名前の意味
ボタンさま、という者の住まいは、里から少し離れたところにあった。
小高い位置に構えられた社、その奥におわすのだという。
スオウが言うには、この〈花玲苑〉では自分の住む場所と自分だけの花園を与えられるらしい。しかしボタンはその二つを一箇所としており、それがあの社であるというのだ。
社の前には、石段が続いている。
スオウに言われ、サクラはその石段の下で待っていた。
混乱する感覚を抑えて、これからするべきことを考える。けれども何も思い浮かべることはできない。
果たしてここでの身分はどういったものになるのか。
まさか、急に捕らえられたりはいないだろうか。
食に困ったらどうしよう。
いいや、そもそも、どこで寝ればいいのだろうか。
よもやスオウの元で……など不埒なことを考えてしまう。確かに、あの儚げながら艶やかな少女の元にいられるならと、邪な妄想もしてしまうが、それはさておきだ。
百面相をしていると、ちらちらと視線が気になった。
この〈花玲苑〉に暮らしている人たちの目だった。他所からやってきたサクラのことが気になって仕方ないのだろう、と思った。それは頭で納得するのだが、むずがゆい。
「ねえ、あんた、名前は?」
女の子が一人、話しかけてくる。スオウと同い年くらいだろうか。
生意気な口調であるが、他所者にはそういう態度をとることがあるかもしれない。サクラは余計なことは言わないようにしようと決めた。
「サクラ、って名前になるんだと思う」
「いままで名前がなかったの?」
「なくしちゃったんだ。ここに来たときにね」
我ながら、不思議なことを言っているように思えた。
なくそうと思ってなくしたわけではないし、〈花玲苑〉に来たくて来たわけではない。
でもまるで、自分の意思でそうしたかのように口にしてしまった。それはスオウが〈代償〉だと言ったからかもしれない。
ふうん、と女の子は納得したような、していないような風に言った。
「でも、ここにあんたの場所はないよ。サクラ、なんて、あの〈花園〉をあんたが使っていいわけないし」
「……ツバキ」
気になることを女の子が口にしたとき、割って入るようにスオウがやってきた。
ツバキ、と呼ばれた女の子は、スオウが現れると打って変わったように表情を華やかにした。
「スオウ、おはよう」
「おはよう。サクラはこれから〈花玲苑〉の家族となるのだから、そんなことを言ってはだめ」
「え、それじゃあ」
顔を歪ませるツバキに、スオウは頷いた。
ボタンさまから許可が下りました、と言った。桜の地はサクラのものとなり、これからはこの里の一員として役割を果たしていくのだと。
自分のことのはずであるのに、まるで遠い出来事のように思えた。
「でも、この人は」
「でももなにも、これは決まったこと。これから仕事だよね? しっかりしないと」
有無を言わせない言い方だ。威勢の良かったツバキも、相手がスオウだからか、はたまたボタンの決めたことであるからか、何も言わなかった。むしろ、何も言えなかったのだろうか。むぐぐ、と唸って、顔を背けてどこかへ行ってしまった。
ごめんね、とスオウが言った。スオウの謝ることではないし、ましてやツバキという女の子がとりわけ悪いということではない。
もし悪いとすれば、それは自分だ。そしてサクラは、そのことを受け入れていた。何の抵抗もなく。
「サクラも、仕事だって」
「僕にも? 働かざる者、食うべからずってことか」
「それも君の地の言葉?」
「わからない。でも、どこでも言えることだと思う」
確かにね、とスオウは笑った。
その笑顔に、思わず見とれてしまいそうになって、それが彼女に知られてしまうのが嫌で顔を伏せた。覗き込んでくるスオウを避けて、サクラは自分の仕事のことを急かした。
「それで、僕の仕事ってなに?」
「うん、ついてきて」
スオウが言った。サクラはふうと息を吐く。
働かざる者食うべからず。いまは里の人たちに受け入れてもらえてないかもしれないけれど、仕事をしていれば認めてもらえるかもしれない。
……大切なことを見落としているような気がしながらも、サクラはスオウに従った。いまの自分には、それしかないのだから。
* * *
サクラに与えられたのは、わずかな空間と、作業場だけであった。
その作業の中身というのがひとつの問題である。
課せられたのは、ただひたすらに、ゴミの山を分別し続けること。
膨大で、山積みになったゴミの数々。中身も様々で、混沌としていた。
そのうちひとつを取り出した。廃れた農機具だ。これを刃と持ち手に分けて、置いておく。再利用できそうなら、必要としている人家へと届ける。
「誰かがやらないといけないの」
スオウがそう言った。それはそうだ。
確かに必要な仕事だろうと思うが、それが自分一人だけでやるのは別問題だ。
ゴミ山の前で、サクラはうんうん唸りながら、手をつけられずにいる。
ここに来たばかりの自分にふさわしい仕事なのかもしれないが、それにしてもあんまりある。
ふと目をやれば、視線に気づいたスオウが手を振っていた。
正座をして、にこやかで。打刀を脇に置いているが、それだけ見れば、どこかの礼儀正しい、よく教えられた令嬢のようでもあった。
お気楽なものだな、と眺める。
「スオウは、仕事はいいの?」
「私にも仕事はきちんとあるよ。〈花玲苑〉にいるみんな、仕事はきちんと持ってる。でも、私のそれはいまじゃない」
スオウが言った。ふうん、とサクラは頷くしかない。
まさか、こうして自分を監視することが仕事なのではないかとすら思ったが、それはないだろうとすぐに考え直した。
サクラが来るずっと前から彼女はいたのだから、その仕事もまた、ずっと前からあったにちがいないのだ。
そう、ずっと前。サクラはどこかにいて、ここに来たときには、その「前」を失っていた。
記憶という形で失われた「前」であるけれども、それは己を証明するものではないだろうか、と思ってしまう。残された知識と心がそう告げていた。
「ねえ、僕はどこにいたのだと思う?」
仕事の合間に、そう問いかける。
スオウは首を傾げて、言った。
「その問いに意味はあるの?」
え、とサクラは、今度は体ごと彼女へと向けた。
「あなたはここに来たのに、どこから来たのかは、大切なの? 過去にこだわるというならそれは」
美しくなくなってしまう。
スオウが、その艶やかな唇を動かしてそう言った。
ぞっとする。背筋に何か寒いものが走る。それはきっと、生まれもったものによるものだ。
彼女は言っていた。サクラが失ったものは、美しくなるための代償であったと。
であれば、その「前」は美しくないものにちがいない。
それがスオウには、いいや、〈花玲苑〉には許せないのだ。
「サクラとしてのあなたには、いらないもの」
それはまるで、母のようで、姉のようだった。
子が違うものに意識を持ったことに、拗ねているようで。
微笑ましい、というべき場面にもかかわらずサクラは、笑うことしかできない。
無垢な少女の体から発せられる、危うげな気配とのあまりの落差に、くらっときてしまいそうであった。
からんからん、と鐘が鳴った。
なんの音だろう、サクラが音のした〈花玲苑〉へと向くと、スオウが立ち上がった。
「仕事だ」
そう言う彼女の声音からは、感情が抜けている。
サクラがきょとんとしていると、スオウはその手をとった。
「行くよ」
「え、でも、君の仕事だろ?」
「そう、私の仕事。これから起こることはすべて、私の仕事なの」
でもね。
「この仕事は君にも見てもらわないと、いけないんだ」