。


〈でも、迷惑じゃないかな。時間があるとしたら、休憩時間か夜?でも、どうかな。貴重な時間を潰しちゃうかな〉


 取り敢えず、時間が取れるか聞いてみることにした。ジュリウスの連絡先は、この前教えてもらっていた。LINEはやってないので、ショートメールで依頼したい旨を送信する。ジュリウスの都合もあることを承知して、返信を待った。

 暫くして「大丈夫デスよ。休憩時間でしたラ、少し付き合えマス」と返信が来たので、週末の土曜日に店に行くと約束を取り付けた。

 実は、海貴也の目的はこれだけではない。恭雪との関係を、もう一度聞いてみたかった。

 ジュリウスの発言からは、ケーキを提供してくれる親しい間柄だという意味だと受け取ったが、一方の恭雪の言動は、それだけではないそれ以上の関係を匂わせられた。

 もしかしたら同じ回答が返ってくるだけかもしれないが、それを確認してはっきりさせなければ、正体不明の靄は晴れそうになかった。




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