壱之伍 『校舎裏トライアングル』(中)
霊的に不安定な場所というのは、何かを生み出すことに不向きだが、何かを引き寄せることには向いている。
『何か』とはもちろん災厄、怪異の類。
ただし、何事も火種がないと煙は立たぬように、ここでも触媒無しに『何か』が起きることはあり得なかった。
そして、それらがここまで到達するには、あまりにも他の場が清冽であり、神々し過ぎた。
だが、二人は尋常ならざる道を辿り、此処に在る。
二人とは鬼貫八曜礼文と円真鏡花。
尋常ならざる彼らの故郷は、地獄である。
そんな危うい二人の在る場所に、なぜどうして、こんな少女が紛れ込んだのであろう。
礼文にとっては初めて見る人間の少女である。
鏡花にとってもそれは同じだった。二人して見慣れているのは、人の魂でしかない。
だから二人は油断した。まず自分たちが攻撃を受けるなど、露ほどにも思わなかったのである。
それは一瞬のきらめきだった。
――斬っ惨っ懺っっ。
三段備えの突きが鏡花の腹、胸、顔を狙う。
旋風の突きはまさに疾風の威力をもって、鏡花の身体を後方の校舎壁に追い詰めた。
しかし……当たってはいない。
「おっしい……惜しいっ! かわどうさんっ! でも、一気にやっちゃって下さいっ!!」
「猿っ!! 言わなくても判ってるってーの!?」
そう、刺客は二人。
ほんわかした少女に気をとられ、しかもそれが初めて見る人間の実体でもあった為、礼文も鏡花も影に控えたもう一人に気づかなかったのである。
鏡花に突きを見舞ったのは、『かわどう』という名の女子だった。
長身で礼文くらいはある。茶髪のロングヘアは腰まで伸び、スカートも地に付く長さ。
その瞳は、まだ本気で無い事を匂わすように、不敵に光っている。
『かわどう』は礼文に言い放った。
「おいっ!? 赤髪っ!? オレに加勢しろ!! あの女から逃れたいんだろ!?」
言いながら『かわどう』はもう、礼文の目の前にまで走り詰めている。
そして三歩手前から――跳んだ。
思わず両手指を組んだ礼文の、それが跳躍台となり『かわどう』は天へと舞った。
長いスカートのひだの裏側から、太陽の陽射しが妖しく射しこむ。
露になった下腹部は白く、それを覆う布切れは青い縞々であった。
「たあっーーーーー!!」
天空の蹴りが、鏡花を狙う。が、鏡花の興味はそこには無い。
「ハチいぃい!? 覚えときなさいよぉ!? 咄嗟とはいえこいつらに加勢した事、死ぬほど後悔させてやんだからっ!!」
鏡花の右手指が天を指した。その目は礼文を睨んだままである。
その激烈な圧迫に、『かわどう』は蹴りの体勢を解き、一回転して着地した。
もしそのまま蹴りに行っていたら、間違いなく只ではすまなかったろう。
無論、『かわどう』が、である。
「もうーかわどうさん。見切り早すぎぃ!! でもこういう手合いは私の出番っ!! 《急ぎて律令の如くぅ……爆ぜませ土竜の骸!!》 爆散っっ!!」
見た目可愛らしい少女は、最も不似合いな呪禁を唱えた。
「何っ!? こいつ陰陽師!? なんでっ!! ハチっっ!!」
礼文は呼ばれるより早く、鏡花の身を護るように覆い被さっている。
突如の爆散による土煙で、刺客二人は一瞬礼文と鏡花の気配を疑った。
「もうー猿? やりすぎだっつーの! ってか死んだんじゃねーか? 見ねえツラだったから転校生だろ? こりゃあやばいぜ……」
「うっきっきっ! やりすぎちゃった……かな? でもあんなに禍々しい気を放ってたお二人が、死ぬわけ無いじゃあありませんか? あー楽しかったっ! それより入学式始まっちゃいます。とっとと行きましょ?」
「俺もやばいけどお前も大概だな……」
背の高いスケバン武術家が『かわどう』で、呪禁を唱えた天然娘が『猿』。
二人の失敗は、相手の地に伏した姿を確かめもせずに、背を向けたことである。
まあ、無理もない。
これまで幾度かこうした乱闘を起こしていた二人だが、どんな腕自慢な無法者であっても二人に敵うものなど皆無だったし、二人の眼鏡に適う者もいなかった。
今回もそうだった。
それだけの事である。しかし――。
「ちょっといい? く、く、く、く……ああ、可笑しい。人間ってほんと可愛いわ……。これぐらいで『勝った?』 ああ、愚かだわ……あたしたちには勝ち負けなんて無い。あるのは生き死にのみ。く、く、く、ハぁチ? こいつらが最初の鑑別対象よ。あたしが今から始末するから、さっさと鑑別なさい?」
背中越しに聞くには堪えられない鏡花の冷たい声は、麗しくすらあった。
そして鏡花が胸の高さにまで上げた両手に、どす黒い空間が生まれつつある。
鏡花は、もう顔色を失い立ち尽くす『かわどう』と『猿』に向けて、一言つぶやく。
「コ・ロ・ネ」
一瞬で二人は、暗黒のウツボのような物体に巻き付かれ、ちょうど菓子パンの『コロネ』のような形に収まった。
おそらくもう一息、鏡花が気を込めたなら、二人はただでは済まなかっただろう。
だが、鏡花は待った。
礼文の鑑別を――である。
――アンバサダー(地獄行鑑別人)。
その初仕事をこなす為であろうか。
礼文は特に『猿』の方を選んで、ゆっくり歩み寄った。
『猿』の顔が恐怖にひきつる。
「あはっ! そうね。そいつの呪禁であんたも痛かったからねえ? まあ初仕事よ。しっかり、地獄行を宣告しなさいな!」
「ひ、ひ、ひぃいいい助けてっっ」
泣き叫ぶ『猿』を助けようにも、『かわどう』には何ともできない。
できるのは、この正体不明の転校生(?)に関わってしまった事を、後悔することくらいである。
そしていよいよ、礼文は『猿』の立つ前に達し、なぜかその場でしゃがんだ。
『コロネ』は黒色ガス状で、特に接触を遮断するものではないようである。
礼文はそれを確かめるように二、三度手の平をプラプラさせると、一気に猿のスカートをまくった。
「……………………へ?」
鏡花が固まる。『かわどう』も何が何やら解らない。
『猿』だけが、自分がこれから受けるであろう辱めを悟り、泣き喚いた。――が。
礼文は納得したようにスカートを戻すとおもむろに立ち、鏡花に向けてうなずいた。
「え……? なに? あんたまさか、パンツを確認したかった……の?」
礼文がコクリと頷く。
今、礼文は思っている。
女子は強い、と。
なぜなら、あの頼りない布一枚で、白く柔らかな腹や、ふくよかだが恐らく攻撃には脆弱であろう尻を守っているのだから。
「ハチ……? あんたまさか……バカなの?」
校舎裏に、鏡花の声が悲しく響いた。