花の名前
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自分とは違う温度を感じたとき、目が覚めた。
柔らかい感覚に包まれている。故郷の草木に包まれているような気がした。記憶にもない故郷であるけれども、そう思えた。目には見えずともわかるというのが、懐かしさなのだ。
少年の意識が浮上する。ゆるやかな浮上は、暖かく出迎えられた。
瞬きを繰り返す。ぼやけた視界に、人影が映る。
「あ、起きたんだ。おはようございます」
聞き覚えのない声だ。けれども女の子の声とわかって、どうしてか安心した。
その短いことばにふくまれたやさしさが、どうしてか胸をうった。拠り所を見つけたように思えた。おかあさん、とはちょっと違う。
不思議なことに、この子を知っている、という感覚であった。そんなことはないはずなのに。
跳ね上がるようにして身を起こした。ごつん。頭がぶつかる。
「いてて。急に起きないで。痛いよ?」
自分の額をさすりながら少女は言った。
そうは言われても、何が起こっているのかにわかに理解が追いつかないでいる。
驚きと頭をぶつけたことで目がちかちかとするが、落ち着いてくると少女の顔がはっきりと見えるようになった。
「まさか覗き込んでいるなんて、思いもしなくて」
「むう、きちんと確認してよね」
頬を膨らませる彼女を見て、少年はこんなときではあるが笑ってしまう。
しかし、自分の状況を把握すると顔が真っ赤になった。
少女の膝に頭を乗せて、顔を眺めている。これはいわゆる、ひざまくら、というやつだ。
少年の方は気が気ではないが、少女は気にしないというような様子だった。
どぎまぎして、つい頭を動かしてしまう。そのたびにふとももの感触と少女の香りが伝わってきて、悪循環であった。
「ここは私だけの場所なので、誰も来ませんよ」
「問題は果たしてそこなのかな……」
「もうしばらく休んでもいいですけど」
「十分に寝たよ」
そう言って今度こそ起きた。身を起こして、少女から離れる。このままでは心臓がもたない。
目の前に広がる光景は、想像を絶するものであった。
広がっているのは花、花、花だ。大きな木に、小さな苗に、色とりどりの花が咲いている。その花は視界いっぽいを満たし、眼下に見える村を囲っていた。その村とて、花々でいっぱいになっている。
あまりにも現実離れした光景に、あぜんとする。
こんな場所は知らない。自分が最後にいた場所も、こんなところではないはずだ。
そんな少年を見て少女からは笑った気配がした。
「驚きましたか?」
「うん……ここはどこなんだい? こんな場所、ぜんぜん知らない」
まるで桃源郷だ。そう言うと、彼女は首をかしげた。
「そんな場所は知りませんが、あなたのいた地ではあったのですか?」
「いいや、ないからこそ、そういう名前がつけられたんだ。理想というか、苦しみのない地をそう呼んでいるんだ」
「もしかしたら、あなたたちがそう呼んでいる地はここかもしれないね。ここは花玲苑というんだけど」
少女は立ち上がった。彼女が着ているのは着物であった。薄い青色で、少女によく似合っていた。三つ編みにまとめられた髪が、彼女の性格を表しているようにも思えた。
けれども、その手に握られた打刀が彼女を異様なものにさせていた。明らかに人を殺めるための凶器をなんともない顔で、馴染んでいる。あまりにも様になっているのを見て、この少女は刀を扱うのに慣れているのがわかった。
上品な顔立ちと、物騒な代物とがどうにも噛み合わない。それでいて微笑む彼女の姿は、危うげながらもそれゆえに艶やかであった。
「やっぱり、あなたは外からやってきたんだね」
「外……?」
「うん。風に運ばれてきたんだと思う」
少女はそう言って微笑んだ。
どこか遠くから人や物がやってくるのことを、風に運ばれた、というのだと教えてくれた。
手を引かれて、少年は立ち上がる。立ってみると、少女の顔は自分の目線よりずっと下にあった。
「自己紹介が遅れちゃったね。私、スオウって言います。この地を持つ者であり、裁庭師っていう職に就いてる」
少女の名は、染料に使われる花と名を同じくしていた。見れば自分たちを囲んでいるのは、蘇芳の小さな花だった。
曰く、生まれたときに咲いている花を名にする習慣があるそうで、彼女が生まれたときに咲いていたのがたまたま蘇芳だった、というわけだ。
そしてその花が特に咲いているあたりを、自分だけの土地として与えられる。いま、二人がいる場所がそうだ。
他にも聞き覚えのないことばがあったが、それはさておき。少年も名を名乗ろうとした。
けれども、上手いこと口が動かない。ことばが出かかって、のどまで登ってきて、けれども無理やり飲み込まされてしまった。
「きおくがない……」
自分の中に、自分を明かすものの一切がなくなっていた。
名も、故郷も、身分も、思い出すことができなくなっている。
そうしてここにいるのか。どうやってここに来たのかもわからない。
ぼんやりとした知識があるだけで、それは何も証明することはなかった。
空っぽのつぼから何かを掬おうとする感覚が虚しい。
スオウが、頭を抱える少年の肩に手をあてた。
「きっと、ここにきたときに代償を払ったんだね」
「代償?」
「そう。ここは美しいものが暮らしてる場所だから、美しくなるために失ったんだ。ここに来るというのは、そういうこと」
「……何を言ってるんだ」
さっぱり理解できなかった。スオウはいったい、何を言っているのか。
外からやってきた。ここの生まれではないということはわかる。花玲苑の光景に、心当たりはなかった。少女を見たときのような感覚は一切なかった。
この里には、懐かしさがない。ここに置いてきたものはないということだ。
一方で、納得もする。どうにかこうにか生きているわけなのだから、何かを失ってしまっていることだってあるだろう。
けれども、呼び名がないというのはどうも不便である。せめて名前だけでも思い出せればと思うのだが。
「だったら、私が名前をつけてもいいかな」
「勝手につけてもいいものなのか?」
「あとできちんと、ボタンさまに伝えれば大丈夫だと思う。それに初めにその命を見つけた人が名をつけるのが、慣例だからね。えっと……」
スオウはあたりを見渡した。余所者である少年に対しても、命名の習慣は適用されるようで、いま咲いている花のうち誰にも与えられていないものを探しているのだろう。
やがて一箇所、咲いている花を見つける。それはとても立派な木で、記憶のない少年は不思議と馴染みを感じていた。
「サクラ。いまからあなたは、サクラね」
新たに与えられた名前。サクラ。
スオウが指差す先には美しい花が、揺れていた。その桜は風で花弁を散らすことはなかった。