壱之陸 『校舎裏トライアングル』(後)
張りつめていた風船が、無くなった。
破裂したのなら諦めようがある。口が緩んだのなら、勢いよくきりもみ、ひと時くらい楽しめただろう。だが今の状況はどちらでも無い。
いつの間にかしぼんでいた時のような無常感。
あれほど存在を誇示していた風船が、だらしなくしぼんでいる姿はゴミでしかない。
だから、その風船を三人は脱力して見つめている。
風船とは、鬼貫八曜礼文。
三人とは、円真鏡花、かわどう、猿。
だが、いつまでもこうしていても仕方がない。
鏡花は、完全に失墜した(であろう)威厳を取り戻すべく、やおら口を開いた。その声は少し上ずっていた。
「ところであんたたち? この場所にあたしが現れたこと、どうして解ったのかしら? ちょっとはつかうみたいだけど、嗅ぎ付ける程鋭いとも思えない。なんせ、このあたしに挑みかかるんだから、身の程知らずかそれとも……後ろに誰かが居る?」
なりは普通の女子高生とはいえ、流石は閻魔大王の孫娘である。
鏡花は刺客の二人に対し、一挙に核心を突いて見せた。
二人は答えない。
鏡花も追い詰めはしなかった。その代り――。
「あんたたち、名前は?」
勝者の権利と言わんばかりの高圧で、鏡花は二人に問うた。
これには思わず『猿』が反応する。これは鏡花の計算通りだった。
秘密を問い落とす為には、まず答えにくい質問を出し、直後に容易いものを切り出す。
「私は猿田……猿田優。こっちはかわどうさん。えっと漢字はさんずいの河にわらべ(童)河童千恵。カッパって呼ぶと怒るから、気をつけ……」
「こらっ!? 猿っ!? カッパ言うな!!」
「ごめん、千恵ちゃん?」
「それもやめろっ!? オレはかわどうだっ!! 猿っ!」
「かわどうさんだって、人のコト猿、猿って! お嫁に行けなくなっっちゃう!」
「そりゃあ、おまえ。俺とおまえは幼稚舎からの付き合いだろう? それに嫁の貰い手が無かったら俺がもらってやるよ――」
「えっ!? かわどうさん? 今、なんて……」
「何度も言わせんな。おまえは俺が面倒みるって言ってんだよっ」
「か……わどう……さん?」
*
*
*
「えーいっ!! うるさいっ!!」
突如として始まった二人の妖しい世界に、鏡花は体中がかゆくて仕方がない。
隣では礼文が、相変わらずの無表情で立っている。
(どいつもこいつも……。ま、いいわ。こんな奴らでも何かの役には立つでしょうよ)
鏡花がそう思いなおしたのには、訳がある。
慣れない人間界で、しもべが礼文一人では頼りない。男女の違いもある。礼文になんでも命じる訳にもいかなかった。それに、この二人はまあ、面白い。
人間にしては、まあ稀有なつかい手である事は間違いなかった。それに、かわどうと猿の背後に見え隠れする『何者か』も気になる。どうせ今後も狙われるのなら、あえて火中に栗を拾いに行くのが鏡花のやり方である。
鏡花は声高らかに、宣言した。
「じゃあ、カッパに猿。それにハチ……は犬ね。豚じゃなくって残念だわ。ふふっ、三人でチームを組みなさい! もちろんあたしを守るためのチームよ! チーム名は、そうね……『校舎裏トライアングル』でどうかしら? どうやらこの学舎は、色々とあるみたいだから、楽しくなるわよ!」
「そ、そんなあ――。この事が羽衣さんに知れたら私たち、こ、こ、こ……」
猿が一気に顔面蒼白となり、かわどうに抱き着いている。そのかわどうも、身の震えを隠しようもない。
「ふーん、羽衣って言うんだ。あんたたちの元ボス。いいわ、あたしが話をつけてあげる。今日からあんたたちが『校舎裏トライアングル』だって事をね――」
仁王立ちの鏡花。肩を落とす猿とかわどう。そして、相変わらず無表情の礼文。
校舎裏で出会った四人。
この時四人はまだ知らない。
この先、礼文の『アンバサダー』をめぐって、運命の戦いが始まるであろう事を。
そしてたった一つ、本当に些細な事だが、礼文だけ気が付いていた事がある。
それは自身の丹田に刻まれた『八曜』の文字に感ずるチクリとした痛み。
それは礼文に『何か』を思い出させようとするような痛みだった。
痛みの向こうから、一人の少女が手招きをしているようにも、礼文は感じている。
だから礼文は、そっと八曜の文字に手を当ててみた。