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第一話




 海貴也は、彼のことを知ってしまった。




 冷たい雨が、降り続いている。

 けれど、止めたくても止められない。

 彼自身には、止められない。


 海貴也は、本当は傘を持っている。

 けれど、その傘を差し出すことができない。

 彼の“秘密”を、知ってしまったから。


 例え、自分の中に芽生えた希望に気付いても、近付けない。

 近付きたくても、近付けない。

 持っている傘も、差し出せない。


 けれど、海貴也は出会ってしまった。


 それはまるで、苦手なコーヒーのようだった。






 * * * * *






 空気が澄んだ、冬晴れの日。ある小さな町の二階建て木造アパート前に、関東圏ナンバーの引っ越し屋のトラックが停まった。白と青のユニフォームのスタッフ三人が車内から降り、荷台から荷物を降ろし始める。荷物の量からして、単身の引っ越しだ。

 年が明けて暫くの、一月中旬。年末年始の連休が終わり正月ボケもそろそろ抜けてきたが、寒気はのんびり年越しをしているようで、本格的な冬の寒さはもう少し先になりそうだ。

 半島部に位置するこの地域も、冬本番の足音はまだ遠い。比較的過ごしやすいと言われるこの辺りでも、冬は平地でも雪が降ることがある。近くには温泉地もあり、観光客の足は年中絶えない。

 引っ越し屋が手際よく荷物を運び入れ、作業は一時間ほどで終わった。トラックが引き上げていくのを見送った家主は、新居に戻り荷解きを始めた。

 この部屋の新しい家主の佐野海貴也は、先月まで隣県の都市部の広告制作会社で働いていたが、彼にとってのやむ無い事情で退職し、環境を変えたくて縁も所縁もないこの町に引っ越して来た。築三十年と建物は少し古いが、室内は去年リフォームされたばかりで条件も申し分なかったので、あまり考えずにすぐ契約を決めた。

 海貴也はまず、日用品が入ったダンボールに手を付ける。食器やタオルを片付け、次にカバー付きのハンガーラックにジャケットなどを掛けたりして、冬服を片付けた。季節外の洋服が入った衣類用収納ケースや、今は読んでいない二軍のマンガが入ったダンボールは、狭い押入れに押し込んだ。


「───よしっ。こんなもんか」


 最後にカーテンを付けて、明るいうちにあらかたの片付けは完了。ただの箱だった六畳のフローリングの部屋に、生活感が生まれた。

 しまえる物は収納したが、一軍のマンガやCD・DVDがまだダンボールの中だった。一人暮らしをし始めた時から使っていたカラーボックスはだいぶ古くなっていたので、引き払った部屋に置いてきてしまった。だから、新しく買わなければならない。


〈主に必要な物は、カラーボックスくらいかな。あと、食料も買わなきゃ。スーパーは確か近くにあったけど、ホームセンターはなかったよな〉


 他にも、今後入り用になりそうな物の見当を付けながら、海貴也は引っ越し作業で疲れた身体を伸ばした。


「うーん。でも今日は疲れたし、終わりにするか。取り敢えず、スーパーには行かなきゃな。引っ越ししたなら、引っ越し蕎麦だ」


 少し休憩してから食料を調達しようと、スマートフォンの地図アプリでスーパーまでの道程を確認した。

 買い出しの前に、隣と下の階の住人に、粗品のタオルでの挨拶を忘れてはならない。一人暮らし用アパートの両隣は、海貴也と同年代のフリーターらしき同性だった。部屋の真下の住人はあいにく留守で、翌日に出直すことにした。

 行きたいスーパーは、線路を挟んだ向こう側の道路沿いにある。海貴也は町の道を覚える為に、散歩がてらに歩いて行く。


「静かな町だなー……」


 半島の端っこの海沿いにあるこの町は観光資源は特になく、海が目の前でも漁港はない。名産品と言えばみかんやオレンジなどの柑橘類だが、これはあまり知られていない。若者の流出が問題の、ごく平凡な町だ。


〈とにかく、住んでた所と違う雰囲気の場所にしたくてこの町を選んだけど、思った以上にのどかだ〉

「リセットできるかな……」


 海貴也が引っ越して来たアパートは、住宅が多い線路の東側。途中、学校のチャイムが聞こえたり、ランドセルを背負って駆けて行く児童たちを見掛けた。町には中学校もある。

 踏み切りを渡ると、店が点在している。車が往来する国道に沿って駅前の辺りまで来ると、本屋やコンビニ、個人で営業しているラーメン屋などがある。鉄筋コンクリートの鉄道の駅舎も、そんなに大きくはない。ロータリーには、バス停も確認できた。

 内見の時に大して町中を見て回らなかったので、自分が思っていたより駅前が栄えているのに安心しながら駅を横目に通過した。

 少し歩くと、脇道の入り口にお寺の看板を発見した。


〈再出発だし、お願いしとこうかな〉


 折角なので、立ち寄ってみることにした。脇道に入り山門を潜ると、石畳の先に歴史を重ねた本堂が建っていた。それほど大きくはない本堂だが、歴史の深みを醸し出す姿は父性を感じさせる。側には、寒そうな大きい銀杏の木が寄り添うように立つ。


〈ちゃんとあの人のことを忘れられて、新しい就職先も見つかりますように〉


 初めて来る所で、宗派や本尊がどんな仏かもわからなかったが、賽銭箱に五円玉を投げ入れて手を合わせた。

 新生活に向けてのお参りを済ませ、改めて買い出しに行こうと山門を通ろうとした時、門の足元に、小さな看板らしきものが立て掛けてあるのが目の端に入った。


「何だこれ?」


 看板の大きさはかなり控えめで、普通のノートの半分くらいのサイズ。しかも、かなりわかりにくい地面の上。客寄せをしたいのかしたくないのか、宣伝効果も出ているのかわからないくらい目立たない。それに、何故お寺の敷地内に置いてあるのだろう。これでは、お寺から帰る人にしかわからない。

 看板に近付いた海貴也は、身体を屈めて文字を読んでみる。「cafe paese natio」という手書きの白い文字と、その下には横に向かって赤い矢印も書いてある。


「えーっと。英語かな。……カフェ、パエセ、ナティオ……?」

〈まさか、お寺の敷地内にカフェ?〉


 看板の矢印が案内している海貴也の右側には、高さ数十メートルの針葉樹の群れ。その林の間に、細い小道が見えない奥に向かって延びていた。

 全く主張しない看板と、お寺の中にあるというカフェに、海貴也の興味はそそられた。


〈本当に、こんな所にあるのか?〉


 今いる山門からそれらしき建物は全く見えないし、道に入って行く人も出て来る人もいない。もしかしたら、もう閉店した店なのだろうかとちょっとだけ怪しんだが、どうしても気になる。

 海貴也は本心に従って、看板の矢印の通りに林の道に恐る恐る歩みを進めた。

 道に入るとすぐに太陽の光がほぼ遮られ、辺りは薄暗くなった。右側の木々の間から、鐘楼やお寺の事務所が見える。それらの建物を通り過ぎ、舗装もされていない木漏れ日の道を、名も知らない鳥の鳴き声に導かれるように進んで行く。

 林の範囲は広くなく、一分も歩かないうちに切れ目が見えた。心許ない道程から木漏れ日のトンネルを抜けると、日の光を浴びるのと一緒に強い風を受けて思わず目を瞑った。

 潮の香りに気付きながら目を開くと、そこは一面が緑色の開けた景色だった。左側には小さな砂浜と雄大な海が広がり、右側には平原を囲むように林が続く。

 そして、広い空と美しい海を望むその平原の中に、一軒のコテージ風の建物が建っていた。

 まるで、外界から隔絶された世界。


「本当にあった……」


 少し疑っていた海貴也の口から、ポロッと漏れた。お寺の中の道を歩いて来た筈なのに、仏教とは繋がりそうにない景色に、何処か違う世界にでも来てしまったような感覚になった。さながら、リアル『不思議の国のアリス』のようだ。

 この一瞬の気持ちを忘れないように、海貴也はスマートフォンで写真を撮った。丁度その時、仲の良かった元同僚からメッセージが来た。


 「引っ越し終わったか?」

 「荷解き終わった」「買い物行く途中でお寺入ったら、ついでにカフェ見つけた」


 と、撮ったばかりのカフェの写真を添付して送ると、「お寺と不釣り合いwww」という感想が返って来た。やっぱりこの景色は、お寺とセットにすると違和感があるようだ。

 海貴也はメッセージのやり取りをしつつ、冷たい海風を受けながら、店に続く土があらわの茶色い道を辿る。

 カフェは床が高くなった造りで、入り口は短い階段を上った所。デッキの欄干に、青や緑の四色のラインが塗られた、ちゃんとした看板が掛かっている。

 傍らに紫のエリカが咲いた階段を上がった海貴也は、【OPEN】の札が掛かった扉を開けた。連動して、来店を知らせるドアベルが鳴る。


「イラッシャイマセ」


 カフェの店員から声を掛けられ、スマホを見ていた海貴也は顔を上げた。


「───……」


 店員の姿を見た海貴也は、吊りぎみの両目を見開いた。

 立っていたのは、一見モデルかと勘違いするくらいスタイルが良い、赤みがかった白い肌の外国人の男性だった。美しいプラチナブロンドの髪が目を引く。縛った後ろ髪を右肩から垂らしているのに、その見目のおかげか清潔感が漂う。

 彼の周りにキラキラのエフェクトが見えた海貴也は、少女マンガのワンシーンを疑似体験しているような感覚になった。勿論、今まで金髪の外国人は見たことがある。けれど、こんな間近で見たことはない。

 ある種の衝撃を受けた海貴也は、瞬きをするのを忘れてしまった。この世の人間ではない、例えば天使のような架空の存在のように見えて、本当に違う世界に迷い込んでしまったと勘違いしそうになる。


「お一人様デスか?お好きな席にドウゾ」

「……あっ。はい」


 二言目を掛けられた海貴也は我に返り、入り口近くの窓際の席を選んで座った。

 外国人の店員は一度オープンキッチンに下がると、お冷やとおしぼりを持って海貴也のテーブルに戻って来た。コップとおしぼりを置く手も当然白く、細くしなやかな指の動きを目で追ってしまった。


「ドリンクなどのメニューはソチラで、今週のケーキはアチラの種類となってマス。決まりマシタら、お呼び下サイ」


 柔らかな表情と流暢りゅうちょうな日本語で、テーブル上とキッチンカウンターの上のミニ黒板を指してメニューの案内を済ませると、彼は再びキッチンに戻りふきんで食器を拭き始めた。ただ歩いて食器を拭いているだけなのに、海貴也はその一連の所作も目で追ってしまった。


〈こんな所で外国人がやってるなんて、驚いた……〉


 店に入ってから彼にしか目がいかなかった海貴也は、一度お冷やで驚きを冷まし店内を見回した。

 店内の雰囲気は、外観からのイメージをそのまま生かしたウッド調。少し暗めの暖色の照明とささやかにラジオから流れるジャズが、落ち着いた雰囲気を演出する。

 そんなに広くはなく、客席は全部で十八席。そのうちの奥の席で、近所の四十代の主婦二人が談笑している。所々に観葉植物や鉢植えが置かれ、一面の窓からは海が一望でき、耳からだけではなく視界からも癒しを与えてくれる。日除け屋根付きのデッキスペースもあり、そこにもテーブルが二つ用意されている。

 店内を一通り見回したところで、メニュー表に視線を落とした。ドリンクはブレンドコーヒーなどが六種類、サンドイッチが四種類。黒板に書かれたケーキは、「今週のケーキ」を含めて五種類ある。


〈今週のケーキ……。てことは、週替わりで違うのか。シュークリームと、いちごショートと、チョコレートケーキがレギュラーか。週替わりが、チーズケーキみかんソース、オレンジピール入りガトーショコラ……。柑橘類が使われてるんだな〉


 週替わりのケーキには、町の名産品を取り入れているようだった。レジ横を見ると、小型のショーケースにケーキが並べられていて、あと三種類、合計三~四個しかなかった。

 海貴也はメニューを決め注文しようと思うが、外国人の彼以外に店員が見当たらない。外国人というだけで緊張するのに、外見の印象もプラスされてとても声を掛けづらい。キッチンまでの距離は遠くはなかったので、さりげなく注文したい雰囲気を出すも、彼は俯き加減なので気付く様子がない。


「……すみません」


 海貴也は躊躇ためらいながら小さく手を挙げて声を掛けると、オーダーを取りに来てくれた。しかし彼の顔は見ず、老眼でもないのにメニュー表を顔に近付けてガン見してしまう。


「えっと……。ホットミルクティーをお願いします」

「ホットミルクティー、デスね。少々お待ち下サイ」


 引っ越し作業中に小腹は満たしていたので、ドリンクだけを注文した。数分して、温かいミルクティーが注がれたティーカップが運ばれて来た。


「ごゆっくりドウゾ」


 海貴也の給仕が一区切りしたタイミングで、先客でいた二人の主婦が席を立ち、会計をして帰って行った。彼は柔らかな物腰で見送ると、主婦たちが座っていた奥のテーブルを片付け始める。

 海貴也はテーブル脇に備えられた角砂糖を一つ摘み、カップに落として溶かす。茶葉とミルクの香りを感じながら、少し甘いミルクティーを一口飲み、ホッと一息吐く。

 飲みながら、正面でテーブルを片付ける彼の動作に視線がいった。彼が自分の側を通る時は目を逸らし、キッチンで洗い物を始めると、カップに口を付けて飲むふりをしながらこっそりその姿を見た。


〈キレイな金髪に、真っ白い肌……。何処の国の人だろう。……ヨーロッパ系かな?ロシアの人とか肌白くて金髪のイメージだから、ロシア系とか。それとも北欧系?〉


 不思議な印象を与える彼を、気にせずにはいられなかった。自然と詮索し、ジッと見つめてしまう。

 ふいに彼が顔を上げると、一瞬だけ目が合った。海貴也は不自然に顔を逸らし、景色を見ている振りをする。


〈何か、ずっと見ちゃった……。バレてないかな。変な客だと思われてないかな〉


 自分でも、今のは不自然だったと思った。不自然過ぎて、自然への戻り方を忘れてしまう。少しだけドキドキして、顔に表れている動揺が見られているんじゃないかと思うと、景色一点しか見られなかった。

 その時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが鳴って、ちょっと肩が跳ねてしまった。元同僚とメッセージのやり取りをしていたのを思い出し、何時の間にか無視してしまっていた三件分のメッセージを返した。

 その後も何回かやり取りをしていると、時間はもう夕刻を示していた。外も暗くなり始めている。買い出しを思い出した海貴也は、ミルクティーを飲み干して席を立った。


「アリガトウゴザイマシタ」


 最後まで不自然過ぎて、会計の時も彼を見ることができなかった。

 店を出て、来た道を通ってお寺に出たが、異世界から現実世界に戻って来たような感覚だった。


〈思わぬ寄り道しちゃったな。でも穴場っぽいし、引っ越し初日に見つけられて得した気分だ。……それにしても、いきなり出て来たのが外国人で驚いたな。日本語うまかったよな。勉強したのかな。それとも、日本に住んで長いのかな〉


 不思議な体験をしたような感覚だった。日暮れ時で交通量が少し増え、車の走行音と平凡な町並みの風景で、夢心地から次第に現実へと引き戻されていく。

 良い新生活の始まりになったな。そのくらいの心持ちだった。その言葉通り、この日から海貴也の新たな日々が始まった。




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