壱之肆 『校舎裏トライアングル』(前)
安養院学舎。
『あんよういんがくしゃ』と読む。
この老人介護施設のような名の学舎はそれもそのはず、元の起りは養老院そのものである。
そこにまず幼稚舎が併設された。その童たちが育ち小学校が、更に中等部が、高等部が設立された。無論大学も在る。ここの生徒たちはエスカレーター方式に学を修め、社会へ羽ばたき、終の棲み処として再び帰ってくるのだろうか。
まだそれを実践したものは居ないが、ここまで至れり尽くせりの学び舎は無いであろう。まさに『人生寄り添い型学習施設』それが安養院学舎の持ち味であり、新しい学校の在り方を模索する、識者注目の研究材料でもあった。
――立地は緑なす小高い丘の上。
学舎の屋上からは、ふもとの街並みがおもちゃの様に一望できたし、かと言って喧騒とは無縁。そのあり方と並び、実に浮世離れした存在であった。
なお中等部高等部は、ほぼ全寮制。無論、余程の近在の生徒か両家の子女でなければ、この素晴らしい環境からわざわざ離れようとはしない。
校舎は、霊格の高い修験者に縄張りを頼み、風水、占術、古今東西のまじない全般に至るまで抜かりなく考え抜かれた、まさに現代の城といえる造りだという……のは噂の範疇を脱しないが、まあ当たらずとも遠からじであろう。
これまで自然災や事件事故の被害は皆無なのだ。
しかし、そんな学舎に一点、墨を落とすように霊的不安定な場所が在ることを知るものは、そう多くない。
それが高等部校舎裏。
修験者の見落としか、それとも一点曇らす事で全体の安定を計ったのか。
全てに健全であるというのは、大抵不健全であるとでも言うように、その場所はいつも暗く多湿で、誰も寄り付かない。
さて――。
この校舎裏が今、地獄の回廊を抜けて降り立つ二人の始まりの地となる。
不遇の子、鬼貫八曜礼文。そして閻魔の孫娘、円真鏡花。
虚空にぽっかり空いた黒い渦から、先に降り立ったのは礼文であった。
その跳躍は赤髪を逆立たせ、万歳するような格好はどこまでも鷹揚で、その背を見守る鏡花は思わず頬を緩めた。
しかし、先に大地に立った礼文に投げた言葉は「カッコつけんじゃないわよっ」である。
そしてすぐに、鏡花が舞った。
舞いながらも口にするのは、悪態と命令。
「バカっ!? 上を見るんじゃないわよっ!? 見たらコロすっ!!」
上からの高さは四、五メートルはあろうか。受け止めようと両手を構える礼文は、当たり前だが困った。
見なければ鏡花の落下を受けきれない。かと言って見ればコロされる。
なぜそうなのか分からないが、礼文は片目をつぶって身構えた。
「バカっ!? ハチっ!? なんのウインクよっ!! バカバカっ変態っ!!」
結局、鏡花は礼文に前方から肩車されるような形で着地した。
「よくも……見たわねっ!?」
鏡花は片手で礼文の赤髪をむしる。
礼文には鏡花がなぜ怒っているのか、まだ要領を得ない。
ただ、鏡花の身に着けた頼りない布切れに、パインやイチゴやバナナの絵が装飾されていた事が、多分秘密だったのだろうと理解した。
鏡花のもう片方の手が、そこをしっかと抑え隠しているからである。
「いいこと!? ハチ。あんたは今から……いいえ、今までもこれからも、あたしの下僕。あんたはあたしを守るためなら、たとえ魔獣の咆哮だろうとひるむことすら許されないっ!! 覚えておきなさい? あんたはアンバサダー(地獄行鑑別人)。だけどあんたの地獄行はあたしの手の内にある。地上に戻ったからと言って調子に乗るんじゃあ、ないわよ?」
鏡花はそこまで言うと、割と居心地のいい礼文の肩の上から、自身を降ろすよう命じた。
降り立つと改めて礼文をにらんでみる。
相変わらず無変化な礼文の顔に、鏡花はもう一度叱咤を入れた。
「あんた――何も解っちゃいないわね? 地獄ボケってやつ? まあいいわ。そのだらしない耳をかっぽじって、よっく聞きなさい? 心がけ次第ではあんたの鑑別人数九百九十九人、誤魔化してあげたっていいのよ……?」
突然の申し出にも、礼文は動じなかった。
鏡花の顔色が一変した。
「――ふうん。不正は受け付けないって? ご立派な事……。ハチのくせに……。でもね、覚えておきなさい? あんたなんか全部あたしの手の平なの。そう決まってるの! 解った!? 解ったなら今すぐそこに跪きなさい!! ハチっ!!」
礼文は、自分が本当の名前ではない『ハチ』と呼ばれる事と、鏡花の理解できない怒りに戸惑いながらも、その場に膝をついた。
――絶対服従。
今が運命の、その瞬間だったかも知れなかった。
この時不意に聞こえてきた、この声がなかったならば――である。
「ななななな、何してるですかっっっ!? いじめ、ダメっ、ぜったいっ!!」
声の主は、肩まで伸ばした黒髪と、白いリボンが鮮やかな小柄な少女である。