壱之玖 『入学儀式』(後)
霊的に堅固無比。
その筈の安養院学舎は今、軍服姿の怨霊のためにその金看板をあっさり降ろし、ばかりか有象無象の亡者どもの的となり果てている。
その原因の最たるものが、閻魔の権能代理者ともいえる地獄行鑑別人鬼貫八曜礼文の存在である。
その礼文は、鏡花を守るために倒れ、未だ伏したまま――。
かろうじて残った結界に阻まれた亡者たちは、それが消え去るのを今や遅しと待ちかまえ、舌なめずりしている。
結界のカギは誰あろう、この安養院学舎高等部の新任学長補佐、羽衣香音であった。
今、香音は軍服の怨霊に迫られながら、必死で破邪経を唱えている。
しかし、その声が大気を振動させることはない。言霊を発現させるはずのその口元は、次第に絶望に震えつつあった。
「言霊封じ……音無の呪法よ。あたしたちが此処に降り立った時、微かに感じた……。それがヤツだったってわけね……」
今の鏡花には、絶体絶命の香音を救う手立ては一つもない。
「ここが地獄ならあんなヤツ……」
鏡花には閻魔大王譲りの強大な霊力が備わっている。
ただ、歯噛みする通り、この人間界に降り立ったすぐの、肉体構成変換が不完全な状態では、能力は使えない。使えば一瞬にして、鏡花は塵と消し飛ぶだろう。
他者に憑依るという手もあるが、どうせ使えはしない。
今講堂に、二本の足で立っているのは鏡花一人だったし、それ以前に適格者がいない。
地獄由来の能力を使いこなすほど霊力の高い者は、そうごろごろいるものではないのだ。
望みは礼文のみ――。
礼文なら、その地獄行鑑別人としての能力で、強制的にあの怨霊を地獄に送ることができるだろう。
己が下僕たる礼文を、羽衣香音のために使役することは面白くなかったが、香音とは白黒つけたい事も、鏡花にはある。
「いま礼文を起こすから、もう少し持ちこたえなさい!? ちょっと聞いてんのっ!?」
――聞こえるはずもない。
香音はか細く残った六根を、極限まで研ぎ澄ましている。奥の手、『文殊』のためだけに。
そして、その為の気は練られた。怨霊をうち祓う『破』の文殊が、閃光をほとばしらせ現出する。
「あいつ考えたわね! 言霊を封じられても『文殊』ならっ!? いけるのっ!?」
さすがの怨霊もこれにはたじろぎ、一瞬その姿は虚空の陽炎の如き体を為した。
が、一瞬は一瞬である。
むしろ怨霊は、さらなる瘴気を肉体全体から噴出させ、文殊は砕け散った。
――そればかりか。
今、神聖なる結界はその瘴気により、腐り落ちようとしている。
そして、この安養院敷地内にある、邪を制し魔を滅す物すべてが、果てようとしていた。
「ちょ、礼文っ!! いつまで寝てんのっ!? マジにピンチだって!!」
ついにこの講堂で、立っているのは鏡花ただ一人。
香音をはじめ伏すものたちは、どうしたわけか衣服が溶け出していた。
「すごいわね……。この学舎は制服まで邪を祓う糸で織られてるんだわ……って、感心してる場合じゃないわっ!? それにあたしもっ!? うそっ――」
もはや鏡花の制服も溶け始めている。
その悲鳴に反応しないなら男ではない。
礼文は突如両の眼を見開き、鏡花を確認し、その後遠慮するように香音の方を見た。
二人ともとっくに、下着姿同然である。
「おいっ、礼文っ!! すげえな!? これお前がやったのか?」
ついでに目を醒ました火野猛の、あまりの光景に怨霊が眼に入らない様に呆れながら、鏡花は近くのカーテンを破って身にまといながら言った。
「人の難儀に付け込んで……この女の敵どもっ!! ほらいくわよっ礼文っ! 閻魔代行プログラム、セットアップ!!」
鏡花の声は、畳一畳ほどの空間投影ディスプレイを発生させた。
「礼文!! 今度こそ初仕事よっ!! パスワードを入力してっ!!」
礼文は黙ったまま仁王立ちして両腕を丹田の前でクロスさせた。
ディスプレイが四角の伏せ文字で埋まっていき、やがて一節の文言がディスプレイに朱文字で浮かび上がる。
■STANDING BY COMPLETE PROGRAM ENNMA■《プログラム閻魔 起動完了》
「やった!! あとはあの怨霊の名前!! 大丈夫、『プログラム閻魔』に死角は無いっ!!」
鏡花が叫ぶと同時に、ディスプレイに男の名前が現れた。
■GA-JYU-RA BI-SEI■《我樹浦美成》
■Died 1946 He was Killed■《没年1946 死因 殺害》
「あーもうっ!! 死因なんてどうだっていいわよっ!? 礼文っ早く鑑別なさいっ!!」
焦る鏡花。必死の礼文。そしてそれを他人事のように眺める怨霊、我樹浦。
そしてもう、ディスプレイには至極単純な質問文言が浮かび上がっている。
■Go to Hell Will that be OK?■《地獄行き これで良いですか?》
「いいわよっ!! あれほどの怨霊相手に、それ以外何があんのよっ!? 礼文っ!! やりなさいっ!!」
少々荒っぽい命令だが、おかげで正直なところ礼文が感じている後ろめたさは半減した。
鏡花が半分背負ったのだと言い換えてもいい。
ともあれ、最後のコマンドが完了した。礼文も大きなため息を一つ……。しかし――。
■Error------■
「はあぁ!? 何!? どういうことっ!?」
思いもせぬ結果に、礼文と鏡花はすぐさま怨霊――我樹浦――を見た。
「愚かなり……。閻魔の代行者たちよ……。我を地獄に堕とすこと、能わず……」
初めて聞いたその声に、しかし鏡花も負けてはいない。
「とんだ入学儀式になったもんだわね……」
鏡花にはまだ、奥の手があった。