壱之参 『地獄回廊』
地獄から人間界へ。
それを転生と解し、地獄に堕ちた場合の一筋の光明としているのは、人の勝手というものである。
地獄から帰還した者の話は時々聞こえては来るものの、それは奇談の範疇を超える事がなかったし、科学的検証もされてはいたが、どれも空想・SFの域を脱し得ない。
むしろ民間伝承が最も信憑性が高く、人はそれを密かに信じる。
だから今、地獄から確かな意識を持って人間界へと逆行している二人は、初めてこの世にその現実を詳らかにする者として、責任重大であった。
もっとも、礼文も鏡花も、そんな気持ちは毛頭持ち合わせていないのだが。
ともあれ、暗闇の中に射す一筋の光明を頼りに歩みながら、鏡花は問わず語りにしゃべり続けている。
元来、おしゃべりな娘なのである。
「ねえ……ハチ(礼文の事を、鏡花は八曜を略してそう呼んだ)。 この暗闇の中にある無数の魂があんたには見える? ううん、この魂が光を閉ざしているのだわ。今日は特に深い……。地獄へ行く魂たちに憑りつかれないように、せいぜい気を引き締める事ね……」
礼文は答えない。
鏡花も答えなど望んでいない。
「あたしは閻魔の一族だから、こんな奴らどうにでもできるわ。あんたはその身に刻んだ経文に護られているようね……。まあ、このくらい捌けない様じゃ、地獄行鑑別人なんておぼつきもしないけど――」
先を行くのは鏡花。礼文は常にその後ろに付いていた。話は続く。
「あの魂たち……地獄に向かうとこだけど、一体どうなるか知ってる? 知りたい?」
ここで初めて鏡花が止まった。礼文は鏡花の背中にぶつかった。
「鈍くさいわね、ハチ。ま、いいわ。それよりあいつら、ある程度地獄で務めたら転生できるなんて、甘いこと考えているみたいだけど、そうはいかないのよねぇ。ふふ、なんせ地獄に堕ちる程の連中なんだから、先なんてあるわけ無いじゃない?」
この時、礼文の表情がわずかに変化した。
その変化は、礼文が地獄で可愛がっていた花たちが、コトリとその首を落とす時と同じだった。余談だが、地獄の花は椿のように散る。
鏡花はその変化を楽しむように眺めると、一気に結論へと向かった。
「地獄ではね、苦行も責め苦も無い。自由よ。遊び呆けたければ、それも叶う。でも、ね」
鏡花は口元だけで嗤った。
「九百九十九日。そんな毎日が続いた時、やつらは晴れて真の地獄に堕ちるの。餓鬼界……。互いに襲い、奪い、犯し、永遠に救いのない、終わりのない地獄。どう? 素敵でしょう? ハチ!? あんただってそうなる危険はあったのよ? なんせ地獄に堕ちたんだから……。お気の毒に、父母の望みでねえ。でもあんたは来る日も来る日も、日がな一日花を見たり雲を眺めたり。十六年もね。そんな奴、初めてだったわ――。だから……」
鏡花は礼文の首に自分の両腕をかけ、指を組むと一気に引き寄せた。
礼文の顔は、まさに鏡花の顔の前にある。
「あんたが地獄行鑑別人として、九百九十九人捌くことができたなら、ご褒美に願いを一つ叶えてあげるわ……。ふふっおじい様(閻魔大王)に、このあたしがねだったのよ? 何でも、どんな事でも、一つだけ。このあたしが欲しいってお願いしてもいいのよ? ど・う?」
どうもこうも無い。
礼文はこの体勢でも、この破格の待遇話を耳にしても、まるで表情を変えなかった。
変えぬまま、暗闇の魂たちをじっと眺めている。
そして、初めて礼文は口を開いた。
「あ、あ……」
礼文は泣いていた。
涙を流すのは、あの十六年前の、生まれ落ちた日以来の事である。
「な、なによ! 同情? 安いわっ!! あいつらはそれだけの業を背負ってる。因果よっ。それとも何? 地獄行鑑別人やめて、あいつらに付いて行くなんて言わないでしょうねっ!?」
指を解き、鏡花は一転、鬼の形相で喚き散らした。
礼文はその怒声をもう、背中で聞いている。
背の高い礼文は割に早足で、あっという間に鏡花は置いてきぼりをくらった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ!? こんなとこに置いてかないでっっ!!」
たった一人になると暗闇は更に深い。
鏡花は自分の言葉に狼狽しながらも、駆け足で礼文に追いついた。
今は礼文が前。鏡花が後ろ。
そして行き先が、もう見え始めている。
――安養院学舎高等部の校舎裏。
そこが、二人が初めて降り立つ、人の住む世界である。
やがての出口から舞い込んだ桜の花びらが、礼文の頬につく。
礼文はそれを、暗闇の深い方へと舞わせた。